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ある日の高校演劇審査員日記 2021年夏 その5

 「その1」から長く書いてますが、東京都城東地区高校演劇新人デビューフェスティバルで一人審査員した話の、今回は総評といいますか、あの……どういう風にして賞を決めるっていう話を考えたいと言いますか。

 賞。そう。審査員として呼ばれるってことは、賞、決めるんだろうなあと思っていたら、これが結構大変だった。量が。という話をします。約9000字ほど……目次すらたたまれてしまう長さよ……。
 今回のシリーズはこれが最後なのですが、高校演劇の審査員をやるひとがが賞を決めるとき、こんなこと考えている奴がいたんだなあという事を参考にしていただければ幸いです。

「最優秀賞」の仕組みから考える優劣を決める意義

 審査員として「最優秀校」を決めるのだけれど、2校。
 それは1日ごとに「最優秀賞」を決める。初日は初日の中から、2日目は2日目の中から1つという感じで。だから最優秀はトータルで2校という決め方ではなく初日1、2日目に1、という中での最優秀決め。
午前午後で人が入れ替わるので、全員が全員、お互いを見られない状態での「最優秀」が決まる。

 きっと本来は午前午後入れ替えがなくて、その場にいた全員が見て、共有した中で最優秀が決まる、というプロセスに意義があったからこそ、1日おきの最優秀決めだったんだろうかなあと思った。今回はコロナでそういう処置をとらなくちゃいけなかったんだろうなあ。

 高校演劇って、地域ごとに区画があり、大会があったらその中で最優秀を決めることとなる。これってよく考えたらヘンなのか。土地で括られた中での優劣なんて。
 ……や、甲子園とかはそうか。高校野球も、県別の区分け、地域別の区分けで勝敗をあれこれ決めるということになるもんなあ。
単純に、人が集まって何かをするときに、地理的に近い者同士の方が集まりやすいから、そうなるよなあ。

 ではなぜ、演劇もわざわざ集まって優劣を競うべきなのか。
 自分自身では動かしようもない「地域の区画」でくくられた中で優劣を競うというのは、何の意味があるのか。

 一番の目的は教育的な効果なんじゃないかなあ。
「皆さんが目の前で見て共有した経験の中から、一番面白かったのはここですよ」というのを、参加者全員が集まって、共有する。
 ↓
 共有することで自分自身の技量が上がり、ひいては地域の面白さのレベルが上がるということ。この目的のために、わざわざ最優秀というものを決めるのだろう。
 けっして、ただ誰かよりここが面白かったーで終わるのではなく。「今そこで見たものの結果を共有し、自分の技量アップにつなげる」が、最優秀を決める最大の目的、効果、意味なんじゃないかなあ。

生徒審査賞の意義

 この会には「生徒審査賞」というのが設けられていて、アンケートが全員に配られており、感想を書くという事をしている。
 これは重要な事で、やっぱ一番いいのは、「お互い見て、見られる」ことなんだと思うんだよなあ。
 古代ギリシャで市民が演劇を交代交代で行っていたのと同じことをしている気がする。
 同世代、ほぼ同条件、同時期の他の人間が、どういう動きをし、どういう結果出すのかを共有し、そしてできれば交流……「楽しかったです!」以上の、なんだろうな、感情と技術の交換がとても重要。
 できれば……僕の審査の講評に時間をとるよりも、だらだらと、30分でもいいから他校の生徒に「面白かったです」を言いあううためだけの、自由な休み時間があればよかったんだよなあ……。

 今回の「生徒審査賞」が設けられていることで、これがすごく良いのは、自分の出番があるにもかかわらず、ちゃんと見るんですよ。それがすごくいいと思った。
 見て、感想を考えて、伝えようとするって、すごくいいし、重要なことで。
「見ました」と言うためには、見なければならないし、伝えなければならない。
 そして「見ました」ということを他者に伝えることって、何かを見せようとする人にとって、自分は何を見て心惹かれたかを言語化することになるから、すごい修行につながるのよ。

 生徒審査賞は、それで受賞をするとかそういう所に意義があるのではなく、一人一人が「見る」「伝える」「審査をするため考える」ところに意義があるんだと思った。
 面白くなりたいと思った人は、「見る」「見ました、と誰かに伝える」が、一番レベルが上がると思うんですよね。

「優秀校選出」と「創作賞」と「最優秀新人賞・男女」を決める意義とは

 えーとなんだ、話がそれたようですが、その最優秀決めの他に、最優秀に次ぐ次点の「優秀賞」一つと、さらに11校なら5校、10校なら4校、普通の優秀賞を決める(含む次点)。さらに、生徒創作に送る「創作賞」も1つ。それからそれから、最優秀新人賞を男女で1名づつ、これも1日ごとに。これらを決めるっていう……。

