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ある日の高校演劇審査員日記 その1

 2019年の9月、高校演劇の審査員を初めて務めまして。その時、ツイッターに書いてたものをまとめてみました。
 一つ一つの演劇部の演目にコメントと言うか講評してたってのもあり。ツイッターだと流れてしまうけれど、アーカイブとして再掲載という感じです。審査員というものがどんな気持で、どんな風に思っていたのかと言うのの一助になればと思います。

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9月22日
 今日は何してたかというと、高校へ行きました。高校演劇地区大会の審査員。僕は東京・城東地区のAブロックを担当。
 今日見たのは五校。明日は六校見て、日が飛んで28日にまた六校見る。その中から中央大会(都大会)に推薦する2校と、上に行けなかったけど面白かった高校の6つを選考するのが、東京の地区大会の高校演劇審査員の務めだ。
 僕の他に青年座の千田恵子さんと革命アイドル暴走ちゃんの二階堂瞳子さんの3人。この3人で話し合って考える事となる。楽しかった一方、講評の時、
為人謀而不忠乎
與朋友交而不信乎
伝不習乎
(本当に人のためにやれた? 嘘ついてない? 自分でもわかってない事言ってない?)
 と思ったり。特に「伝不習乎」……とこれは論語の中の曾子の言葉で有名な「三省」という奴である。論語の学而の中で、四番目のフレーズ。孔子の孫弟子のはずの曾子の言葉が、論語の頭からかなり早いタイミングで記されている。
 習わざるを伝えしか? ……自分でも演劇の事はよくわかってないのに、変な事言ってなかったかなあ。曾子ってプレッシャーだったんじゃないかなあ。それなりに頑張って、年下になんか言わなきゃいけない立場になった時に、「三省」……何かを言うたびに、「本当にあれでよかったのかなー」とか。本当に人のためだったのか、嘘はなかったか、分かってないことを伝えてなかったのかどうか……みたいに思ってたのかなーと思った。

 せっかくなので、城東地区初日のレポートを。

1【都立篠崎】『俺はきっと桜の花を好きになれない。』
 生徒創作。というか、今日見た高校のすべてが生徒創作であって、それすごくいいなあと思ったのだった。
 主軸になるのは4人の高校生の話。つかず離れずの男女2人が、とある事件に巻き込まれる事で「桜病」なる病気に罹患する、というあらすじ。

「桜病」という設定がとても面白い。桜に関する事を見聞きすると、感情が高ぶってしまい、狂ってしまう。微妙な関係の4人のうち一人が暴漢に怪我をおってしまい、その恋人だった女の子が「桜病」を発症する。桜に関する事を見聞きすると発作のように残りの二人に当たってしまう。
 ……と、その設定そのものはとても面白かったけれど、作家の興味は「4人の人間関係」の方に向かっていたように見えて。その大半が「その4人を説明する事」に始終してしまった。説明セリフの大半は、行動やしぐさ、距離と言った、言葉ではないところで表現ができたんじゃないかな。

 書きたいところ、やりたいところはものすごく伝わる。「明らかに変なのはそっちだよ」と。「悲しみや怒りを普通にやり過ごそうとしている、世間の方だよ」と。不条理な暴力や不幸に対して、平静を装う人達の方がおかしいのではないか。狂っているのは、つらい事に対して叫び声もあげられない私たちの方ではないか。前向きを強要される世界の方がおかしくないか、と。
 そういうバッグボーンもありつつ、でも物語的にはそこに踏み込まず、男女の恋愛の方に力が入ってしまった感じがする。トータルで「全部理解されなくてはいけない」という力が入りすぎていたようにも思える。演技もそうみえて、書かれたものに対して、分かられようと、必死に伝えようとする姿勢になる。
 そうなると身体は「心情からすべて分かられなくてはならない記号」に歪んでしまったように見えてしまって、窮屈に見えた。
 そこに人がいなくなってしまう。
 今回の劇であれば、「桜病」の蔓延する中で生きている「人」を見たかったなあと思った。何かを伝える媒体ではなく、そこにいる「人」。

 ただなあ、「人」って難しい。人を演じる。また、人の言葉を書く。会話だって難しい。それが、「桜病」の発作の時、モードが「対話」になる。日常の友達とのコミュニケーションが、不意にモードが変わる。そのモードの入れ替わりがこの題材の胆かなあ、とも。

