川1

川沿いに住む売れない小説家は①

川の流れる街に住むのが夢だった。

晴れた日には川沿いのパン屋で、あんことマーガリンをコッペパンに挟んでもらう。それを片手に、くるくると色彩を変える水面を、飽きずに眺めた。
だが、この街で季節を二巡、三巡する頃には、パン屋に行く以外、川のことを思い出しもしなくなった。そこにあることが当たり前になれば、どんなに美しい色に輝こうが、鳥が舞い降りようが、わざわざ目を向けることもなくなるものだ。

しかしその年は空梅雨に加え、真夏に快晴が続いた影響で、学校のプールは閉鎖され、この地域では異例の給水制限が発生した。
水が干上がったと聞いて、街の人たちはスマホを片手に川へと集まった。あるはずのものがそこにないだけで、川はかつてないほどに注目されたのだ。

人ごみにまぎれて、橋の上からひび割れた地面を見下ろしていた売れない小説家は、この注目を自分の本に少しでも向けてもらえないだろうか、などと詮無いことを考えてしまうほど、行き詰っていた。彼は本が売れないことに絶望して、入水自殺を企てていたのである。しかし、入る水がなかった。

街の真ん中を帯のように流れる川は、あって当たり前だったものがなくなっただけで、注目の的である。実にうらやましい。

川にとっての水のように、自分の本にあって当たり前のものといえば、文字だ。しかし、クラシック音楽でいうジョン・ケージの「4分33秒」(無音の音楽)のように、無文字の小説というのはいささかとがりすぎているし、白紙の原稿用紙に印税を払うほど、出版業界に余裕がある時代でもない。そもそも、自分が書いた小説を読んで欲しいのであって、売るために書かないのでは本末転倒だ。

水が干上がっても川は川で、地図からは消えることがないように、あって当たり前だが、なくても本質は失われないものって…。

茶色い帯のようになって地面にへばりつく川を見つめていると、自分の小説にもこんな茶色の帯がへばりついていたことを思い出した。棚で古びると、しょう油をかけた飯粒のような色になるし、外せば外したでカバーのらくだ色が目立って、実に間抜けだった。映像化も重版もしなかったから、新しい帯に変わることは、ついぞなく、近所の書店にある自分の本は、1年前から帯が破れたままだ。つまり、1年で1冊も売れていない。そういうわかりたくないことがわかってしまうのも忌々しい。

書店に並ぶ新刊には、いつの頃からか、帯が巻かれていて当たり前になった。「最高傑作」とか「泣ける」とか、水のようにきれいな言葉が目の端を流れ、もはや何が書いてあるのか誰も気に留めてなどいない。
水がどんなに美しくても、忽然と水が消えるほどの注目は集めらないのだ。

つまり、売れる帯の色やコメントを考えるより、とっとと外してしまったほうがいい。

売れない小説家は、どうせ川に水もないことだし、死ぬ前にもう一冊だけ本を出してみようと決めた。

帯のない本だ。

つづく

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