 見なきゃいかんところ盛りだくさんであるし、さらに気をつけなきゃいかんのは、いわいる「僕の好み」とは違う、ちゃんと説明できるようにしなきゃいけないなあと、覚悟したのだった。
 そうでなければ申し訳ない。
 そもそも教育的効果だけで考えれば、生徒審査賞で事足りるわけですから。
 それでも審査員に……「演劇を生活にしている変な人」に、わざわざ賞を出させるというのは、生徒審査賞とは別ルートといいますか、他者として、教育の外から来た「稀人」として、何か「別の目で見た」というところを、示さねば。

 さらにもう一つ要素としては、最優秀にした高校は7月に「短編演劇発表会」という大会に出るらしい。
 つまり、ここだけでは終わらない話なのだ。だからこれは、ただその日、「面白かった」「ウケた」とは別の軸が必要だなあと思った。

審査員として高校生に対する申し訳なさ

 これはだから、実作した高校生には申し訳ないけれど、事前にちゃんと「こういう考え方で審査します」というのを伝えることができないままの、いわば「後で審査基準がこうです!」みたいなのを言うのって、大人の都合による後だしジャンケンなんじゃないかなあとも思い、申し訳ない気持ちがある。
 採点競技だったら事前に審査の加点ポイントを伝えなさいよ、そんな観点しらないよ、後でいうなよ、というね。
 ただまあ……いろいろあったんだろうなあ。事前に審査員が臥せられたりするのって。連絡を取ったりするような事が不正につながらないように。どうしても演劇って、評価が個人の情みたいなところに寄りがちに見られたりするし、過去にそういう事があって今に至るのかもなあ。

今回の審査のポイント

 今回の発表会の枠組みって「新人デビューフェスティバル」という名前じゃないですか。新人さんを立てて、フェスティバル、つまり楽しむことが最上、という風に、ぼんやり思うわけです。
 僕もそのつもりだったけど、そうか、最優秀はさらに、次があるのかーと思ったときに、基準が変わったと言いますか。

 次の発表会に推薦するということは「ここではない別の観客に、この劇は見せる必要性、価値、すばらしさがあるかどうか」が、最優秀を選ぶときに重要である、と考えました。

 この場でとても面白かった、新人さんがちゃんと舞台を踏めた、以上に「観客の向こう側」に劇を向けたイメージがあったかどうか。

初日の最優秀をどうやって決めたか

 そういう観点から考えると、初日の最優秀では「関東第一」を推したのは、参加した20校の中で、「外へ向かう力」。つまり、デビューフェスの枠組みを超えた向こう側の観客を最初からイメージして作品作ってるなあと感じたのだった。
 もっと多くの観客を、より他者を、どん欲に必要としてるなあと。

 別に他の高校を下に見るわけではないけれど、そして、もう、精一杯、というのはわかるけれど、「上演できたことだけで目的は達成」という所が、どうしても多い。や、それは、もう、素晴らしい事なのよ。
 ただ、それ以上の目的を持っていて、それに挑み、実際に圧巻のパフォーマンスが入ると演劇というものをもう一つ、違う所で運用しているなあと。

 上演はもはや前提。さらにそれ以上に、自分たちの力、情熱、技術、演劇に熱量があることを、多くの人に共有してもらおうとしていた
 実際と、それに見合う力と思想のあるものを、関東第一からは感じたし、その目的を策定できるだけのチームとしての部の歴史も込で、強いなあと思った。
 そう、この「外に向かう力」は、この年の、単年だけで出来ることではきっとないと思う。積み重なった部の歴史や層の厚さ、歴代の先輩たちが積み重ねていったことが、こうした「どんな状況でも上演は当たり前にできる、と言う事を信じて疑わない」「上演は絶対にできる。お客さんに面白いと思ってもらう」みたいな、前提を作ったんじゃないかなあ

 ただこれは、この「最優秀」が次の発表会につながるものだったから推したのであって、僕が初日の回でもっとも素晴らしいなと思ったのは「都立深川」のものだった。

初日の「次点の優秀校」をどうやって考えたか

 深川は、唯一無二の雰囲気、この人たち以外では交換不可能な身体の魅力、空気の魅力を感じたりして、ここの、この瞬間でしか見られない変な時間……? というものを、僕は贅沢に味わったなあと。
 もし最優秀というものがこの会だけのものであれば、ここに推していたかもしれない。
 僕が思う演劇のおもしろさって、「唯一無二の交換不可能な固有の変な感覚を、他人と一緒に稽古をしてその感じが伝わりづらい他者にも面白がってもらおうとする」所だと思っている。
 だから、すでに誰かがやってるもの、既にある価値感をなぞっているものよりも、言語化不能な唯一無二の「そこにただ居るあなた」を、面白がってもらうことがいいなあと。そういう個人的な価値観もあって、高く評価しました。

