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ある日の高校演劇審査員日記・2024年秋その③

 前回、前々回に引き続き、第47回東京都高等学校文化祭演劇部門地区大会・第78回東京都高等学校演劇コンクール地区大会発表・多摩北地区Aブロックの、2024年9月16日、三日目の様子です。見て審査した劇は、これですべてかな。写真は土俵です。

〇多摩北地区A・大会三日目・9月16日(月・祝)


①    都立東村山『空』

 こちらは顧問創作。
 カフカの『変身』、中島敦『山月記』を引用しつつ、ある日、ゴキブリになってしまった主人公はひたすら困惑しながらもがくが、遠い誰かの「がんばれ」という声を聴き……。

 と、この高校は直前で演目を変更したとのこと。事前に準備を進めていた演目を顧問の先生の判断中止。他の演目で出場するかどうか悩んだが、生徒の希望もあってこの上演になったとのこと。
 そのため、おそらくこの脚本は複数人で演じられる前提で脚本が書かれているが、上演は一人(+数名がエキストラ的な出演)で行われ、台本を持った状態で進行した。

 何らかの事情が上演からは察せられつつ、少し警戒したのは、出演者本人が、この状態でも出演したいという意思があったのかどうかという点で、講評の時そのあたり伺えたのがよかった。

 その一方、かなり緊急事態な様子で、段取りや、動きの確認もままならない中、それでも舞台装置を用意し、最後まで上演をやり切った。

 講評でも指摘したのだけれど、上演中、顧問の先生が、上演中の演者に動きの指示をし、それが観客席まで聞こえてしまっていたという事があったのだけど。

 さまざまなイレギュラーな事があったのは分かるけれど、それはやってはいけないな、と思った。
 事前に指示出しの段取りがあるとか、むしろ演出的に「陰から指示出しをする」という見せ方をするという事で、上演演出にするというのなら話は別だけれど。

 上演中に舞台の進行に関わる指示を出せるのは、舞台監督(舞台監督とは「舞台における技術関係の総責任者」のこと。いわいる「演出家」とは違います)、ないしは舞台監督の指示を受けた人、事前に舞台監督に話を通して指示出しの段取りを決めた役割の人だけ、だと思うんですけどね。

 舞台が始まったら、舞台の上は、演じている俳優の物で、現世から独立した、干渉不能の空間にならなくてはいけない。
 や、スピリチュアル的な意味とかではなく。その干渉不能の空間が出現するから、「舞台」という名の舞台空間は機能するからだ。

 演者にのみ、在り方の判断を許された、特別な空間。
 そこには、舞台に立っていない人間の指示や言葉は届かない。国家の権力とか、事前の人間関係とか、現世のしがらみがまったく通用しない。
 そういうしつらえにすることで、人間が、人間に戻れる場所、人間が人間をやれる時間に、舞台はなりうる。

 そこに、演劇の尊厳があると思うんですよね。

 誰にも守られていないから、舞台上は身体的にも精神的にも無防備で、危険な場所でもありうる。
 だからこそ、自由であるともいえる。

 だからこそ、舞台の前の「仕込み」という時間は、だいたいピリピリする。舞台スタッフの人はその職能をかけて、舞台上で事前にできる安全対策を施すから。
 命がかかっているから。
 照明の落下防止用のチェーンを間違いなく掛けるために、照明担当者の人は先輩からたくさん怒られてきたりして、身体に「安全」を染み込ませているのだ。

 上演の話に戻ると、さまざまな事情は分かる。
 舞台上で、次の段取りがわからず混乱し、うまく行かない、それどころか、精神的にも追いつめられてつらい事態にもなるかもしれない。
 教師として、そうした脅威から生徒を守りたい。そんな心情があったのかも。

 でも、そこで顧問の先生が、事前の取り決めの無い、段取りを誘導する声を掛けたら、そこで演じていた俳優は、「人間」ではなく、現世の人間関係の「生徒」に戻ってしまう。

 演劇、という方法を、自主的に選んだ人間を、人間でなくしてしまう。

 この状況では、上演中に声をかけて指示を出さざるを得ないこともありうる、と、事前に教育的な判断をするなら、それは事前に「上演中止」を教師として判断するべきなのかなと思う。

 それだけ上演は、心身の危険を伴う。その危険を回避するために私たちは稽古をしているのだから。練習をしているのだから。

 舞台に立つ――現世と別れ、独立した人間で居られるというあり方をするのは、逆に言えばそれだけ困難な事だということだという事でもあると思う。

・・・・・・・・・・・・・・・

 この高校の上演にて、俳優は一人、台本を見、段取りに戸惑いながらも、しかし、淡々と演技をしていった。
 終盤、ふと、俳優は、最後の方の一連のセリフだけは覚えていたのか、台本を見ず、前を向いて観客席に語りかける箇所があった。

