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ある日の高校演劇審査員日記・2024年秋その②

 前回に引き続き、第47回東京都高等学校文化祭演劇部門地区大会・第78回東京都高等学校演劇コンクール地区大会発表・多摩北地区Aブロックの、2024年9月15日の様子です。

〇多摩北地区A・大会二日目・9月15日(日)


①    都立東久留米総合『コウノトリのギフト』

 こちらはご縁のある作家さんに脚本提供を受けたという高校。
 男性三次元の推しにハマる女子校生の二人。二次元推しの一人を交えて三人で、教室でオタ活談議に花を咲かせる。
 しかしその推しが突如配信にて「自分の精子と養育費を抽選でプレゼントする」と発表して……と、とても興味深い題材と展開。

 一見、「女子学生と妊娠」という、なかなか重いテーマを、「推し」という遠景からの配信を受けて、近景のオタ仲間内部で対話が始まるという面白い構成。
 こういう題材でよくありがちな、道徳の教科書テイストの、鬱と感動の押し付け展開から離れて、軽やかな導入で面白く表現できていたのはよくできていたところ。

 特に、推しの配信者から「精子と養育費をプレゼントする」というとんでもな内容の生配信を視聴した後、ぐったり呆然と机にもたれる三人の姿は「そりゃあ、そうなるよなぁ」とめちゃくちゃリアリティというか、説得力があったなあ。
 とても笑った。面白い。

 序盤は、現代の令和のオタクが口にするワードが連発する。それらをいかに使いこなし、推しを推すオタクたちを表現するのが序盤の肝でもあるけれど。

 頑張って俳優たちは「令和の推し活ワード」「オタ会話」を繰り広げていたのだが、その言葉を発するだけで手いっぱいになっているようにも見えたなあ。
「オタクが口にしがちなワード」は、どういう空間、どういう条件で発動するのか、を、もっと考えてもよかったのではないか。
 
 そもそも、この三人の女子学生は、どういう状況でオタ話をしているのかが良く伝わらなった。
 舞台には学校机椅子が三組づつ、横に並べて配置され、各々席について体を捩ったりしながら話をしたり、配信を聞いたりしていたが、
この空間は教室のどこなのか(端? 真ん中? この人たちしかいない空き教室? 他の生徒も入って来るかもしれない放課後の自分のクラス?)」
これは何の時間なのか(休み時間? 放課後? 授業前? 何かの文科系部活のサボりタイム?)」
 と……もしかしたらセリフで示唆があったのかもしれないけど、これらがただ見ているだけでは伝わらなかったんですよね。

 そして、この状況が観客と共有できないと、彼女らがオタ話をしていても、「強い推しがいるオタクである」以上の状況が察しにくい。

 つまり、多少人に見られてもいいと思っている開き直ったオタなのか(1軍でありながらオタクというのは令和では全然あり得るし、推しているアイドルがメジャーであればあるほど他者に見られても大丈夫orマイナーであっても「オタクで何が悪い」と開き直った強者オタクは令和にはいる)。それとも、人の目を気にして、この三人が揃うときだけ、学校用ペルソナモードからオタクに還れる、クラッシックスタイルの内弁慶オタなのか。

 どういうオタクを描いているのか、オタクへの解像度が、ややぼやけているように感じた。
 や、オタクなワードを口にすれば、オタクという属性は、情報は、記号は伝わる。

 だが、今やオタクは、多数派で、多様化している。
 かつてのように、オタク記号を踏んでいればオタクになれる時代ではない。国民総オタク、むしろオタクでない人間の方が「私には熱くなれるものがない」とコンプレックスを抱く時代……というのは、あれか、言いすぎか。

 なので、現在進行形でアイドルの推しをしている他者がこの劇を見た時に、そのオタクの濃度が気になるし「推しが配信でとんでもないことを言う」というこの劇の大きな展開に、とても関わってくる。
 基本のオタクのキャラクター像が疎かだと、この脚本の狙いはかなり減じてしてしまうんじゃないかなあ。

