Eclipse first, the rest nowhere.
『Eclipse first, the rest nowhere. 』
唯一抜きん出て並ぶ者なし
時代は18世紀中期のイギリス。
産業改革に続き、世界初の工業化である産業革命が起こったことで栄え自然権やら平等、社会契約説、人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まったり人々も社会も活発に変化していった時代。
この時代の競馬といったら、まだジョッキークラブも結成されていなかったし、今でこそ知らない人はいないイギリスの花形レースダービーも行われていなかった。
王族が開催する一部のレースを除けば競馬は貴族や富豪の賭け事に過ぎなかった。
この時代、競馬と言っても今とは違って長距離のヒートレースで行われていた。ヒートレースとは同じ馬を同じ組み合わせで行って競走を行って、優勝を決める競争のことである。
そして、この時代のちに伝説となる一頭の馬が誕生した。
1764年4月1日その日は、金環食であったことからその馬の名前は日食を意味する『Eclipse(エクリプス)』と名付けられた。
エクリプスはイギリス王族の軍人カンバーランド公によって生産されたが、1765年エクリプスが1歳の時に彼は亡くなったためエクリプスはセリに出された。
セリは公示時刻よりも早く始まりエクリプスは70ギニーで落札された。
しかし、エクリプスをどうしても手に入れたかったひとりの男がいた、羊売買商のウィリアム・ワイルドマンだ。
彼は、セリが公示時刻よりも早く始まっていたことに抗議し、再度行われたセリによってエクリプスを75ギニーで競り落とした。
しかし、そんな苦労して手に入れたエクリプスだが、非常に気性が激しいく、ことあるごとに暴れて。鼻を地面すれすれまで下げる走法で誰も乗りこなせなく、ジョッキーも彼に乗るのを嫌がり乗りてもつかなかった。
そこでワイルドマンは去勢を検討した。
気性難の馬に対して去勢をすると言うのは現代においても一つの手段であり去勢をし男性ホルモンを減少させエネルギーのコントロールがしやすくなる、あるいは走ることに集中できるようになるからである。
人を乗せれない競走馬だ、ワイルドマンは去勢を検討するのは至極まっとうな考えだった。しかし、ワイルドマンは友人助言によって去勢することをやめ局辛抱強く馴致を行った。
そしてまた、荒馬を乗りこなす達人として知られていたジョン・オークレーがエクリプスを乗りこなすことができたため去勢せずにオークレーを騎手として競馬に使えそうな見込みが立ちエクリプスが5歳の時、競走馬デビューさせることにした。
そして伝説が動き出した。
エクリプスをデビューさせるにあたりエプソムで試走させてみると、エクリプスは予想外の力を見せた。
試走中のエクリプスを見かけた老婆は「あれが本当の競馬であったかどうかよくわからないが、右後脚一白の栗毛馬がもの凄い形相をして疾走し、たちまち相手馬との差をどんどん広げていくのを見たのはたしかです。あの馬に追いつくには地の果てまで走り続けても……」そう話したという。
(参考https://www.bloodlines.net/TB/Bios/Eclipse.htm)
その試走の話はたちまち噂になり、エクリプスのオッズは一挙に1対4にまで跳ね上がったと言われている。
そして、5歳5月にエプソム競馬場で行われた賞金50ポンドのヒート競走ザ・ノーブルメン&ジェントルメンズプレートでエクリプスは単勝オッズ1.25倍の一番人気で公式戦デビューを果たす。
エクリプスは人気に応え4頭の対戦相手を蹴散らして勝利を収めた。
さてここで一人の男が第2ヒート前に
『全馬の着順を賭けてもいい』と言った。
そうこの男、18世紀後半にイギリスで名をはせた賭博師デニス・オケリーである。
さてこの男だが文中もう既に登場しているのだ、そうワイルドマンに去勢をするなと助言をしたあの友人だ。
オケリーは賭博が大好きであった、それは筋金入りだった。どのくらいかと言うと、ビリヤードなどの賭博で有り金を使い果たし破産、島流しになるほどにだった。