 講評が終わった後、作家さんや演者さんの数名が追加で話を聞きに来てくれてうれしかった。感じたことを沢山話させてもらった。初脚本だったのかな。次からは、説明の言葉とは違う言葉で世界を構成することに期待したいなあ。
 俳優の中では柊役の人が際立っていたなあ。感情の上げ下げ、笑いをとる動きから真剣な語りと、全方位に力を振り絞っていた。その力の振り絞り方が出来れば、次は「抑制」の方向にも挑戦してもおもしろいかも。

2【都立忍岡】『花が舞う頃に』

 これも生徒創作。ここは俳優の名前と役名が一緒で、高校生もの。
 一人の高校生が死に、残された高校生たちを見つめている。「片思いをこじらせると口から花を吐く」という奇病を軸にしながら、人を好きになるという事を、死者は見つめる。というあらすじ。

 講評でも言ったけれど「死者は、どれだけ語っていいのか」と思ったり。
 今日見た高校の、ほぼすべて、死が出現する。登場人物の誰かは死ぬ。死んでいる。死につつあり、最後に死ぬ。高校生にとって「死」って何なのかなあ、とか思ったりしながら見ていた。

 といいつつ、この高校の登場人物たちが、みんな軽さがあって、なんかよかった。「演劇だからこうしなければいけない」というルールから逃れ、本名と同じ名前のキャラクターたちは、ある種の軽さをもちつつ、恋人からのDVで悩んだり、死んでしまった友人の事を思う。その軽さがいい。

 なんかね、変で面白かったのは、謎に登場人物紹介が突然始まったり、女の子同士が名字呼び捨てで呼び合ったり、あとなんだろな、「とにかく暗い事考えない! 深呼吸するの」というセリフの後、無駄に時間をとって「スーハー」とする。なんかばかばかしくて笑ってしまった。物語として無駄な時間。
 その、物語やテーマをさておける、無駄な軽さが、登場人物たちの「そこにただいる」感じがあった。苗字呼び捨てで声を掛け合う女性同士ってなんかいいなあと。つい男性作家や、年齢の離れた作家だと、女子高生同士を妙な愛称で呼ばせがち。でも苗字呼び捨ての会話は新鮮な軽さと、実在感がよかったのよ。
 ただ最後、突然まじめになって、かっこいい事を観客席に言い出したところ、まじめだなあと思ってしまった。本当はそう思ってないんじゃないか? とも。
 まじめにまとめようとしなくてよくて、むしろ、その軽さのまま、どう死や、人を思う事を着地させるのかが期待してたんだよなあ。そんなわけで最後踊るのはよかった。

 演劇だから、大会だから、なにかしっかりしたメッセージを……伝えたいことを……みたいな事から、逃れてもいいんじゃないかと言うのが僕の考えだったりする。それに縛られて、不自由な身体で立つのをみるのは、なにか切ない。
 それは、建前を言わせている、私たち社会人の責任なのかな。

 高校演劇のテーマで「本当のことが言えない」というのは、すごく多いなと言う印象がある。さまざまなギミックで、高校生が「本当に言いたい事」を言っている。それだけ、私たちは何かを他人に言わせていないのかもしれない。言葉を奪っている。その言葉を、演劇というツールを使って、「死者」を介して、ようやく言う。

 だけどその「本当に言いたいことを言わなくてはならない」という建前を、知らず知らず背負っているんじゃないかなあ。軽み、たのしいこと、自然に体が動く事。そこにいる存在の時点で、彼女たちは祝福されているようにも思えるのだ。たとえそれが「死」というモードであっても。

 俳優でいうと、メガネの背の高い人が妙に印象深かった。というか、軽さをもった生徒たちに流れる空気が自然で、かつ、ちゃんと練習したんだなっていう間やテンポがいいなあと思ったり。このいい空気を、次につなげていったらうれしいなあ。

3【都立農産】『思い出回想列車lily/th』

 ウケてた。とにかくウケてた。会場は大盛り上がりだったなあ。内容は、しゃべりすぎる探偵と無口クールな助手、冷静な探偵見習の少女が、おかしな依頼者から愛犬捜索の難事件を、主に物理暴力と圧倒的しゃべりで解決したんだかしてないんだかするコメディ。

