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ある日の高校演劇審査員日記 その4
9月29日
審査が終わったのち、大会を運営した先生方とちょっとした乾杯。
本当はこんな感じの席が、高校生とあればいいなと思ったけれど、会場使用や、あと時間の問題もあり難しいときき、確かにそうだよなあ……今、高校生が集まることって、本当に困難だ。
理想を言えば、本当なら審査員のオファーを受けた段階で、僕は審査基準を示したかった。けどまあ、SNSで審査員を表明すると、公平性だとか、接触の可能性もあり、問題があるとのこと。
でも審査基準を示すとかないと、いわば運みたいな感じになっちゃわないかなあ。
や、審査員に合わせて演劇を作るなんて、ナンセンスな話かもしれない。でも「こういう観点もありますよ」というアナウンスは、あってもよかったのでは……未だにそのあたりは、どうあればよかったか迷っている。
ちなみに僕の審査の観点は
「教育空間の外側からの批評に耐えうる複雑さをもっているかどうか」
「10年後の自分がその作品を覚えているであろう、強度をもっているかどうか」
「面白く狂っているかどうか」
という感じかなあ。だから「シンプルに笑わすぞ」勢には、ちょっと不利な審査だと思う。そういうのも大好きなんだけどね。
……それをいまさら言うなって感じだよなあ。この審査基準、できるのであれば、演出を担う人の一人一人に雑談したかった。
さて先生方との乾杯の席で、いろいろ話を聞きこんだりした。東京都の高校演劇ルールの、例えば「消えモノ使っちゃいけない条例」について。
実は緩くしてもいいんじゃないか議論は出ているものの、大会の会場選びが凄く困難で、どうしてもその会場を貸してくれる場所ルールに寄ってしまうとのこと。
やー……東京って、会場選定が本当に大変らしい。高いのだ。ホールのお金が。
資金もないから、簡単になんちゃららホールって訳にもらしく。苦労がうかがえる。日程調整の困難さもある。それに加えて、教員としての日常の業務もあり、これは本当に大変なことだ。
「大会に出場するだけで、精いっぱいの奇跡」とも先生から伝え聞いて、そうかーそうだよなーと。ここまで来るのに、ドラマがある。人がいなくなる。何かが足りなくなる。練習ができない。時間が無い。脚本ができない。そんな困難でぼろぼろになりながら、ようやく劇にたどり着ける。
先生方に話を聞く中で、ふと、よく考えたら日々の授業って演劇なんじゃないかと思った。一クラス40人と言う観客相手に、「伝えたい事」を一人芝居でやる。でも僕、高校時代の授業なんて、ほとんど覚えていない。ほぼ毎日、授業と言う名の公演を見てきたはずなのにだ。
「クラスの半分に授業が伝わったら、いい方かもしれません」とある先生は言う。
「生徒は『よく見ている』」
「素で授業をする事が出来たら、より伝わるのかもしれない」
「教育実習の先生は、素で接する分、生徒の反応が違う」
等々。これはかなり貴重な話を聞けた。まるでこれは、演劇なのではないか。
たとえば自分が学校の先生のどの授業が頭に入ってくるか、好きか、何を聞いているのか。逆に嫌いな先生は、何が嫌いなのか、なぜ頭に入らないのか。演目(科目)の問題なのか。苦手科目でも先生が変われば、頭にはいるか。
授業と言うものを「50分の一人芝居」と考えれば、生徒は日々6本分の劇を見ているわけだ。そのなかで自分の好みの演目もあるはず。一つ選び、自分がなぜこの先生の授業が好きなのかを、演技することで、完全に動きを模倣する事で考えてみてもいいかもしれない。
なぜ自分が分かったのか、伝わるのか、好感を持つのか。動きをまねて考える。
モノマネではない。モノマネは誇張と特徴の切り取りという別種類の面白さだ。そうではなくて、とにかくトレースに徹する。黒板に書くタイミングは何か。何を黒板に書き、何を黒板に書かないか。何を見ているか。寝ている生徒をどう見ているか。トレースする。
そうすると、教師は、人であることが多分分かると思う。そして、教師を名乗る人が、実はその分野のエキスパートである事も。大学で研究をし、論文を書いたことのある人が、教師になっている。論文を書く情熱、知ってる事、伝えたいことがある状態で、教員は教壇に立つ。
授業を「つまらない」「つたわらない」「わからない」と思う自分は何故なのか。演劇部として、演劇というツールを使う事で、なんか分かるんじゃないかなあ。
この年になるとあるあるなんだけど、本当に高校の授業を受けてみたい。
国語と数学の授業を特に。今だったら違う姿勢で、授業という一人芝居を味わうことができると思う。同時に、高校時代に、何が退屈だったのかも忘れてしまっている。ノスタルジーでなく、それ2つをどこかでまた味わえたらいいなあ、とか、思ったなあ。