 その瞬間、爽快感があった。
 もちろん審査員として参加している以上、その感動は演劇の技術とか、演劇における真・善・美の在り方とはちょっと違うところにあるから、評価するところではないけれど。

 それでも一人の人間として、前を向いて一人の若者が、自分の在り方を自分で定めて言葉を発してくれたことに、心が動いたことは事実でした。

 そんな感じですー。

②    工学院大学付属『-1の僕らの声』

 こちらは生徒・顧問創作。オリジナル作品。
 いきつけのカラオケボックスに集う高校生男女三人。お気に入りの歌を思いっきり歌いつつ、彼らは、ここに居ないある男子と女子に、一方的な想いを馳せていた。回想で彼らとの出来事を思い出しながら、三人は徐々に自分の問題と向き合っていく……みたいな感じ。

 のっけから、観客の心をつかむ演出が光る。
 歌う。カラオケ。歌う。歌って、観客席を巻き込み、惹きつける。主要登場人物の3人は、(上手くはないけれど)熱唱し、その「曲のチョイスの絶妙なセンス」もあいまって、ぐいぐいと観客の心を惹きつける。

 講評の時や後で話を聞いたら、カラオケで物語を展開していくのは、この高校演劇部のいわば必殺技みたいな感じらしい。
 歌うことで、その歌を歌う事でキャラクターの心情を、セリフではなく、ある種の笑いや抒情も内包して伝える、という演出。

 最序盤は、その作戦がとにかく決まっていたし、これから面白い展開が始まる予感や、なにより、この地区12校の中で、最も観客を沸かせる最大瞬間風速を叩きだした感はあったなあ。盛り上がったなあ。

 その後、物語としては、カラオケ店の中の馴染みの高校生三人組が、歌ったり、話したりしているうちに、回想が始まる。
 ここにはいない人物(ヒカリ・善次郎)について、ある種の憧憬を語り、そこに比べての自分たちの上手くいってなさや、問題などが浮き彫りになっていく、という展開(ここには居ない人、あるいは、その人達と比べて何か欠けている、というところから「-1」というタイトルの由来にもなったのか……と様々な解釈ができるいいタイトル)。

 ただ、登場人物たちが何者なのか、観客が理解する前に「回想」が始まり、彼らがここに居ない別の人物の役を演じている、というところが序盤に連続するため、ややわかりづらかった。
 またその不在の人物も男女一人ずついるようで、その「不在」の人物像が今一つ共有しにくい。
 序盤のカラオケ歌唱と、また笑えるコント回想も相まって観客は確かにノリよく、ウケよく、話を聞く体制にはなっているが、メイン人物三人の「面白いキャラクター性」は伝わるものの、共感までには至れない……状況や問題意識、その場に居る動機が、今一つわからなかった。
 なんでカラオケ屋にこの三人は集まっているんだろう。今日たまたまなのか、毎日なのか、どんな関係性なのか、何がしたくて今、ここにいるんだろうか、とか。
 こうした基礎的な情報の出し方が、今一つだったところは否めなかったと思う。

 「二人」の不在は、回想とセリフ、また電話の音声といったところで出現するが、彼らが結局どんな存在だったのか、情報は提示していたかもだが、演劇として「不在」が上手く出現できていなかったように感じたなあ。

 「不在」を「出現」させる。
 こういう矛盾ができるのは演劇の面白さではあり、そこに挑んだ事はとてもいい。いいけど、回想、セリフ、音声、どれもが「情報」以上の何かが伝わったとは、言い難かった。
 こういう場合、いっそ不在の人物は一人に絞った作劇の方が、伝わりやすかったのかなとも思う。物語の設定を欲張りすぎたのかもしれない。
 
 情報ではない方法で「不在」を伝えるのであれば、例えばカラオケボックス内に、彼が座っていた座席が空白、とか。何かの折に、その座席の方を登場人物がつい見てしまう、とか。
 そういった目線や沈黙が、「何でもできてしまう完璧な善次郎」という情報を、人物たちの感情や距離感で、質感を伝える事もできたかもしれないなあ。