 ただ都立深川には、前述した「外に向かう力」……多くの他者を、観客を必要とする性質の内容ではなかったかもなあと。
 観客に何かを変えようとする野心より、「上演の達成」が目的のようにも見えた。
 その、……思想の差っていうんでしょうか。面白いというのは前提として。わずかな差としての劇に対する思想。より、他者を求めているかどうか。

 あと、次の発表会へ残り1か月で、どちらがより面白くなるかなあと考えると、都立深川の演目ではここがマックスかなあと。より面白くなる可能性は関東第一の方が多くなると思ったりして、そういうプロセスで決めました

初日の他の優秀賞はどう決めたか

 優秀賞は他、「順天」「都立橘」「潤徳女子」「淵江」に考えました。
「順天」はその構成力の強さ。
「都立橘」は序盤の熱量、俳優の技術、エネルギー総量の高さ。
「潤徳女子」はその題材選びの良さ、自分たちちを生かす設定の発明、そしてワードセンス、世界観の面白さから。
「淵江」は一人一人のキャラ立ての工夫。
 と言ったところが面白かったです。

 何が優秀賞を取った、とらなかったかの違いで言うと、ある種の「間違えちゃいけない」「演劇をちゃんとやんなきゃいけない」という感覚から自由になっていたところかなあと。
 この「ちゃんとしなきゃいけない」がクセもので、なんというかなあ、演劇のちゃんとって、そういう所じゃない……「そういうの」って何かと言えば、こう、ぴしっと体裁を守るとか、セリフを間違えないように言うとか、なんというか……「怒られないようにする」から解放されてほしいなというところです。

初日の創作賞はどう決めたものか

 「創作賞」は、「順天」と「深川」と迷いまして。どちらもすごくいい構成とセンスだったんだけど、フォーマットを利用して、そのフォーマットからさらにもうひと展開した工夫(ヒーローを直接描かないで話を転がす)が、わずかに勝ったなあと思い、深川にした感じです。

 この「もうひと展開」というところが、創作において重要な部分なんじゃないでしょうか。ひいてはそれは「オリジナリティ」というところかも。
オリジナリティとは、「完全なゼロから出現したイチ」、というだけではなくて、既にあるイチに足された数が「අති විශාල සංඛ්‍යාවක්」みたいな、人類が見たことのない数が加わった! ということもオリジナリティだとも言えます。僕はむしろ、そう言うものを作っていくこともこれからのオリジナリティに必要な事ではないかなあと考えています。

初日の最優秀新人賞を決めるにあたって

 で、大変だったなあと思ったのは「最優秀新人賞」という、俳優に向けた賞で、これがなあ。この20分の劇で、ぱっと見て面白かった人、以上の視点をなんとか考えないとなあと思い、作品を見るのと同時並行で人も一人一人見なきゃなあというのがすっごいプレッシャー。

 ただ観点として、「作品の機能以上の何かになっていた個を感じられるかどうか」みたいな……。
「作品→俳優」ではなくて、「俳優→作品」になりえていた人、みたいな感じ……伝わるかしら……。作品に立たされている人ではなく、作品を立たせる人であったかどうかなあという観点で、考えました。

 そんなわけで関東第一のセンターのポジションというか……主役を張っていた女性の人と、都立橘の、脚本の意図(オタク的な展開で笑わせようとしていた)を大きく超えて、役の人となりを見せることができていたパンティ持ったオタク役の人を二人、素晴らしかったなあと思い推したという感じです。

 他にもいい俳優だなあー目についたなあと思ったのは、「淵江」の(この人は新人じゃないけど)鉢巻き付けた女性役、「順天」の魔王とやり取りする男子生徒、「潤徳」のツナマヨ、「関東第一」の男プロデューサー、のこの辺りの人たちはパッと目について面白かったなあ。

 これが、劇の役割をさらに超えたところに自分を持っていくと面白いんじゃないかなあと思います……というのは、僕の偏った演劇感かもなあ。「きちんと劇の構造、演出のオーダーの範囲に収まるのがいい」という考え方もあるしなあ。
 ただ僕は、それでも「個」が出てきてしまうのが、いいと思ってたりして。