 で、山本はすごく、否定的な感想を持って、講評でも辛口な事を言う。練習量が足りてないんじゃないかなあという所があって、そこに山本はいかがなものかと思ってしまった。
 でも、もう一人の審査員の二階堂は絶賛。「わたしが演出したい」と講評で言ってたなあ。僕がコメディに対して辛(カラ)いのかも。

 や、コメデイが嫌いなんじゃなくて、練習量が足りてないものが好きではないのだ。

 講評でも言ってたけど、脚本はセンスがあるなあと。きちんと「ハードボイルド探偵アクションもの」の勘所は掴んでいて、それをパロディとしてストーリーを構成していたし、なによりキャラクターたちが魅力的だ。ただ、構成上どうしても「パロディとして、できなさを笑いにする」というもので、最初から「形式を無理やりやり、できなさ、うまくいかなさを笑う」「観客を巻き込んで緩い笑いの空間にする」を狙っている構造になる。
 それを、練習と連携とテンポが悪いのは、なんだかなあとおもったのだった。

 しかし二階堂は、その題材そのもの、エンターテインメントである点を評価していた。多分、その先の未来を評価していたのだろう。「これはもっと練習すれば面白くなる」と。僕は「練習したのか」という過去を見てしまっている。そのあたりの視線の違いが出て、なるほどなーと思った。

 つい、「人を笑わせようとすること」に対して、僕はどうも畏怖の念がある。そう簡単に人は笑わないし、笑わせるという事は誠実さや丁寧さをよりかけるべきだと。

 会場はとても笑っていた、これは事実。僕がどんなにいかがなものかと思っていたとしても、その配役の妙や基本を押さえた笑いは確実に観客をとらえていた。巻き込んでいた。盛り上げた。素晴らしかった。誰よりも笑わせた。僕がどう思おうと、「ウケたい!」がなによりの勝利条件であるならば、それは成功した。それはゆるぎない。そしてそれは難しい事だ。それを、この高校は成し遂げた。

 演者は文句なく、主役の人が面白かった。講評でも「無双」と評されていたけれど、どこかで僕は演劇は、一人の突出した無双を見せるにしても、スタッフや他の演者と、いかに連携するか、練度を高めるか、に重きを置きたいと考えていたりして。そのあたりを、ぜひ強化してくれたらいいなあ。

4【潤徳女子】『海の底は照らせない。月光でさえ』

 生徒創作。他人となじめない一人の女子が、家庭でも問題を抱え、進路や将来に悩みながら、海へ、電車へ――と都市をさまよう。たった一人の理解者と共に……というあらすじ。

 これも講評の時に言ったけど、瞬間最大風速ですごくいい瞬間のシーンがあったなあ。主人公ジュンが、ただ海を見、そこに唯一の理解者のミハルがただ寄り添う。なんという会話でもなく、ただ二人がそこにいる。ただいる。それが抜群にいいシーンだったなあ。

 全体を通してみると、アラがどうしても目立つのは、それは場転の上手くいってなさ、音響のレベルの未調整や、テクニカルな不具合のせいで、一つの作品としてはどうしても苦戦している印象はあった。ただ、そんなの、どこかでどうでもいい。素晴らしいシーンがあった。それがいいと思った。

 講評でもさらに言ったけれど、この作品は最後、主人公が飛び降りて死が暗示される。唯一の理解者の親友も死ぬ。死をめぐる話。全体的にも、死のイメージが最初からある。
 最後、死で終わるということに、これは作品の批評とは別に、「俺って死ななかったんだなあ」という感想を持った。

 若くして死ぬだろうとか、そういえば思っていた。生きるか、生きるものか、と、そういえば高校の時思っていた気がする。明るい話や、救われる話に嘘くささを感じて、どこかでいつも殺気だっていた。
 なのに、今これだ。
 格好悪く生きのびれてしまっていて、格好悪く、年下の表現に難癖つけている。

 死で終わる話を、僕はどう見たらいいだろう。
 作家、演者から、すごく正直な物を感じる。たくさん難癖はある。「敵(母・クラスメイト)を敵として描きすぎてないか」「主人公にとって、じつは都合よく都合悪い世界過ぎないか」「自分のつらさを、ただ世界のせいにしてないか」とか。