 欲張り過ぎといえば、歌う演出もそう。
 肌で感じたかもしれないが、カラオケを熱唱するという「歌」の面白さは、最序盤がピークだったと感じた。
 勢いもよく、面白さもあり、ウケてはいたものの、徐々にそのボルテージは下がっていった。
 これは、その後の歌う演出がやや多く、そして並列な見せ方だったからではないか。

 この演出やおもしろさにこだわりがあるのは分かるが、初見の観客に対しての面白さの押し付けになってなかったか。
 そもそも、この劇にとって、なぜ歌うのが面白いのか。そのあたり、もう一歩考えてもよかったとは思う。
 歌を生かすために、「カラオケボックス」の一室という設定になっているが、この場所のチョイスも「歌ありき」で考えてなかったか。

 このへん、講評後の立ち話でも伝えたけど、この次に上演された拓殖大学第一の劇のセリフの中で「歌を歌えばまるっと問題解決。歌わせちゃえ!」というセリフをいれて、歌のシークエンスに入るっていうのがあった時、どうしても先の上演と比べてしまったなあ。
 歌を歌うという演出において、質、練習量、狙いの高度さ、批評性、上回られてしまった……。
 その時、なんか俺、「悔しい!」って思ったんだよなあ。なんでだよ。なんでだかわかんないけど。多分、個人的な心情や好みでいえば工学院付属派だからかもしんないけど……。

 この場所が三人にとってどんな場所で、どういうときに集まり、過去にどんな事があったのか。あまりに歌ありき、カラオケありきで設定してしまってなかったか。

 また、カラオケ店の設定も、この場所がこの劇にとって、ここでしかないものになっていたかというと、踏み込みが甘かったかも。

 回想が入るとはいえ、この劇は「一場もの」になっている。
 場所の設定からでも、演技を発生させることができる。楽しむことができる。
 演技は、人同士だけではなく、その場に何があるか、何が起きたかでもやれることはある。
 観客からは、目にはさやか見えねども、俳優が場から感じられる風があると思うんですよね。
 そういう驚きを見せる喜びも、演劇にはあると思うんですよ。

 一番の問題点は、登場人物の一人、第四の登場人物である「店長」を、劇全体で生かし切れていなかったことじゃなかったか。

 登場人物三人とは違い、店長は「大人」であり、この場所の主でもある。立場の違うポジションにいるこの人物を、単なる「笑い」のためのキャラとして消費してしまったんじゃないか。
 店長は、いわいるジェンダーのおもしろい人物として、ハイテンションで三人をかき回せるトリックスターという位置づけではあるものの、いわいる「ジェンダーおもしろ笑い」としてキャラクターを配置するのは、看過できない安易さだった。

 や、演じた俳優はやりきっていて、すごく練習したのも分かるし、盛り上げの勢いは素晴らしい。彼がだめってわけじゃない。

 こういう人物設定であるなら、そしてそれを「演劇」として表現するなら、「ジェンダーおもしろ」な中年の男性カラオケ屋経営者が、なぜ高校生相手に「ゴー☆ジャス」のギャグを交えて話しかけたり、明らかに苦悩して黙りこくる三人の中に入り込んで、ハイテンションで絡んだりするのか。
 演出として、ちゃんと全員で考えただろうか。

「笑い」の担当だから内面なんて考えなくていい、なんてことは、ない。
彼にも人生がある。

 自分の経営するカラオケ店にくる高校生三人組に、ゴー☆ジャスのギャグで話しかけようとする、ジェンダーおもしろ中年のおじさんの人生に、寄り添ってみてはどうか。

 彼は話しかける時、ドキドキしてるのか。スベリすぎ人生すぎて、リアクションしてくれる高校生が新鮮で感謝にあふれてうれしいのか。毎回ネタを用意して話しかけていると思うか? あるいは即興で言っているのか? ギャグはなぜゴー☆ジャスだったのか? 最近のギャグは知らないのか? 知っててあえてのゴー☆ジャスなのか? 店長本人はゴー☆ジャスを面白いと思っているのか? あえて高校生向けに選んだギャグがよりによってゴー☆ジャスなのか? 店長が最低限自分が理解できるギャグがゴー☆ジャスだったのか? だとしたら、それはどんな人生なんだ? その心情を表現するとき、どんな演技プランが建てられるか。

 や、そう考えて演技する方が、シンプルに、面白くて笑えると思うんだ。

 この劇が中盤から終盤、主要の三者の個人的な苦悩が展開される。彼らが一人一人苦しむ。
 だが、それらは一人一人が、劇にもかかわらず他人と関係しないで一人で苦悩を吐露しているように見えたし、後半、言い合いになるものの、まずその言い合いも突然過ぎて、共感が難しかった。「さっきまで楽しく歌って楽しく回想シーンしていたのに、なんでこんなに怒鳴っているの?」と。