 ながながオタクについて語っていたけど、これは演劇における役作りとも大きく関わってくる話で、王冠を冠れば「王様」になれる、という事では、もう済まないのが演劇の面白いところでもある。

 他者を生身の身体で演じる時、他者をいかに見て、他者にいかに成るか。他者になる時、どういう事を知って、どういう気持ちかを推量し、さらにそれを体に落とし込み、表現する。
 この難しいプロセスの中で、「他者理解」は本当、重要で、今回の場合特に、オタクというものは、当事者にとって自分のアイデンティティの中心にもなっている事。信仰心といってもいい。それくらい、重要なものだ。
 そこの解像度が甘いと、当事者の心は離れてしまうと思う。

 さて物語は後半、母親や母子手帳、対話を通じて、登場する女性たちが「妊娠」や「覚悟」について思いをはせていくのだけれど……。

 私はこの後半の展開に、脚本に対してやや否定的な気持ちになってしまった。
 や、既成の脚本に対して審査員がジャッジするのは筋違いかもしれないけれど。

 強い言葉で批判するならば「いわば男性の性加害の後始末を、女性の高校生の「妊娠する覚悟」で帰結させているのは、脚本として良い内容ではない」というように思ってしまったんですね。

 この脚本をやろうと決めた主体が高校生にあるとして、この「覚悟」を語るそのセリフを良いセリフとして、彼ら自身が言いたくて言っているとしても、それはどこか、この社会全体が、言わせてしまった、と感じた。
 少なくとも、この演劇の上演の場で言わせてしまったなあ、と。

 それが、社会の中に参加している成人男性として、すごくつらく、この社会を作った一員として反省の気持ちがある。これは、結果的に演劇の効果、成果といえばそうかもしれない。

 でもなあ、こういう受け止め方は、意図はしていなかったと思うし、「そんな風に思われるのは困る、つらい、迷惑だ」とも思われるかもなあ。

 俳優は、テキストに対して、疑ったり、批判的であったりしてほしい。

 なかなか、付き合いのある脚本家に仕立ててもらったという事情を聞くと、そういう考えになるのは難しい部分があるのかもしれないが、それでも、稽古をしていく中で気づいたり、違和感があったりしたら「テキストに書かれていることを忠実に解釈していこう」とは違う道もあるかもしれないことは、心に留めておいてほしいなと。

 それでも、序盤の問題設定、中盤の「推し」の行動に対して各々の立場が思いを巡らすという展開や切り口は、とても魅力的ではあったし「推しが(性のニュアンスのある)異常行動をした時、オタとしてはどうするか」というテーマ設定はまさに現在性のある話ではあると思った。

 それをチョイスしたセンスや意気込みは、とてもいいなあと思いました。

 もう一歩、演じる対象に、批判精神を持ちながら踏み込んでいただければと願っています。

②    都立田無『伝説の勇者の作りかた』

 これは既成脚本。
 自分たちがゲームの中のプログラムとして、造物主に作られた存在だと自覚した魔王様とその部下たち。舞台上には現れない主人公の伝説の勇者の様々な行動の報告にやきもきしながら、彼を接待しつつ世界征服をし、やがて倒されるその日を待つ……という内容。

 これはもう、ウケるだろうなあという脚本のチョイスに、このナンセンスさをよく理解した俳優、小道具、衣裳のしつらえ、そして演技体に、上手さ巧みさを感じました。

 ちゃんと上手い。
 いろいろわかった上で、あえてチープに演じる、そのふてぶてしさがあり、信頼がおけたなあ。

 だが、だからこそ、安心して笑いを取ろうとしていなかったかどうか。

「ゲームの敵キャラが自我をもって主人公と対応する」というメタな設定は、もう結構、ゲーム、ライトノベルでやり尽くされている、どこか「定番ネタ」であると言ってもいいんじゃないか。

