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演劇以前の演劇の話【第0回】

 私は劇団を主宰し、演劇を、まあまあやっている人である。
 なので、演劇について、なにか話したり、書いたりしたら、世の中の人々に何かお役に立てるかもしれないなあ、とは思っていた。思っていたがしかし、私のやっている事は、はたして演劇なのだろうか? と思う事が、しばしばだ。

 たとえば、演劇をするために、稽古をする。
 じゃあ、その稽古は、どこでやるのか。

 私のやっている演劇は、ほとんど金銭的な利益が出ていない。むしろ、赤字だ。やればやるだけ、死ぬことになる。
 死ぬのは別にどうでもいいとして、出費を抑えなければ、演劇の公演をすることができない。
 たとえ借金してその瞬間は成立したとしても、演劇は単発で終わってはいけないのだ。連続する線として活動しなければ、運動にはならない。単発では、人が観客にならない。観客が革命戦士にならない。革命戦士が、武器をとり、竜に乗り、魔法を使わなければ、魔王を倒すことはできない。魔王倒して姫と全銀河を救うために演劇をやってる。

 だから、出費を可能な限り抑えて、次へ、また次へ、劇ができる体制にならなくてはいけない。ちゃんとお金を積み立てて、弁当代を浮かせて、助成金も申請せねば。それもこれも、全銀河を守るためだ。

 そこで、稽古をする場所は、公民館を利用する。理由は安いからだ。
 安い、といっても、高い。私は東京に住んでいるからだ。

 東京の都内の公民館を利用するのだが、東京だと区が運営するところが多く、そして区民館とは、本来であれば区民の皆様が、区を活性化したり、区で生き生きとした生活を送るため、区のため、人のために存在している場所だ。演劇のためにあるわけではない。
 区の人間ではない私たちがその場所を借りるときは、区の人が誰も使わないときに、申し訳ないなあという気持ちと共に、区の人々の二倍の料金を払って使わせていただいている。

 しかし、二倍だ。

 二倍ということはどういうことか。つまり、二倍死ぬという事である。
 死ぬのは別にどうでもいいとして、その出費を抑えなければならない場合、どうすればいいか。

 区民になればいい。
 区民ならば、1/2の料金で稽古場を確保でき、さらには、日程も優先的に予約ができる。万々歳ではないか。
 しかし、区民の道は険しい。区民になるには、区に、住まなければならない。しかも区民になったとしても「ひと月に6コマ分のみ利用可能」だったりする。区民だからといってずっと居続けることはできない。だからあちこちの区や施設をまたいで、稽古しなければ。
 私は大体、1公演での稽古回数は、35回くらいやりたい。一施設6コマが上限ならば、どこか、いかねばならない。どこか遠く。遠く。区をまたぎ、どこまでも。

 しかし私の身体が一つである以上、複数の区で稽古するには、分裂しなければならない。
 じゃあ、体を23に引き裂き、23の肉になったわたしを23区に住まわせればそれでよかろうか。や、そんなことをしては、普通は死んでしまう。

 死は、まあどうでもいいが、引き裂かれた肉を見て、区の職員さんは「ああ、わが区で生活しているなあ」とは思ってくれないだろう。こんな方法ではだめだ。

 だから、私は他人と関わり、区民と知り合いになり、区民を巻き込み、区民に申請をしてもらい、稽古場を取ることになる。

 演劇をするために、稽古をするために、稽古場を確保するために、区民を仲間にするために、区民を探さなくてはならない。

 私はこの区民探しを、東京で演劇を始めてから10余年、ずっとしている。
 10年中、8年くらいは、区民探しをしていると言っても過言ではない。同期や年下が華やかに舞台を彩り、世界で活躍している横で、私は区民を探し、区民と話せないかどうか、頼めないかどうか、今、区民に話しかけていいタイミングかどうか、電信柱の陰にかくれて、じっと話す機会をうかがっている。

 だが、ほんとう、話せない。私は人と話せないのだ。
「あ、区民だなあ。区民がいて……通り過ぎていくなあ」というのを、私はずーっと、路上で立ち尽くしながら、困りつづけている。

 困り果て、おまけにお金もないので飢えで死にそうになり、意を決して知り合いに連絡する。

「……区民はいないか。今欲しいのは、豊島区民で、5名以上が団体登録に必要で、しかも申請書類を窓口に持っていくとき、証明書を出してくれる人が必要なのだ」。

 そう、言いたい。言いたいが、そんなことを言われても相手は困るのではないか、迷惑なのではないか、これは名義貸しであり、不正なのではないか。そもそも演劇の稽古を区民館でやるのは社会にとって迷惑ではないのか。本来使用するべき区民の人のコマをとってしまう行為なのではないか。生きない方が迷惑をかけないで済むのではないか、という思いが交錯し、結果、無言になってしまう。

 無言のまま、今日も誰とも話せず、1日が終わる。

 これは、演劇だろうか。私は、演劇をしていると、言えるのだろうか。

 ずっと、演劇以前の何かをしている気がする。演劇をしたくて、演劇をしようとするときに、それ以前をずーっとやり、その積み重ねのおかげか、一瞬だけ、演劇になる。

 だが、公演期間が終わったら、また演劇以前に戻る。また区民を探し、迷惑をかけて申し訳ないと謝り、許してもらい、演劇の準備をする。

 こういう、演劇以前の演劇の話――稽古場を確保するために区民間の団体登録用の区の住所に住んでいる人の名義を貸してもらうようお願いをする――話って、あまり語られていないと思った。
 というより、語る価値もないと思われているのかもしれない。
 無視されている。
 だが、演劇をやっているという私の日常の大半は、演劇ではない、演劇以前にみちあふれている。

 そしてこうやって書いてみたけど、私って演劇(の稽古)を、区にとって、社会にとって迷惑なものと考えているんだなあと、ふと思った。

 こんな風に演劇以前を見つめることも、演劇の事を考えるきっかけになるのではないかなと思いつつ、うまく見つめることができたらまた、こんな風に書かせてもらえたらなあと……思う次第です。

山本健介


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