 一人一人が、一人で単独で苦しんでいるように見えたから、三人の登場人物が有機的に機能していたとは思えなかった。
 なぜ、三人の登場人物がここに居るのか。ただ、苦しみのバリエーションを表現するために、彼らがここに居たわけではないだろう。

 真面目なシーンを入れないといけない、とか、高校生のつらさを表現するのは、絶叫して、心から、心の奥底から声を絞らなきゃいけないからとか、そういう「高校演劇の都合」を、強く感じてしまった。

 そもそも彼らは後半、そんな風に語らないんじゃないか。
 序盤で、完璧に見える存在――善次郎やヒカリに繊細な想いを寄せる彼らは、そんな風にキレたり、苦しんだりしないんじゃないかと思ってしまう。善次郎やヒカリのような存在に、本心を出せないもどかしさがあるから苦しいのであって。

 高校演劇だから、青春だから、絶叫すれば伝わるかもしれないから、立ち続けることは苦しいからって、立ち続けることは楽しいからって、そんな風にエネルギーを発するのは、現在、いま、ここにいる高校生では、あれないんじゃないか。

 で、だから、そこに、店長が必要なんですよ。
 ラストシーン手前で、店長は「ギャグキャラ」として入って、彼らの苦悩の沈黙を「笑い」にするじゃないですか。

 今回の上演では、ただ「物語の終盤だから収拾をつけに来た」みたいに、ギャグキャラ遣ってオチつけて雑だなあ、そんなことで高校生の苦悩が笑顔になるかよーう、とか思ったけど、そもそもの構造としては、悪くない回収だとおもう。

 ジェンダーの境界線に生きる、いろいろあった様子の大人が、苦しんで沈黙する高校生をちゃんと見て、ハイテンションで励まそうとする姿は、ちゃんとギャグだし、ちゃんとシリアスだと思うけどどうでしょう。

 矛盾した二つの感情を引き起こすような演技プランを楽しめるのも、演劇の面白さだと思うんですよね。

 と、ながながと……ちょっと肩入れしすぎなんじゃないかと思うくらい、悪口を書きましたが、それはおそらく、練習量を感じたから。
 この高校生が主体的になって動いていた気配を感じ取ってしまって、だからこそ、「出せばいいっていうような青春感で演劇をやってくれるな」と、祈ってしまう。

 エネルギーを出せるからこその、それを青春や熱意に安易に変換するんじゃなく、演劇そのものにもっと振り向いてくれたらなあという、私の強引な祈りで、なんか沢山書いてすみません。

 こだわりを捨てる必要はないけれど、こだわりにはいつも疑問を持ってほしい。
 誰よりもエネルギーを発し、この地区のどの高校よりも観客を沸かせることができるレベルに至った以上、なぜ演劇なのか。演劇の方法をとる以上、やりたい事ではなく、やらざるを得ない事とは何かを探って欲しいなあと、思っております。

③    拓殖大学第一『妄想カタカタ』

 こちらは既成脚本って事になっているが、この高校でかつて上演された、OB達による作品とのこと。

 ダンスと歌のミュージカルが、幕開きから始まるわけですよ。ものすごい力の入った……うわあ、俺、こんなの評価とかできないよ、と思っていたら、突然、マックブックを抱えた(このへんの小道具チョイスがさすがだぜ!)女子校生が現れ、なんか語りだす……どうやらこの世界は彼女が綴った物語の世界。
 その世界に、作者自身が入り込んで、世界を改変していく……と、ひとつひねりが入っている。

 何が上手いって、このメタ物語構造を遣えば、思いっきり「ミュージカル的な非リアリズム演劇」を全力でやっても違和感、抵抗感がない、という事。
 そしてそれを全力でやって、どこか拙かったり、過剰過ぎてヘンだったりしても、それは「女子校生の書いた物語世界だから」という理由で、上手くいかなさにも説得力を持たせられる。構造としてかなり面白い。

 だから、とことんやれる。やりたい事を、思いっきり練習したものをやっても、ヘンじゃない。拙さすらも内包できる。

 だからといって、上演そのものは、とてもクオリティが高い。
 よく練習しているのが伝わる。歌と踊りと、ちょっと古めの「演劇っぽい」演技体が効いている。

 これ、この劇を、ある種の演劇のプロがやったとしても、この面白みが出てこないと思うんですよね。
 まさに、高校演劇として、この時、この瞬間の年齢の俳優が、全力で練習してこだわって、面白くなるように作られている。このクレバーな構造がとてもうまい。この高校のOBは、いい脚本を残したんだなあ。