2日目の各賞をきめるにあたり迷った事

 新フェス2日目の受賞理由考察ですが、最優秀は、実は「都立東」か「開成」か「都立篠崎」の3つの中から、すごく迷い、迷いながらもやはり、推薦校は次の発表会に出る、いう点を加味して、外に向かう力を感じた「開成」を推し、次点に都立東、創作賞に篠崎を推しました。

 開成のネックは、やっぱこう、「稽古不足から来るミス」がなあーと。稽古沢山しててのミスならいいんだけどなあーと、葛藤しながらも、それでも20分の短編の演劇として、構成の面白さと、キャラの空気、センス、そして、これもフェス内ではおさまらない外に向かう力があるなあ、つまり、演出があると。

 迷った2校にも、演出はあったけど、それは内側に向かう演出というか……。知らない、他者に対して準備しているものではない質なのかなあと思い、そうしました。
 だから、これが次の発表に進む、みたいなのがなければ、都立東か篠崎の二択で考えていたのだったと思う。

受賞に至らなかった理由とは

 都立東の面白さ、ロークオリティのハイクオリティさを見せる、逆手に取った面白さは、やはりどこか、この場限りの良さ、面白さに見えてしまった。
 外に向かう力にするには、もう一工夫必要だった。「面白いね」、という所で、消費されてしまう。その消費されえない何かがあったらいいなあと思った。

 都立篠崎の創作賞にしたのも、テキスト、世界観、俳優の技量もよかったた。強い「これがやりたい」というものがあり、こだわりが特に強く感じられたからだった。

 ただ一方、脚本を「演劇」として展開しようとしたときの技術、経験、見せ方がやや足りなかった。
 これはでも、時間と公演回数と、演劇としての展開の仕方の工夫をこつこつと積み上げていけば解決するとは思う。とはいえ、一番むつかしいところではあるんですけどね。演劇としての見せ方は何がいいのか、というのは、演劇をやり続ける人が一生迷う事でもあると思います。
 
 他の優秀賞は「紅葉川」、「東京成徳」。
 紅葉川はあるあるの題材を俳優のクオリティでしっかりと見せることができ、東京成徳は華やかな世界観とキャラクターの造形、オリジナリティある設定を、衣装や各部門が全員でよく仕事をしていたところがよいなーと思いました。

 優秀校は他にも「都立上野」と「都立忍岡」とも迷いましたが、オリジナリティという点……他では見たことのない題材かどうか、何かのパロディでになってないか、という点で考えると、やや至らなかったかなあ、というところ。
 紅葉川、東京成徳、上野、忍岡の4校から、2校を絞るのが迷った感じでした。

賞を「呪い」のつもりで有効活用してもらいたい

 で、最優秀新人賞男女。これも選ぶのを、どうしたものかと。
 いって見ればこれは、ただの「最優秀でしたね」という言葉であって、ある種、呪いでもあるわけじゃないですか。
 賞だからってお金が手に入るわけでもなく。だれに呪いをかけたら、この呪いを有効活用してくれるのだろうか、と……。

 そんな中でも、なんかこう、目にはいったのが、忍岡で、赤シャツの着ていた、数多くいる魔法使いの弟子役の一人の方。
 この人の演技の時に、世界が突然立体化する感じ。目立つ。目立ってしまう。その目立つ感じに、本人はどう思っているのかなあと。僕はこれを、称えたいのです。その目立つ感じに。
 目立つ感じを、本人がもしかしたらポジティブにとらえていないのだと勝手に想像してしまった。

 だとしたら、賞と言う名の呪いを与えたい。

「あなたは面白い人で、もしかしたら幸せにはなれないかもしれないですが、これからも表現に携わってほしいです」
 という呪いのつもりで、あれしました。忍岡高校の感想にも書いたけど、なんというか、その上手さを作品のため、みんなのためではなく、本人のエゴにもっと使ってほしいのです、ダークサイドに落ちて、枷を解き放ち、力で銀河を支配するような感じで。
 そうやって一度闇に振り切ったほうが、力のためにもいい事だと思うんだがどうでしょう。
 この呪いを有効活用していただき、ご本人の幸せかどうかはさておき、表現界隈に残ってくださったらうれしいなあ。

 男性では、都立東の青ダヌキ役の人に。
 この人は、や、上手いとかではなくて、でも、彼がそこに居ると、彼から何かが始まる予感がある。
 この「始まる予感」を出せる人はレアなのと、あとこういった賞があれば、なんかこう……変な事をやってくれそう。悪い意味での失敗もしてくれるんじゃないか、という期待を込めて。
 なんか賞を受賞して、何らかのアクションを期待したいのです。良かれ悪かれ、そのままだったら確定していた未来を、「賞」を受けることで、歪んでほしい。化学変化が見たいなあという所がありました。

賞ってあなたに必要なものなのでしょうか?