 その定番をあえてやるなら、面白がらせる、ウケを取る以上の、野心や狙いがあって欲しい。そのあたりが、私には感じられなかった。
 や、笑いをとろうというのがこの高校の最優先事項のように見えたし、それはある程度は達成できているとは思うのだけれども。

 それでも、既成脚本の中に、自分たちを「特攻隊」になぞらえて自嘲するシークエンスがある。
 序盤でギャグを繰り出していた登場人物たちが寂しく死んでいく部分もある。
 脚本には、ただウケを取ろうとする以上のこだわりは散見されていた。

 そこに応えた演出か、演技だったかというと、踏み込みは足りなかったかなと感じたなあ。

 と……観劇後、この上演は「文化祭でウケるタイプだろうなあ」と勝手に推測していたんだけれど、講評の時に質問してみたら「全然ウケなかった。むしろ今日が大ウケだった」と聞いて、すこしびっくりした。

 そうか、これでも文化祭ではウケないのか……結構ちゃんと、しっかりウケるようなしつらえになっていると思ったけど。

 それを聞いて「おい、俺は審査員としては厳しく見たけど、でもこれ、ちゃんと面白いからな。文化祭の観客が、わかってないだけだかな!」って、内心思ってました。

 ある程度の上手さがあっても、文化祭とかだとこの演目を「サッカー部の男子」とかが演じたらもっとウケてしまうんだろうな、とふと思う。

「知っている人が、知っている人の輪の中で、既にみんなが”面白い”と認識している事をする」と、ものすごくウケる。ウケてしまうんだ。
 演劇をやっている身でそういうのを見ると、とても切ない気持ちになるんだけれど。

 文化祭でウケる、というのは「確認の笑い」だよなあと思っていて。
 パロディだとか、身内の笑いってあるけれど。つまり「楽しい」の笑い。

 楽しい、は、今、ものすごく求められていて。
 演劇はこういった「楽しませる」事が目的だとも思われているのだけれど。これはこれで厳しい道である一方、「楽しませる」一択だけが演劇の目的ではない、と、演劇の審査で呼ばれている以上は伝えたい。

 とはいえ、「楽しませる」も、極めようとすれば本当厳しい。
 僕の認識はその辺、いや、ちょっと敵視してるところもあるのかも。アンチ文化祭的な……エンタメ的な……。

 その場で出現して、一瞬のきらめきをみせる「楽しい」も尊いのだけれど、その場では何が起きたのか分からない、でも、何10年か後に、ハッと思い出されるような、心の傷になるような「言葉にならない何か」もある。

 どちらか一つに極振りするようせよ、という話でもないけれど、どこか後者に関して、倦厭されてしまうところがあると思う。

 演劇を選んだ以上、「楽しませる」以外の、ノイズのような何かも、作る時に意識して欲しいなあと思った次第でした。

③ 明治大学付属八王子『気絶の子』

 こちらは生徒・顧問創作。
 母子家庭で育つ主人公の女子高生の、最近の楽しみは「ドカ食い」。帰宅すると買いだめてあるインスタント食品を一気に食べ、砂糖を追加したコーラを飲むという食生活で「血糖値を急激に上げる」と、不意に気絶し、なんともう一人の私が出現したのだ……という……ね。
 あらすじにまとめてると、とても狂っているのが分かる。怪作である。

 どうしてこれが面白いのか、説明しろと言われたら、どう答えるだろう……と、すごく悩んだのだった。

 上演を見た後、真っ先に「面白い」とつぶやいた私。
 でも「演技や、演劇として決して極端に上手いわけではなく、うまく行ってない部分がかなり目立ちはする」ともつぶやいた気がする。

