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今度は帯問題勃発

川沿いに住む売れない小説家は、新刊に巻かれていて当たり前の帯を、あえて巻かないという目新しさに勝負を賭けた。はたして彼の本は、売れて重版がかかるのか、それとも水が戻った川に身を投げることになるのか。結果は『川沿いに住む売れない小説家は』をお読みいただくとして、それを書いた私が、来月自分の本を出す。

大失敗するかもしれないが、自分の本なら少なくとも作者には遠慮がいらない。そしてその挑戦にはお金がかかるどころか、帯にかけるはずだったお金が浮くのである。出版社にも止める理由はないだろう。書店にとっても迷惑な話ではないはずだ。

立ち読みでずり上あがった帯を元の位置に戻すという作業は、とても地味だが両手を必要とし、店を営業している限り永久に終わらない。

破れたり日に焼けたりすれば売れなくなるため、外して捨てて、時には取り寄せて巻いたりもする。読者としても、正直邪魔だなと思うことが多かった。本を読むときに、帯が何かの役に立つことはないのだ。

つまり、ごく控えめにいって、なくても別に誰も困らない。

しかし、長く続いた慣習を覆すのは、そう簡単ではなかった。本は次々出版され、ある程度システマティックに、パターン化して進めないと、とてもじゃないが間に合わない。

結果を先に言うと、私の本には帯を巻くことになる。

もう少し私の弁が立って、あと少し早く根回しできていればあるいは結果が違ったのかもしれない。だが、出版社には帯を巻きたい理由があり、それには納得せざるを得ない部分もあったため、今回は折れることにした。そしてその詳細も、ここには綴らない。大人になったな、37歳。

せめてもの足掻きで、帯のレイアウトや色は自分で決めさせてもらった。ピンク色とパープルを提案されたが、私のエッセイを読めば悪い冗談にしか思えないセレクトである。

「カリスマ書店員」という言葉も、断固として拒否した。今までヘラヘラと「そうですわたすがカリスマ書店員だす」と受け応えてきたが、これを読んでもなおカリスマ性を感じるなら、私の力不足である。

現実はフィクションのようにはいかない。

だが、時にフィクションのようなミラクルが、現実にも起きることがある。

私の本の帯コメントは、ジェーン・スーさんだ。

私から、ダメ元でお願いをした。ジェーン・スーさんに断られたら、断られたからと理由で、帯なしを押し通そうと思っていた。だが、受けてくれたのである。これはもう、帯巻いとけってことではないか。

川沿いに住む売れない小説家と同じ心意気で、私はそのコメントを、墓石に掘りたいと思っている。(重い。)





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