 衣裳、舞台美術も力が入っているし、劇中、使用されている歌や楽曲や音楽も、この劇のために作られたものでもある。
 これだけのものを仕立て、統制の取れた演出に、ある種の「異世界転生モノ」的なキャッチ―さに加えて、「作家はどこまで自由に物語世界をゆがめうるか」という批評性も内包しているんだから、とてもいい。

 上手いなあ。
 こういう系統の演劇が好みではない私のような人間にも(つまりこの高校にとって、いわいる「審査員ガチャ」は大外れなわけですが)、うまい、とうならせてしまっている。
 遠いところにいる観客の所に、上演が届いたのだ。

 それでも(どこか微妙な点において)、欠けているものがあると感じた。例えば、脚本の上手さに吞まれているな、とか。
 なんかこう、善良な感じがあったんだけど、その善良さ、素直さがために、この脚本の底の方にある悪意に、あと一歩届いてないかも、と。

 たとえば、主人公の女子校生は、現実の世界から自分の書いたフィクションの世界に(どういう訳か)入り込んだわけで。

 それならば、その身体性、演技体が「劇の中の人」と違うはず。

 劇の大半の登場人物は、物語のために作られたため、身体や発声、立ち方、移動の仕方も、「演劇っぽい演劇」になってるけれど、そこと、「現実から来た」女子校生の演技体の差異があってしかるべき。
 なんだけど、上演ではそこが、あまり変わらないように見えてしまった。
 それではこの脚本の構造上の魅力は減ってしまう。

 これは、主人公の演技もきちんとこの脚本を丁寧に、上手く見せようとして、そうなってしまったのかも。
 もちろんこれは主人公をやった俳優だけの責任ではなく、いかに、「物語作者という役」を浮かせるか、を、登場人物全員で意識的にリアクションをしたり、差異を意識したりすることで達成できたはずである。

 普通にこの脚本を、素直に、善良に、誠実に演じていさえすれば、けっこうおもしろくできてしまうのも問題で。
 そもそも、この脚本をやる場合は、目に見えて成果の出やすいミュージカルパートに練習が偏ってしまうだろうし、それだけで面白くできてしまうので、この点は気づきにくいことかもしれない。

 俳優一人一人は、自分の役の立場や役を考えて演技していたのかもしれないけれど、この脚本の持つ構造的な面白さを、全視野的に見渡す――「演出」が、あと一歩足りなかったように思える。

 演出というポジションは、たしかに、振り付けや演技の一つ一つの良しあしをジャッジすることもあるけれど、一歩引いて、意地悪く、全体から導き出される戦い方を考える事も大きな役割の一つであって。

 また、大人数で、統制もとれ、一人一人がみんなのために、邪魔しないように演技をしていたけれど……責任が分散したゆえの安心感で演技していなかったかどうか。

 それでは、大人数が舞台に出ている場の時、ある種、モブのようになってしまう。

 脚本上、全員にいい見せ場もあるし、余計なことをする必要はないかもしれない。ないけれど、それでいいのかどうか。

 抜け目なく個を出せて、エネルギーを放つ瞬間を、一人一人は狙ってもよかったはずだ。それは、脚本であらかじめ用意された場所だけではなくて。

 たとえば、一人がダンスで盛り上げるシーン、後ろで数名が手拍子をして盛り上げるが、一人一人、その手の叩き方でいいのか。中には「盛り上げない」みたいな奴がいても、キャラクターに合ってなかったか。手の叩き方にしても、それぞれエゴが出せるのではないか。
 たとえば、ずっこけるシーンにしても、コケそのものは揃っていてしかるべきだけど、その起き上がり方に、僅かに他者とは違う個が出せなかったか。
 たとえば、主人公の女子校生が、現実空間から持ち込んだオタクグッズに関心を示すシーンでも、ここは現実世界に引っ張られ、演技体がリアルに戻る者や、あくまで劇世界を守る者もいていいのではないか。
 たとえば、数少ない男性が演じたイシー・ウージーのコンビは、脚本上、差異がほとんど見られない。脚本上そうだからといって、演技が、上演が、それでいいのかどうか。

 なにも、俳優一人一人のエゴを剥きだして劇を壊せと言ってるわけではなくて。
 劇を壊すかもしれない、それでも劇世界に沿ったギリギリの個の発露が少なかったように見えるのは、物足りない。

