ただ居る記。第三回
二回目の、「ただ居る」を先週やってきた。
BUoYの二階スペースは、よくお芝居の打合せの現場にも使われているのか、この日は平日午後だったけど活気があった。はす向かいの机のでは、ムンムンとアイデアの気が立ち上っている。
僕はアイスコーヒーを頼みつつ、ぼんやりとしていた。
ただ居る。寝ているわけではない。その事実が、実はちょっとありがたかった。
正直、ここの所、多分だが、心の体調を崩していて、部屋の中でずっと寝ていた。
友人から数枚物書きの依頼があり、それで精神的に何とかギリギリ生きているのだけれど、12月にやる公演の劇場が、予約のあれこれでちょっと待ち状態にもあり、企画書も書かねばなあとかいろいろ思っているうちに、雨だったりして、どうにも心が上手く行かない。夜に起きてしまう。夜に起きて、ラジオばかり聞いてしまう。次回公演の題材のボードゲームの取材もしなきゃなあとはおもっているのだが。どうもぼんやりだ。
そんなわけで、昼間に起きて、「ただ居る」事が出来るこの時間、空間は、僕にとって早くも貴重な心の調整時間になりつつある。
そんなさなか、また「ただ居る」と聞いてきてくださった方が来てくださる! また、長々と話し込んでしまう。
初対面の方で、僕が作・演出した深夜ラジオを元にした『夜組』の公演を見に来てくださった方。演劇フリークな方で、実に興味深い話をたくさん伺う。
知り合いではない人で、演劇をたくさん見ている人に直接話を伺うのは、なんと貴重な時間だろう。
人はなぜ演劇を見るのか。僕もよくわからない。知り合いの公演ばかり見てしまっている。
劇作家としてこんなことではよろしくなく、オペラとか歌舞伎とか、ディズニーランドとか、四季、宝塚、ジャニーズ事務所の公演、あとプロレス、ロックフェス。見に行かねばならない沢山あるだろうに、どうにも動かない。プロレスや相撲なんか、前々から行きたがっているのに、どうにも踏ん張れないし、今人生で最も忙しくない日々に、布団から一歩も出られないというのは、どうしたものか。
特に、プロレス、見てみたいんだよなあ。見れば元気になるらしいんだけど……。メキシコのルチャみたいなのが、近所にやってたらいいのになあ。
今の状態の僕に必要で、やさしくて、でも口に苦い公演は、きっとあるはずだ。だが、そこに赴くことが、本当にむつかしい。
どうすれば、僕はそこにたどり着けるのだろうか。演劇やライブは、そこに自分の移動の意志で到達するという良さがある。その意思を、「がんばれ! ゴールに向かって、一直線や!」的な後押しで刺激するんでなくて、「なんか……ふらふらしてたら……いつのまにか……なんか……」の延長で、それはなされない物かどうか。
そういう風なお知らせの仕方、演劇へのお誘いの仕方は、できないものか。また、そういう風に誘いたくなるような演劇は作れない物かどうか。
その前段階として、リハビリのように、ただ居ることからスタートできるような観劇とか、できないものかどうか。
ぼんやり、喫茶スペースに、何もせず、居に来るということが、始まりになる観劇というのはどうだろう。いや、もういろいろしんどいと思うので、来なくてもいい。「何もせずに、居る奴が今、この時間居るんだなあ」と思ってくれるようになるには、どういう他人へのコミュニケーションのやり方、お知らせの仕方、発信の仕方があるんだろうか。そこから始まる観劇というのは、ありえないのかどうか。
太陽のような公報ではなく、月に照らされた地面に転がっているどうでもいい石のような公報のしかたはないものか。下ばかり見る人だからこそ、見つけられる、上向きの人には誰にも知られない広報。私だけにしか知らない情報。それを、道に転がしておくことはできないものか。
というか、今下を向く人が見つめられる道は、あるのだろうか。ストリートは消滅してしまったんじゃないだろうか。あるのはスマホの「検索しないと、情報が得られないもの」ばかりじゃないか?
帰り際、後輩の劇団主宰が居たことに気づき挨拶。さり気に居るじゃないか。いいなあと思った。僕の密やかな野心は、このBUoYのスペースが、特に何もしない作家でにぎわいを見せる事だ。
そのひそやかに賑わいを耳にして、何も手に持たない、表現の意志と身体だけでやってくる何者かの来訪を、迎え入れる空間が作れればなーとは思っているけど、弱くてもろすぎるのかな、そんな野心は。