 でも、「面白い」。

 そう、面白い。
 悔しいが面白かったのだったよ。あんなに上手くないのに。

 だがここで俺、油断しちゃいけないのは「裏笑いになってないかどうか」。
 つまりヘタウマな所、稚拙なところを逆に笑う、みたいな、失礼な評価になってないかどうか。

 審査員として呼ばれている以上「感性」や「好み」だけでは絶対にジャッジメントするまい、とは思っている。
 で、初見でこの劇を見た時、まず「面白い」と「上手くないなあ」が同時に来た。

 これは、怖い。
 もし自分が「ヘタウマ」を面白がっていたら、それはどこか、演劇の外側の部分を面白がっている事になる。
 だから、これを「面白い」というなら、絶対自分なりに言語化しないと。そして、もしこの面白さが「裏笑い」や「稚拙なところを「高校生らしくて」面白い」で消費してしまっていたとすれば、厳しく自分をぶん殴って、「良くないですね」と言わなきゃいけない。

 そう思って、会場から帰ったあと一晩中、この劇の何が面白かったのか、布団の中でずっと考えていたのだった。

 で、考えて、少しまとまってないけど、以下の通り考えたわけです。

・・・・・・・・・・・

 あらすじの通り、何かズレた面白さではある。

 世界観のとぼけた感じといい、登場人物の妙な素朴さ。
 「血糖値が上がる」と気絶し、もう一人の自分が出てくる――それは父親から遺伝された「D」の血族が影響してなんたらかんたら、父親もドカ食いしては第二の自分が見えて頭がおかしくなって死んだとか死なないとか――まあ、そういう、唯一無二だがどこか抜けている設定。

(設定がもうね、血糖値が上がると出現する「もう一人の自分」って何だよ……何系の発想でそんなアイデア出てくるんだよ聞いたことないよ……。なんか精神的な話ではなく実体を伴っちゃってるみたいだし、もう一人の自分は強気でなんか殺陣とかして敵を倒しちゃうし……どこまで二人が認識を共にしているのかがあいまいなところがあって設定が甘い、けど、なんかそれが気にならないで進行する謎の空気感もある。面白い。唯一無二だこんなものは。決して、映像や小説では表現できない……演劇という、曖昧さの許されるジャンルのみ有効な設定なんだよなあ、これは……)

 全体的なトーンが、軽やかで、マヌケで、明るい。
 演技体もそう。
 セットが簡素(ほぼ素舞台)であるため多動気味なパントマイムを多用し、主人公のどこか抜けた明るさと、周囲の仲間たちの柔らかさ。テンポよく出来事が起きていく、その停滞の無さもあって、表面上とても楽しい劇に仕上がっている。

 しかし、設定一つ一つを見ていくと、実はかなりの闇が見え隠れする。

 そもそも主人公の「ドカ食い」は、ある種のネグレクトからくる自傷行為、とも言っていい。

 最序盤で、主人公は誰もいない自宅で、ハイテンションで自語りをしつつ、床に正座して巨大カップペヤングをドカ食いする。

 ギャグにも見えるけど、これ、ホラーだよ。

 大声で楽しく独り言を言いながら、明るく6000キロカロリーを一気に食べることで、ようやく眠れる(≒気絶)って……冷静に粒だてたら不穏だ。
 床に大ペヤング2つ。
 素舞台だから、パントマイムでしかたなくそう演じているのか、あるいは本当に、誰もいない部屋で、テーブルも使わず(使えず)床にペヤング直置きで犬食いしているように食べているのが日常……だとしたら、まあまあネグレクトな感、あるじゃないですか。

 そう、主人公の母親は、序盤、やや冷たく主人公に接するんですよね。
  
 で、いろいろあって、劇の最後半。「ドカ食い」は健康に悪いから、と、せっかくコミュニケーションを取りつつあった第二の自分と決別し別れを告げたあと、父親の墓参りに行く主人公と母。
 父の好きだった酒を備えると、消えたはずの第二の自分がやってきて「Dはドカ食いのDだけじゃない……ドランクのDだ」とか、上手い事言って去っていく。
 これ、主人公、絶対数年後、酒浸りになるじゃないか。