 そして明快に足りないのは、最後半の展開。主人公が裁判にかけられるシーン。現実世界の母、妹が、主人公の女子校生の罪を告発する。

 これは、元々の脚本でもあと一考すべきところで、これまで出来事でテンポよく進んでいたところが、長いセリフ主体の議論になってしまう。

 この部分が、やや冗長にも感じたのと、やや「高校演劇で出現しがちな悩みパート」を真正面から言葉にしすぎな感がある。
 ここは、二次元の世界に三次元からの再干渉が行われるというシークエンスであり、すっかり居心地のいい二次元に染まった主人公が、現実の声と理屈で責められるという重要な箇所である。

 このあたり、演劇的な魅力がやや薄れてしまったと感じたかも。

 これもまた、この劇そのものの構造の持つ「二次元」と「現実」の演技体の使い分けであるなど、何らかの演出があってしかるべきところではなかったかなと思った。

 や、火あぶりにされてしまう主人公という面白い動きはあるけれど、それがどこか「演劇として」安心して見えてしまったなあ。本来は世界の危機であるはずなのに。

 作品世界の人物に裏切られる、敵に廻られる、悪意の目に触れられる。
それを、現実の身体で、「演劇」で表現するとき、もっと意地悪くこのシーンを見せることはできなかっただろうか。

 おそらくこの高校の演劇部に、悪人がいなかったのかもなあ。
 悪という言い方が良くなければ、獣性といえるものか。もしくは、悪なのだけど、悪を出せるような稽古場環境ではなかったのかも。
 それはとてもいい事である一方、あと少し、少しでいいんだ。意地悪く、頭がおかしく、ヤバく、世界をナナメに見る、性、狷介にして、不穏な視点が、稽古場にあって欲しかった。ほんのわずかに、悪が、獣が、虎が足りない、と感じたんですよね。

 あれだ。主人公の作家の女子高生が、自分の分身となるキャラクターと対面するシーン。
 あれ……もっと時間を遣って、もっともっと、印象深いシーンに出来たんじゃないかなあ。いわば、もう一人の自分と対面するシーン。いや、理想的で、しかし「下位」の存在として従順な「もう一人の私」ですよ。

美咲「どうしたの? よかったら話聞くよ?」

『妄想カタカタ』

 ってセリフ。これ、美味しいセリフだと思いませんか? 悪い人目線で、このセリフ、上手い事発話すると、主人公の「調子に乗ってる感」とか、「中学生が小学生の草野球に交じって無双してる感」、「劇場版ののび太」みたいに、できるじゃないですか。

 上演では、こういう「悪だくみ」ができるポイントを、劇のテンポを崩さないように、きれいに通り過ぎてしまっている気がして、とても惜しいと思うんですよね……。

 この戯曲は、かなり前に同高校で上演されたものらしい。
 時を経て、また同じ脚本が上演される。
 今回この高校の上演を中央大会の推薦枠に審査員として推させてもらったけれど、これは、今ここに居る生徒だけの力ではなく、地層のように積み重なった、数限りない無数のOBたちが、わずかわずか残したものの力も助けになっているのだろうなあと思う。

 高校演劇の、今、ここでの上演は、一年後、数年後、後輩たちに、ごくわずかな力になっていく。
 ここで失敗したり、だめだったり、どうしようもなかったことは、後輩が、顧問の先生が、じっと見ている。そしてそれは、次代の新入生たちにそれとなく伝わっていく。
 上演は、その場で淡雪のように消えたとしても、作品は脚本として残っていき、残った念は語られていく。三年で生徒が入れ替わって、自分がここに居たことは忘れ去られていく。
 今日の上演したこと、今日上手くいかなかったこと、だめだったこと、迷惑をかけたこと、もっと良くなりたい、と思ったことが、稽古場の床に染みていき、数年後の未来、顔も名前も知らない誰かが一人、自分を許せなさにしゃがみこんだ時、その化石になったかなしみに触れることがあるかもしれない。

 そうやって培った土壌の豊かさに、結果が付いてくるという事もあるのかもなあ。
 一年では届かなくても、10年20年。今やっている演劇の練習は、次の上演のためだけではなくて、100年後の高校演劇に影響を与えるかもと思って、練習に励んでくれたらなあと、祈るところです。

④    都立武蔵北『お勝手の姫』

 こちらは既成台本。
 とあるレストランにて、お見合いする男女。もともとお見合いに乗り気でない男が、奔放な女性に翻弄される中、もう一組、訳のありそうな男女が入店。男は大学教授であるが、その相手の女性は自らを「姫」だと思い、姫として男を執事のように扱って……