 ただそれですら、ジュン役の俳優の素晴らしい演技の能力や、「ただ電車に揺られている」といった演出の妙もあって、どこかで説得させられている気がする。理性や理屈ではいくらでも不備やだめな所はあるけれど、あの海に、二人でただ寄り添っているシーンが、たぶんこの先も僕の頭の中に残り続けるんだろうなあ。

 テクニカルの不備やら、転換の上手くいかなさは、未来、どこかでどうにかなる。誰かが(演出家が)空気を読まず、文句を言えばいいのだ。おそらく、演出家含めて、全員いい人だったんだと思う。性格がよかったんだと思う。ただ、それではテクニカルの不備は解消されない。
 空気を読まず、めんどくさい人になって、テクニカル不備を指摘し、転換を考え、粘り強く、空気を悪くしてでも、芝居を面白くするための技術面での最大限を振るってほしい。悪い人になってほしい。悪い人だけが、一生懸命頑張っている人に対して、「でもダメだから、こうしてほしい」と言える。
 それはもしかすると、この手の作品を作る人間とは遠いところにある考え方なのかなあ。でも美しくも残酷に、悪い人になって、技術的な不満に対して主張してほしい。美しさが、たった音量が大きいだけ、照明がすれているだけ、道具の転換がうまくいかないだけで、消えてしまうのだから。

5【都立小松川】『one night party!!!!』

 街の花火大会の日、高校時代の友人だった男1女3人の4人が、男子の部屋で一夜限りのパーティ。なぜなら、女子の一人・流宇が、最後の花火とともに消えてしまうから……という話。

 会話劇の良作という雰囲気。余計な説明セリフもなく、4人が4人として、説明なく花火大会のある日の夜をただ楽しく過ごす。会話のスムースさやその言葉のチョイス、動きの自然さ、関係の見せ方など、とても自然で、演出が行き届いている。

 その自然さが、「一人が最後の花火で消えてしまう」という切なさを、押し付けるでもなく、それが哀しい事、不在の寂しさをよく伝える。4人、本当にうまい。そして、練習し、連携をよくとったなあと思ったりなんだり。

 ただその破綻のなさと、重要情報の出し方の脚本の造形のせいで、ともすれば平坦な物にも見えた。「最後の花火で一人が消えてしまう」という設定を、そこまでしてぼかす必要はなかったのではないか。むしろ序盤のどこかで、さも平然と口にしてもよかったのかなと。
 観客も一緒に、女の子が一人消える夜のパーティというのも、味わってもらう方が、いいんじゃないかなと思った。ネタバレとして最後びっくりしてもらうよりも。

 そして、消えた女の子の最後のセリフ、メッセージ。あれは、創作として、準備して、作っていていいと思う。ただ、「セリフ」として、口に出さず、文字としても示すことなく、それ以外の方法で、最後のセリフを表現してみてもよかったんじゃないかな。

 死者に、消えた人間に、言葉を生者側が言わせることに、どこか抵抗がある。
 いただいた上演脚本を読むと

「長セリフ(ここは流宇への宿題)」

 とある。となるとあのシーンのセリフは流宇役の人が、振り絞って言葉を考えたのかな。ただその言葉を、言葉として出す以外の方法があったとは思った。不在も、言葉以外で。
 カップや、一つ駒の多い人生ゲーム。カバディのシーンで触ったのは、誰の肌だっだろう、とか。
 このトーンの会話劇だからこそ、会話ではない所で表現できる方法はある。演劇は、言葉で埋めなくても楽しい。無言や、不在を使って、言葉や存在を楽しむこと、寿ぐことができる。演者のレベル、演出のレベルがどれもよかったからこそ、その上の表現にも挑戦してほしいなあ。

 とはいえ一つだけやんややんや言うとすれば、健全な空気がちょっとだけ気になる。
 きれいすぎないかどうか。
 人がそこにいる、と言う時、そしてこういうテイストの芝居の時、どこかで生々しさ、人の悪さ、みたいなものを感じたいなあというか……変態と言われてる役の人が変態じゃなかったりしてなあ。



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