 そう、脚本上、さまざまな「闇」のサインがある。
 ああ、意図的なんだ。
 
 主人公の女子校生が、どこか自信がなく、どこか消極的で、他人の目を気にしながら、世の中の役に立ちたいと思いながらも自己評価低い感じを、「もう一人の、強気で、力強い自分」が自分の気絶している間に解消してくれる。

 って、↑こういうのって、いかにも「高校演劇でよくある」テーマ設定だ。自身が無くて、自己評価低い、他人の目が気になる……って、よく選びがちで、でも、高校生にとってもっとも切実で共感しやすい問題なのだとも思う。
 で、だいたいはこういうのを「主人公が自殺して……」とかで展開させがちなのを、この高校は違った。

「自傷ともいえるドカ食いで、自分の健康を損ないながら、もう一人の自分と対面しコミュニケーションをとり、その原因の一つでもある母親を、憎むわけでもなく、ひたすら明るい困った笑顔を浮かべながらも関係性を紡いでいく」

 ってやって、

「舞台となる街は、連続放火犯や、オヤジ狩りをする不穏な犯罪者が多数いるという。ここよりもっと地獄。そんな世界で、主人公は自傷を繰り返し、もう一人の、暴力的な自分と「コミュニケーション」を取りながら、共にサバイブしていく。」

 ……と、表面上はコメディとして、この高校の部員の一人一人がおそらく持っているだろう根っからの明るさによって、異様に明るく演じるというところが、他ではなかなか出現しえない、唯一無二の空気感とセンスだと思ったんですよ。すごく高度なことをやっている。

 そしてこの劇をの配役した人は、この生徒たちをすごくよく見ている。
 よく見て、ひとりひとりにキャラがハマるよう、ちゃんと配置し、それがとてもうまく行ったのだ。

 一人一人の演技技術、シーンの演出力は稚拙なとこが多いかもしれない(会話の距離感、声の出し方、中盤での対話のシーンの見せ方の工夫の少なさ(ただ向き合って話すシーンが多いとか)、放火犯との対決の消化不良感、放火犯の唐突な登場とやや強引な退場といった構成力の弱さ、とか)。

 だけど、部員一人一人の持つ魅力や、キャラクター性を、適切に観察しつつ、役として配置し、そこに交換不可能な「個」があって、その「個」が、劇の根底に流れる不穏さを隠す。

 でもちゃんと、見る人が見ればわかるサインを残して。

 その作為、演出が、とてもいい。
 深刻な問題を深刻に描かない、だけど、やはり深刻である、という……強い批評性のあるしつらえと、それを可能にしているのが、唯一無二の、ある種の弱い身体とほんわかした明るさをもった俳優たちの個性だ。

 演技の技術の巧拙は、本当に気になる。気になるけれど、それは、劇のすばらしさを左右する最優先事項ではない。
 「上手く見える」のみを目指して上手くなったとて、ただの「上手い」は、結局交換可能なものになっちゃうし。

 この劇は、この瞬間、ここに居る生徒の個性がなければ出現しえなかった。ここに居る生徒の空気感がなければ、これほどゆるく闇を紛れさせることはできなかった。

 だから、この方法が選べた。
 この瞬間、いま、ここで無ければ見る事が出来なかった、再現不可能な劇の上演だった。
 それを、意図的に、生徒に主体的な部分もあって、上演がなされていたのだ。