 と、あらすじから垣間見れるように、演じる高校生より登場人物の年齢が高く、劇の湿度もものすごくアダルト。しかも、そのテキストの空気が、不条理な空気を醸しながら、人の心の機微をくすぐるという、派手さはないが実にお出汁の効いた、繊細な味付けのテイストの作品。

 それを、見事に演じていたなあ。
 うまい。かつ、楽しんでるのも伝わる。このしっとりとした味わいを、きちんと解釈して劇として出す。
 抑制の効いた演技で、演劇で出来る事を、しっかり伝えている。実に誠実だなあという印象を受けました。

 ただ、このテキスト。提出された上演台本を見ると、かなりセリフを削っている。
 上演時間60分のルール収めるためのものだろう。そのため、特に最序盤のセリフが削られているため、登場人物の動機が不明というか、「なんでそんな行動をとるの?」という疑問が、上演では結構多く出てきてしまった。

 演劇として美味しいポイントが中盤から後半に多いから、60分以内にするとなると序盤を削らなければいけない事情は分かる。
 説明も最小限で、演技や湿度で伝えなければならない本作において、どうしても削ってしまったところが、劇の没入や見やすさの点で大いに魅力を減じてしまっていたのは確かだ。
 それでも、その違和感も、そもそもの戯曲の味にもなっていたし、トータルで見たら違和感は、あったとしても上手くフォローできていたとは思うけれど。

 また、空間の使い方。
 テーブルが2セット配置されていたけれど、男たちの座る席が背を向けているように配置するのは、なかなかにスリリングな試み。
 やりたい意図はわかり、いいトライではある。それでも中盤にかけて机を合わせるシークエンス以降、どうしても下手に不自然な空間が出現するなど、最後まで空間の使い方で苦心していた印象だった。

 おそらく、この上演をするとすれば、プロセミアムな舞台機構ではなく、周囲を360度取り囲むような空間だったり、また実際のレストランを利用したりする、みたいな舞台機構の方がフィットしてたんじゃないかなあ……。  
 なかなか、机椅子の配置が、この会場で演じるには、今一つフィットしないのかも。

 総じて「高校演劇の大会のルール」に、この上演がうまくマッチングしなかったんじゃないかなあと思った。特に、しっとりとした時間の流れや、人間関係の機微を見せるこの脚本で、上演時間を短縮せざるを得ない状況が、フィットしなかったと思う。

 それは多分、練習しているうちに気づいたことだろう。それでもなお、この脚本を選んだ矜持は伝わる。

 伝わったけれど、講評の時に言ったのは「現時点でもかなり上手くやれているけれど、それでも10年後の皆さんがもう一度この戯曲に挑んで演じた時の方が、さらに上手いのではないかと思ってしまった」と伝えた。
 つまり、この上演は、10年後の自分に負けるのではないか? と。

 かなりヘンな事を言ってしまって申し訳ない気もする。そもそも、演劇なんて10年後の自分だろうが、比べるもんじゃない。比べるもんじゃあないんだ。大会で優劣を決めるなんて、ろくなもんじゃあない。その審査を引き受ける人間なんて、そんな人間の言う事なんて、ろくなもんじゃあない。

 この脚本を探し当て、よく戦ったし、面白くもできた。
 ただ、戯曲の望んだ方向性に身をゆだねてしまったのではなかったか。誰かの望む面白さ以上の物にはなってなかったのではないか。
 その方向性では、現在の年齢の俳優がやるより、10年後、20年後の身体を持った俳優が演じた方が、面白かったのではないか。
 そう思わせてしまう事は、こと「高校演劇の大会」――「15歳から18歳の年代の人が主体性をもって行われる演劇の審査会」の求めるもの……いや、今の自分たちが演劇をやるというところに、リンクしないんじゃないか。
 意地悪な言い方をすれば「この年齢でも、高校生でも、小川未玲戯曲を、狙いに沿って上演できる、という驚かせ方、面白がらせ方」という戦い方、に見えてしまった。とても意地の悪い解釈ですけれど。