 他にも上手い人として、都立篠崎の白い衣装の、作られた人間の女の子の人と、あと新人じゃないけど女殴る男役の人(女性)はすっごいハマっていたなあ。作品の質と本人の資質が合ってたのかもしれない。都立上野の悪の女幹部役も役にキマッていたなあ。
 男性だと都立江戸川の、主人公の男の人は、器用であきらかにうまい。

 上記の人たちは、僕からわざわざ「あなたが最優秀です」と言われなくてもうまいし、これからもやっていきそうなので、別に賞がなくてもいいやと思いました。
 ただ上手いだけではなく、その賞で、何かおかしなことが起きるかもなあという予感が、審査員が人に賞を出したくなる動機にもなるんじゃないかなあ。

 賞が欲しい人は、そのあたり自分自身を見つめてみてはどうでしょう。
 賞があろうがなかろうが、自分の運命が変わらないっぽい人は、別に要らないと思います。
 いいんです賞なんて。僕も賞、貰ったことないしなあ。
 その代わり、自分は何をされたり、どんな体験をすると自分が歪むのか。変わるのか。それを考えてみると、創作で行き詰った時何か示唆があるかもしれません。

 あーでも、賞あると、生活が安定するんだよなあ。
 生活のためにも、誰か僕に賞、くれないかなあ。賞あればもっとこういう審査員とかしたときに、読者に届いてくれる確率が上がる気がするのになあ。賞、悪用したいので、本当だれか、賞下さい。活用します。

審査員をしての感想は「やっぱ怖い」

 ただ本当……賞を決める事って、これは本当に怖い事ですよ。重ね重ねいいますが、今回一人審査員なわけです。本当……自重しないと。考えないと。本当、頭おかしいことになる。
 権力。怖いなあと。一方的に「あなたに賞あげます」ですから。本当勘違いする。

 だから今回たくさんツイートしたりnoteにまとめたのも、せめて、自分がどういう思考のプロセスを経ていたのか、情報を開示しないとあまりにアンフェアだなあと思ったからなのです。
 脳内と言う密室で、政治をしてはいけない。「最優秀」とは何ぞや、という議論の下地にならないとと。

 演劇にとって「最優秀」とは何か。最優秀を決めるお前は何者なのか。たった一人で、20の高校の運命を左右する器にあるのかどうか。

 ……そういったことをですね、あれするためにも、考え方、「最優秀」を決めた思考のプロセスを書いてみました。
 こういう考え方をしています、という自己紹介のような気持ちです。

てやんでえ、でいてほしいなあ

 そして参加した演劇部の人も、こう、もう一人一人表現者なので、こういう、僕のような、権威を振りかざす悪い人間に「てやんでえ」という精神を持っていただきたいたいなあと。
 いろいろ言ってますが、僕自身に粗はたくさんありますし、見えてないところがたくさんある。真に受けず、「こいつこんなところしか見れてないのか」と、怒りとか、あるいは、次なる劇の作戦のために……審査員をぶん殴る次なる演劇を作る何かになっていただければと思いました。
 てやんでえ、と思ってほしいなあ。てやんでえ精神なあ。

最後に。2、3年生がすごい。を僕は見た。

 あ! あと今回、高校演劇見てて本当よかったのは、「2、3年生がすごい」
 今回見たのが新人、つまり1年制中心の劇作で、1年をデビューさせるための劇だった側面もあるんだけど、どこの高校も2、3年生が上手い。
 これはどういう事なんだろう。だって1年間、コロナでろくに練習も発表もできなかったのに

 この1年を、2、3年生は無駄にしていなかった。
 この公演に関わっていた上級生の多くは、1年生に背中を見せられるくらい、なんか上手かった。や、たかが1年違い、1歳違いのはずだろうに。なんでここまでちゃんとしてるかなあ。

 裏方的な動きを見てても、2、3年生は本当動いていた。都立上野のトライアルタイムで指示を出していた、多分3年の女性とか、会場校にもなった関東第一の上級生の赤T青Tの二人組のしっかりしてる感じとか。
 僕は見たなあ。2・3年の裏方の、すごいいい動き。

 僕は見たよ。見ました。

というわけで高校演劇についてのあれこれはいったん終わりまーす。
またいつか、高校演劇の審査員に選ばれたらたくさん書きますー。

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