 だから、面白かった。
 そこが、面白かった。そこに、演劇の面白さがあった。
 それで、推そうと思って、ここの高校を都大会推薦校の一つとして推したのでした。

「一人一人の個のゆるさの中に闇を含ませ、なんだかよく分からない気持ちにさせる気持ち悪さ気持ちよさ」が突出していた。

 これは他の上演ではなかなか見られない。そしてこういう良さは、実際に人が集まって起きる、演劇でしかできない。

 今、この瞬間、ここに偶然集った人たちが、作為をもってやったのが、おもしろかった。だから、これは、いいんだって思ったんです。

・・・・・・・・・・

 だから中央大会では……そうだなあ、でも、舐められたくないから、やっぱりもう少し対話のシーンをうまくしたいけどなあ。

 一人一人のキャラクターが、例えば会話するとき、どういう距離感、どういう体の在り方でいたら、より「そのキャラクターらしいか」を考えていく。
 たとえば距離感一つ、声のかけ方一つで、同じセリフであっても「こんな人いないかもしれないけど居そうだなあ」というのが出るはず。

 また、中盤の母と主人公の会話も、いわいる「高校演劇でよく散見される、まじめにやんなきゃいけないっぽいからまじめに対話しているっぽいシーン」になっていて、もったいない。

 あのあたりはもう少し現実世界に現れがちなの母と子の会話に寄せて、距離感や会話の動機、間を作ってもいいと思う。

 特に、お母さん。
 演じた俳優はこの座組の中でもかなり雰囲気が出ていて、突出してかなり上手い。
 上手いけど、その上手さの出し方がまだ足りない。なにか遠慮とか、空気を壊さない様にしよう、大人に見えるようにしようが先行していたのかな。

 あー、なんか、演出しに行きたい。一緒に考えに行きたいよ。でも、そういうわけにはいかないからなあ。

 お母さん役の人は、ちゃんと「引き算」の演技ができているから、面白いんですよね。
 だけどまだ出し方に戸惑いがあるのか。もっと自信と、あと現実世界の大人の距離感や子に対する動き、劇のテンポを崩してもいいから、自分の子を見る時、子に、真剣に話をするときの、やばい間とか、特有の時間を出現させてもいいかもあのシーンだけは。

 いや、やー、深刻にしすぎてもだめだけど折角の変な明るさが消えるのかな。

 あーでも。

 わー。

 議論しながら作りたいなあ。演出したいなあ。

・・・・・・・・・・・・

 そんな感じで、本当、我々二人の審査員が、いろいろ稚拙ではあるけれど、それでも推そう、と強く思ったんですよ。

 中央大会の審査員に、このセンスを見せて、一泡吹かせて欲しいんですよねえ。

④ 都立八王子北『夏芙蓉』

 こちら既成脚本。高校演劇の定番にもなっている作品で、他の地区でもこの戯曲を選んでいる高校が都内にある様子。
 全国で考えれば、何校も同じくこの夏、この戯曲に挑んでいた高校もあるのではないかな。

 卒業式直後の夜、教室に忍び込んだ一人の女生徒は、そこで三人の友人たちを待っていた。やがて現れた友人たち。他愛もない会話をしつつ、だけどその会話は次第にいくつか綻びやズレが見え始め、やがてある重大な事実と向き合わざるを得なくなり……という話。

 冒頭、暗幕にブルーの照明が照らされ、それらに間接的にあてられた並んだ机がとてもきれいだった。
 冒頭から、静かに、繊細にお話が始まる予感。悲劇的で美しい話をリードするいい冒頭だった。

 俳優は、きわめて誠実に脚本に向き合っていた印象。しっかりとこの脚本を観客に届けようと、セリフを明瞭に、テンポよく回していく。

 ただ、その誠実さは、何のためか。観客に、どうこのお話を伝えたかったのかが、気になる。

 テンポよく、ミスなく、しっかり、きちんと伝えようとはしていた。
 だが、すごく嫌な言い方をすれば「間延びしないように」「ミスをしないように」が先行していたようにも見えた。
 とにかく間を詰め、会話のテンポが途切れないようにしている。それは、この劇がたっぷり間を取ると60分以上かかってしまうところもある(らしい)。