 でもそれは、達成できていた。素直に、とてもすごい。

 ただ、その戦い方で、10年後の自分たちに勝てるだろうか。

 私はいま、41歳で、演劇に関して、19歳だったころの自分相手だったら、だいたい勝てる。絶対勝てる。

 19歳の時の自分は、全く面白くなかった。
 面白くないだけならまだしも、性格が悪く、周囲の人間を信頼することも知らなかった。つまらない人に対しては露骨な無視をしていた。つまらないものを見聞きしたら、不機嫌さを隠すことなく、周囲に心配されるのを期待して粗暴にふるまっていた。「つまらない事をつまらない、と大声で言う事が正しい」と思い込んでいて、演劇を見に行っては「こういう点がつまらない。絶対につまらない」と伝えにいったり、アンケート用紙の裏にびっしりとつまらない理由を書き綴ったりしていた……と、今と、やってることはそんなに変わらないのか。
 作る作品も、19歳のころの自分の作品は、41歳の自分から見ればまったく面白くない。
 でも、資料整理などして、何かの拍子に、当時の言葉に驚かされることがある。言葉の瞬間最大風速で、うっ、と思う事も時々ある。
 負けた、と思う事がある。

 違う。
 勝ち負けじゃないんだ、演劇は、今は。コミュニケーションなんだ。勝つとか負けるとか、センスが上とか下とか、そんなものは前時代的で、もうそんな事ではだめなんだ、そういう勝ち負けの考え方が、演劇界にはびこるハラスメントを生むんだ、ばかめ。

 19歳め。

 アップデートしてるんだこっちは、もう41だ。上演中止とかも経験してるんだ。絶対そんなことするわけないと思ってたけど、演劇ができないって事も経験しているんだ。19歳め。震災もコロナもしらないくせに。なにが勝ち負けだ。19歳のお前は絶対に間違っている。勝ち負けで演劇を語るな。演劇は、もはやコミュニケーションなんだ。たとえ、俺にそういうのが出来なくても、向いてなくても、絶望的に向いてなくても、それでも、もう、無理にでも他者とコミュニケーションしていかなくちゃ、演劇は、やりたくてやってたはずの演劇は、コミュニケーション、できないけど、演劇を続けていく上では、絶対にやんなきゃだめなんだよ、でも、やるんだよ、と思う41歳の前に、19歳の自分が瞬間、刺しに来る。
 その瞬間、殺される。19歳のころ、演劇をやるという事、表現をするという事は、死ぬか殺すかだった。
 本当の意味で人の死を経験していない、19歳の甘い陶酔だったけど、それが原動力だった。

 だから、つまらない。19歳のお前はすごくつまらない。お前のやることは、何一つ誰かを助けないし、迷惑をかけるだけ。殺す殺す言って周囲に威圧感出してるとか、そんなつまんない事、今すぐそういうのやめて少し休んだ方がいい、他の表現をしばらく見て回るといいよ、って、19歳に、41歳の、高校演劇の審査員なんていう、あの頃僕が一番毛嫌いしていた存在になっている僕がたしなめるけど、それでもやっぱり、刺してくる。

 ……みたいなものを、僕はきっと、高校演劇で見たいなあって思うんだろうなあ。

 本作は、大会、というものを考えなければ、すごく誠実で、質の高い、いい上演だった。
 と思う一方、じゃあその、質の高い、いい上演ってなんだ。いい上演なんてして、どうするんだ。いい上演だったなあって、41歳に思わせて、10年、20年後の自分たちに思わせて、どうするんだ。

 別に未来の事なんかどうでもいいし、今やりたい事をやるのが正しいと思う一方、そのやりたい事が、未来の自分に更新されてしまうような方向性とは、どこかで葛藤して、それと戦ってほしい気がする。

 未来に歯向かう表現を、なにより僕が見たい。
 大会とか関係なく。今の自分がやりたい事を越えて、今、こうせざるを得ない、こうしないではいられない、わがままな原動力を感じられるものが見たい。
 そういうものがあれば、机の配置やテキストレジ、序盤の情報の出しかたなんて些末なことで。表現に求められているものは、大会の規範や、何者かが既に評価した「すばらしさ」のレールや需要に沿う事ではなく、それを再定義させるものであって欲しいなと思う。

 この高校なら、その批評性は既に十分に内包できていると思ったし、演劇的な実力も垣間見えた。次は、自分たちの在り方すら変えるような作品を作っていくことに、期待しています。

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 という訳で、今回見た高校は全部感想書きましたー。
 次はさらにこの審査員をやって、いろいろ思った事……何が結局、賞とか左右したのか、何を見て何を比べて、どうしたのか、審査してるって何なのか、高校演劇、もっと良くなるためには何をしたらよさそうか、を、……書けたら書こうかなあ。でも、需要有るのかしら、そういうものは。

 もし読みたいという方あれば、いいね推していただけたら幸いです。
 ではでは。

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