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仕事選びにおける精神の跳躍と論理の力 ~『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで~

悪魔を信じる?

こんにちは。小澤です。
最近は小説ブームがきています。最近村上春樹の『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』を読みました。

この作品は「地味な少年多彩つくるが、昔の友達を順に巡って旅をする年」という、とても簡潔なストーリー構成です。この方のnoteがストーリーを上手に解説してくれています。

この記事では、物語の考察というよりは物語の中に出てきた文章に僕が感じたことをまとめます。登場人物の灰田と緑川の、悪魔についての会話です。

緑川「たとえば君は悪魔というものを信じるかね?」
灰田「悪魔?あの角を生やした悪魔ですか?」
「そうだよ。実際に角を生やしているかどうかまではわからんが」
「悪なるものの比喩としての悪魔なら、もちろん信じることはできます」
「悪なるものの比喩が現実の形をとった悪魔についてはどうだ?」
「それは実際にこの目で見てみないとわかりませんね」
「そいつを目で見た時には、もう遅すぎるかもしれない」
村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』P82

悪魔についての話は、ここから論理の話へと拡張されます。

「いずれにせよ、僕はここで仮説について話しています。その話を追求していくには、もっとはっきりした具体例が必要になります。橋に橋桁が必要なように。仮説というものは先に行けば行くほど脆くなり、出される結論は当てにならないものになっていきます」
村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』P82

さあ、この話は一旦ここでストップ。

ところで、「天職」を表す英単語として、callingを挙げることが出来ます。その意味は西洋的で、神による召喚、といったニュアンスです。
現在大学3年生の僕は、今年の3月から9月頃まで24卒として就職活動をしていました。今はとある事情で中断中です。その間、僕は就活のイロハに則り、自己分析をして、就活の軸を作って、そこから導かれる「仮説」に従って会社を選んで受けていました。ロジカルなプロセスです。
一方で、僕はどこかcalling的な価値観を抱いていました。より正確には、既にそこで僕を待っている天職に気づく体験がこの先の人生のどこかに待ち受けているのではないか、と期待をしていました。所謂「転機」です。そういう話はよく聞くじゃないですか。ユーグレナの出雲さんとかMOTHERHOUSEの山口さんとか🇧🇩。そこまで象徴的ではなくても、忘れられない体験や人との出会いが待っている気がしていました。

仮説は先に行けば行くほど脆くなる

この価値観が起点となって僕が慢性的に抱いていたのが、「論理への不安」です。自己分析や就活軸はどこまでいっても仮説でしかない。この仮説に基づいて自分の大事な将来を決めることが不安でした。
かといって、心の底から熱狂的にやりたいこととはまだ出会っていない。覚悟は決まっていない。天啓はまだ来ない。

論理か、精神か。

そんな時に出会ったのがこの文章です。

「しかし時としてそのような具体例は、それが現れた時点では、受け入れるか受け入れないか、信じるか信じないかという一点に帰せられることになる。そこには中間はない。いわば精神の跳躍だ。論理はそこではほとんど力を発揮できない。」
村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』P82

精神の跳躍とは、平易な言葉で言えば覚悟に似たものでしょう。これを僕の就活の話に適応するとこんなところでしょうか。

僕は様々な仮説を立てて企業を選んでいます。それらの仮説は、まだ入社して仕事をする以前の現段階においては、信じるか信じないかのいずれかでしかない。その中間は存在しない(存在しても意味はほとんど無い)。どれだけ理詰めで論を補強しても、仮説が仮説である限りその本質的な脆さは必然である。肝腎なのは、仮説を信じる強靭な精神である。過去20年から丁寧に勇気を持って導いた暫定的な自分像を信じて、その道を覚悟を持って進むこと。

この文章はこう続きます。

「たしかにその時点では力を発揮できないかもしれません。論理というのは都合の良いマニュアルブックじゃありませんから。しかしあとになればおそらく、そこに論理性を適用することは可能でしょう。」
「あとになってからでは遅すぎることもある」
「遅い遅くないは、論理性とはまた別の問題です」
村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』P83

論理は都合の良いマニュアルブックではない。その通りです。なんでも論理で突き詰めようとするのは不可能なのです。それを明確に書いてくれたことで、僕はある意味において救われました。
あとになってから論理性を適用したら遅かったケースというのは、「就活の時はあんなに考えて選んだ会社だったけど、やっぱり自分にあってなかったなあ」といったところでしょうか。僕はこうなる未来が怖くて脚がすくむことがたまにあります。しかしそれは、「論理性とはまた別の問題」なのです。論理でもどうしようもないことはある。ダメだったらダメで、その時考えればいい。そんなことを伝えたいのではないでしょうか。
ただそれと当時に、この文章は論理の無意味性を解いているのではないと思います。今自らを徹底的に見つめて論理を丁寧に構築すること。それは精神の跳躍の瞬間には役立たないかもしれませんが、健全な精神の跳躍の時系列的な前後には、論理性との接点が必要なのでしょう。まるで走り幅跳びの選手が試合前に入念に踏み込みの角度を研究するように。そして入念な準備を踏まえた跳躍の後にこそ、その選手が己の跳躍に満足するように。

「運命の出会い」は追い求めすぎない方が良い

もう一つ書いておきたいことがあります。今年の7月に読んだ、日本を代表するマーケターの森岡さんが書いた『苦しかった時の話をしようか』から、当時印象的でメモしておいた部分です。

君にとってのキャリアの正解はたくさんある。就職活動とは、まるでどこかにひとつしかない正解を探して追い求めることで、それを見つけ損ったら人生が大失敗するような不安が付き纏ってないだろうか?自分に向いた職能や会社、自分の目を開けてくれる上司や同僚、そういう「運命の出会い」というものがあって、どこかにあるそのたった一つの正解を探さないといけないと思ってないかな?
森岡毅『苦しかった時の話をしようか』P42

論理と精神について考えていた時に思い出した文章ですが、改めて心に刻みたいです。日々の生活、内省、友人との時間や旅行など、様々なことの蓄積の先にぼんやりと浮かび上がってくるものが、きっと僕に向いた仕事なんだろうと思います。

余白 -穏やかな破綻の道標

僕はどうしても物事を必要以上に丁寧に考えてしまう。もっと気楽に決断できたらいいなと思いつつも、これは僕のいいところでもあると思うので、もうしばらく悩もうと思います。感覚として、余白を始めてからここまで自分の進んできている思考プロセスは悪くない気がします。

どんなに穏やかに見える人生にも、どこかで必ず大きな破綻の時期があるようです。狂うための期間、と言っていいかもしれません。人間にはきっとそういう節目みたいなものが必要なのでしょう。
村上春樹『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』P72

僕は今、節目を生きている感覚が明確にあります。田崎つくるのような破綻ではないまでも、穏やかな破綻。今までの19年とは質的に全く違う1年を歩んでいます。その歩みの羅針盤でありエンジンとなっているのは余白です。余白の理想、余白を応援してくれる人の存在、余白の活動、そして自らが余白の一部であること。それが先の見えない節目を歩く助けになっていることは間違いありません。ここについてはまたの機会に。

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