 なので、よくこの劇を高校演劇でやる場合、やや急いて上演される印象がなくはない。あるいはテキストレジ(省略)するなど。

 この高校では、それらの問題をテンポよい掛け合いと徹底した間の詰め方で解決しようとしていたけれど。
 
 ここで、ふと。劇は、なぜ「間伸び」してはいけないのだろう。
 そもそもよく言われる「間伸び」とは何か。

 いや、この学校が間延びを回避しようとしていたかどうか、本当の所は分からないけど、でもそう見えたんですよね。

 何か、言葉のキャッチボールのパス回しが早すぎる。完全に捕球しないまま、次のセリフへ行ったり、そもそもテンポがずっとやや速いまま一定の速度の印象に見えたのです。全部、反射的に言っているような。

 親しい人たち同士の「会話」であれば、それで問題はない。
 ただ戯曲の中で、「会話」という範疇ではなく、相手に考えさせたり、すぐには理解しえないセリフだって出現する。

千鶴「あの時はごめんなさい。」
舞子「なんですのそれ。」
千鶴「謝りたかったの。」
舞子「なんで、怒ってないよ。」
千鶴「ホントに?」
舞子「うん……ありゃいつだっけ。」
千鶴「二月。みんなで、買い物行く前の。タマちゃんの、お母さんの車で。」

『夏芙蓉』越智優

 なんとなく適当に抜粋したところ。上記の引用だと、「あの時はごめんなさい」と「謝りたかったの」というセリフで、二回も謝っているセリフが出現する。
 これは、ただの会話として流すには惜しいセリフだ。

 どちらか一つは、もしかしたら反射的に返すかもしれない。(一回目か二回目かはわからないけど)。
 でも、わざわざ二つ同じような事を言わせてるって事は、それを受けるキャラ(舞子)は、おそらく、テンポを崩して、間を遣って、一度受け止めてから、返事をするのではないかなあ。

 テンポを優先するあまり、この一連のセリフを間を詰めて一気に発話しては、千鶴があの二月の出来事を触れようとする言葉が、生きなくなってしまう。

 千鶴がこのセリフを切り出すのは、だってほら、ね。あるじゃないですか、この劇の後半で。
 それに、どう触れようとするか。そのあたりが、中盤のスリリングなところであるはず。

 この高校の上演を見てて、僕はこのあたりの展開を、なんとなく見逃してしまっていた気がする。
 脚本をあらためて確認して、中盤からも千鶴は、けっこう何か切り出そうとしていた、やはり言えずに違う話にすり替えたりと、かなりスリリングな事をしていた。

 それが、実際の上演ではテンポよく間を均一化していることで、際立ってこないなあと思ってしまった。
 これは、千鶴役の俳優の責任ではなく、全体的な問題。むしろ、一人の言葉を「どう受けるか」に寄るところがある。

 演劇で、セリフを言う人にやはり注目が集まりがちだけど、シーンが上手くいかなかったり平坦に見えてしまう場合、セリフを受ける側に改善のポイントがあることが多い。

①誰かの言葉を受けて
②その言葉の意味や真意を理解し
③受け止めて
④何かを言おう、と決め
⑤言葉を探し
⑥実際に次の自分の言葉を発話する

 というプロセスを必要とするセリフが、この戯曲には結構あるんじゃないかなあ。

 ただ、そのたびに、ひとつひとつ長い間を遣っていては、当然冗長になる。取捨選択は必要になる。その取捨選択に、演技プランであるとか、演出が出現するんじゃないか。
 
 「間伸び」というのは、俳優の都合(俳優自身の納得、気持ち作り、俳優の作為)のためにセリフ一つ一つを受ける間が長くなることで、緊張感がなくなったり、人間のやり取りに見えない不自然な間が出現することを言う。

 だから、必要な間や、反応の間、俳優ではなく、そのキャラクターが考えたり、感じたりする間は、人間を人間らしく見せるために必要なのだ。

 ただ速度を速め、間を詰めれば、観客が集中して見てくれる、分かってくれる、という訳ではない。
 人間らしい間がないと、観客は置いてきぼりになってしまう。
 何か、話がどんどん先に行ってるなあ、と呆然と見てしまうような。

