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当て逃げ #2000字のホラー
今日も、当て逃げされた。
一昨日できた“腫れ”はまだ深い赤色をしている。今日のそれはまた一段と大きな“腫れ”になって、深い赤色に重なるように膨らんだ。今月になって5回目の出来事。たぶん、私が神経質なのがいけない。それでも、(痛いなあ。)とシャツの上から腫れた左の二の腕をやさしく撫でた。次第に、その右手は左の二の腕を強く掴んで汗ばみはじめる。さっきまで一緒だった友人の発言が頭の中で繰り返された。
「そっちは赤ちゃんまだ?早くできるといいね。子どもは宝よ。私、すっごく幸せだもの。」
*
初めて“腫れ”ができたのは3年前。付き合って6年になる彼と同棲しているときだった。
「どうして結婚しないのよ。」
母親からの問いかけに、(そんなの私が聞きたいよ。)という言葉を飲み込んで「まぁいつかね~」と返したその瞬間。
――じわり。
ピリピリと二の腕が痛んで、袖をまくると数センチのミミズ腫れができていた。どこかでぶつけたか、アレルギーか何かなのか…。放っておくと自然と治っていたので特に気にしていなかったが、「結婚すればいいのに」と言われるたびに二の腕は(じわり)と腫れ上がる。原因が“ありがた迷惑”な発言によるものだと気づくのに時間はかからなかった。腫れの大きさは様々で、だいたい2~3日で消える。できる瞬間は痛いけど、慣れてしまえば気にならない。私はこれを『善意の当て逃げ』と呼ぶことにして、1年耐えた。なんてことはない。彼が「結婚しよう」と言ってくれたから。私は幸せになれた。
“腫れ”から解放されて2年が経ったある日、親戚の集まりで誰かが言った。
「お前のとこも、早いとこ跡継ぎが生まれたらええなぁ。」
――じわり。
何気ない一言だったはずなのに、二の腕は痛む。おそるおそる袖をまくると、2センチもない“腫れ”が出来ていた。まだ新しい赤。『善意の当て逃げ』が再開した合図である。
*
今度は、解放まで時間がかからなかった。1か月に5回も『当て逃げ』された頃はさすがにしんどかったけど、なんてことはない。だって半年後には妊娠できたから。私はまた、幸せになれたのだ。お腹が大きくなっていよいよというとき、ふと癖で、何気なく左の二の腕を撫でた。
(え…?)
触れる感覚で分かる。思わず袖をまくると、“腫れ”は無数にあった。太いもの、細いもの、長いもの、小さい傷のようなものまで。
「何よ、これ。」
思わず声がこぼれた。だってそうでしょ、もうすぐ生まれる。私は幸せで、満たされている―。訳がわからず、夢中で二の腕を掻きむしった。こんなわけない。そんなわけない。だってずっと幸せだったもの。落ち着いて、妊娠期間の幸せだった時のことを思い出そう。私は目を閉じた。ここ数カ月のことを反芻する。ほら、親族・友人・同僚…様々な人からの祝福の声を思い出せばきっと…。
「やっぱりオメデタ?よかったじゃん、仕事辞めれるし。」――じわり。
「断然自然分娩のほうがいいって!ビデオとか残すと感動もんよ。」――じわり。
「この体操したら男の子が生まれるっていうから、ぜひやってみなさい!」――じわり。
「母乳じゃない?あぁ、一応ミルクの準備も…ね。今は楽できるなぁ。」――じわり。
「旦那さんも育休とってくれるの?じゃあラクチンじゃん。」――じわり。
「産後は毎日家のこと手伝いにいくから心配しないでね。」――じわり。
「親子教室、ちゃんと行ったの?ダメじゃないしっかりしなきゃ」――じわり。
「保育園?そうだな~やっぱり子どもは母親と一緒じゃなきゃ。」――じわり。
(もうやめて…。)左腕全体に腫れが広がって、痛みが強くなっている。意識がぼんやりとするのが分った。遠くから夫の声がする。こんな事じゃダメだ。私は絶対幸せになれる。痛みなんて、“腫れ”なんて、別になんてことはないのだから―…。
*
―目が覚めると、そこは病院の一室だった。そうだ、確か緊急帝王切開になるって…。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」
看護師さんの声が聞こえ顔を向けると、なんとも愛おしい我が子の姿があった。「本当に良かった。」「ありがとう。」と口々に聞こえ、夫や両親がそばにいるのだと気が付く。さっき見ていたものは夢か幻覚か、そもそも何を見ていたというのだろう。忘れてしまうくらい、疲労感と達成感と幸福感で満たされていた。よかった。もう傷つくこともない。だって誰もが納得する幸せを今まさに、手に入れているから。色々な想いが込み上げてきて涙が止まらない。周りも一斉に幸せの言葉を口にしていた。これを聞きながら、もう少しだけ眠ろう。そう思い目を閉じると、まだ朦朧としている意識の中で、ハッキリと聞こえた。
「早く2人目ができるといいね。兄弟がいたほうが、きっと楽しいよ。」
――じわり。
古傷が疼くような感覚に襲われ、たちまち悪寒が走った。慌てて左腕を見る。“腫れ”はそこにはもうない。だってあれは幻覚に決まっている。しかし、確かに痛みはそこに…。私は覚悟を決めた。深呼吸をして、目を開け、笑顔で答える。
「そうね。きっと、もっと、幸せになれるわ。」