 どこに、「間」を遣って、観客にこの登場人物が、何を受け止めたか、間を遣わないことで、何を受け止めなかったか、スルーしたか。その出し引きによって、キャラクターというものを表現していく。

 けっして、セリフの言い方や言い回し、活舌よく、間違わないようにセリフを言う事が表現ではない。

 「間」を怖がらない。
 もっと言えば、人間として「何もしていない」という時間だって時に出現するはずだ。その出現を怖がらなくていい。何もしないことが、その人物を強く印象付けたり、輝かせることだってある。
 
 そしてこの戯曲は、夜の校舎に忍び込み、特別な時間を過ごすというしつらえになっている。いわば、無駄な時間、生者の時間ではなく、死者の時間。何もない時間。しかし、彼女たちにとっては貴重な時間である。

 セリフがなくたって、あの四人はただそこに居るだけで、幸せな時間が流れていたんじゃないか。
 それを、常にセリフだけで埋めてしまうのは、とてももったいない事でもある。

 セリフがあるから、真面目に、誠実に、なにか「やろう」としてしまったんだと思った。
 なにかを「やろう」とすると、当然「やろうとしたけどできなかった」つまり「ミス」を恐れる事になる。

 この戯曲を上演するにあたって、目指すべきはなにかを「やる」事ではなく、「ある」事。「なる」事ではないか。「do」ではなく「be」なのではないかなあと思う。そして「be」になれたのであれば、間を恐れることはなくなる。だってそこに居るのだから。死んだって、そこにあれるのだから。

 演劇でしばしば死が扱われるのは、死んでもなおそこに「あれる」から、太古の昔から扱われてきたんだと思うんですよ。

 この戯曲を高校生がこぞってあこがれる理由は、そこにあるんじゃないかなあとも思う。

・・・・・・・・・・・・・・・

 もう一点。これは、本当僕の個人的な感想なのだけど。
 最後のシーンで「先生(蓮美)」という人物が出現する。

 先生は終盤、千鶴の長いセリフを、大半、

蓮見「……。」

 で返す。
 何度も、返している。
「……。」で返しているのだ。何回も。何回も。オウム返しの応答や、「何?」という言葉も交えるけど、先生はずっと「……。」だ。

 そして、やっとまともな返しが、

蓮見「そうねえ。あなた、賢いわ」

 だったりする。

 私はいま、41歳だけれど、多分、この戯曲で描かれる先生より、さらに年上かもしれない。
 で、千鶴のその、長いセリフを、ひたすら受け、ひたすら、何もしない――いや、何もできない中、やっと出てきたセリフが、これかあ、と思った。

 前々からこの戯曲の上演は何度も見ているけれど、今回改めて、この部分が気になった。

 「あなた、賢いわ」としか言えない先生の気持ちって、なんなのか。
 それを口に発するまでの、あの長い長い「……。」は、どういう居かたで、そこに居たのか。そこにあったのか。

 先生役をした高校生の俳優の方に、そしてこの戯曲に挑んだ、全国の高校生の皆さんに、聞いてみたい。

 蓮美先生は、どう居たように、皆さんには見えたでしょうか。

 高校生の孤独な独白に、大人はどうそこに、ただ居る事が、ただある事が出来るでしょうか。

 強い言葉を放つ高校生の語りのさ中、「……。」を返すしかなかった、私たち大人の姿は、皆さんに見えていたでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 感想ばかりになってしまいましたが、都立八王子北の皆さんの誠実さまじめさは伝わる一方、ミスをしない、真面目では見えない、よくわからない「間」の中にも、存在するものがあるよって事で、一つよろしくしていただければと思います。

・・・・・・・・・・・・
そんなわけで二日目でした。
最終日と全体の感想は、すみませんちょっと更新時間かかりますが、必ず書きますので……。ではこのへんで。
 

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