ではなんでそんな彼がここでそんな話をしてるのかというと、彼はまた運も良かったのだ、流刑予定地アメリカで独立前の混乱が起こり、囚人船が出発できずロンドンに逆戻り、さらに1760年ジョージ2世の死去に伴う特赦で釈放。(特赦:行政権により国家の全部又は一部を消滅若しくは軽減させる制度のこと)
囚人船の中で知り合ったシャーロット・ヘイズと組んで行った賭博がことごとく成功し、ついには金の力で大佐の地位まで手に入れた。
そしてオケリーは続けてこう言った
『 Eclipse first, the rest nowhere. (エクリプスが1着、そして残りの馬はどこにもいない)』
当時のヒート戦のルールでは、1着馬から240ヤード以上離された場合には入着を認められないため、エクリプスが他馬を240ヤード以上離して勝つ、と予想したものである。
結果、エクリプスが圧勝し、残りの馬は240ヤード以上遅れてゴールのため失格。
まさにその予言の通りとなったのだ。
そしてエクリプスは競走馬として瞬く間に名を馳せることとなる。
デビュー戦同月に行われたアスコット競馬場で行われた賞金50ポンドのヒート競走ザ・ノーブルメンズプレート(T16F)にも出走。
この時もエクリプスは一番人気に支持されその人気に応える勝利を成し遂げた。そしてオケリーはこのレース後に、エクリプスの所有権の半分を650ギニーで友人であるワイルドマンから購入した。
そして、このレースのわずか2日後、あまりのエクリプスの強さに競争相手がいなくなり単走となった。
エクリプスの強さが明らかになるにつれ賭けレースを挑もうという人は少なくなり、馬主が貴族でもジョッキークラブに所属しているわけでもないエクリプスにとって出走する競走がないという問題が出てきたくらいだった。
また、大佐という地位を買ったオケリーだが、戦友とも言うのであろうか共に賭博で大儲けした妻のシャーロット・ヘイズが売春婦出自ということもあり上流階級には入れず、多くの競馬場運営者達が、エクリプスが勝っても設定されていた優勝賞金を支払う事を拒否したために、オケリーはエクリプスが出るレースでエクリプスに賭ける事により専ら利益を生み出す。
しかし、この後も出走可能な貴族と紳士のプレートのような競走に出走し続けるが、登録する端から皆が回避してしまうために、エクリプスは生涯で少なくとも8度の単走を記録した程だった。
かくして、エクリプスにマッチレースを挑もうという馬はほとんどいなかった。
しかし、1770年エクリプスに初めてのマッチレースが組まれた。
相手は当時北部を中心になかなかの実績を上げていたブケファロスという馬で、馬主ペレグリン・ウエントワースは6対4という強気な掛け率でエクリプスに挑んできていた。
このマッチレースでもエクリプスは楽勝。
ウエントワースは自らの愛馬が惨敗したことにショックを受け半年間自宅に引きこもってしまったという話すらある。
そしてその年の4月にオケリーは1100ギニーでエクリプスの権利を全て買い取ったのだ。それからもエクリプスは負けることなく勝ち続けた。
そして、10月予定していたマッチレースも唯一の対戦相手が故障になりなくなり、最後は挑んでくる者もいなくなったためこのシーズンを最後に引退することとなった。
生涯成績は18戦とも20戦とも26戦とも言われているが全勝だったことは確かであった。
エクリプスはまさに怪物のようなその実力で伝説となったのだ。
そして、エクリプスは引退後オケリーがエプソム近郊に所有していたオケリーズクレイヒルスタッドで種牡馬入りを果たした。
はじめての年の種付けは50ギニーにもなった。
エクリプス、彼がサラブレットと呼ばれたことはないであろうがサラブレットの血統を限りなく遡ると、世界中のサラブレットの95%(〜98%程)の直系子孫になっている。
顔には流星が走り、右後脚にソックスを履いていた気性の激しさで知られたエクリプスだが、オウムと仲が良いという一面も持っていたとか。
一頭の馬が作った伝説のお話でした。
※あくまでお話程度なので気になる方は調べてみてくださいね
Wikipediaなどから一部引用しているので
明確な内容をしりたいかたは下記Wikipediaなどから確認くださいー!https://ja.m.wikipedia.org/wiki/エクリプス_(競走馬)
参考文献
山野浩一『伝説の名馬 I』中央競馬ピーアール・センター、1993年 ISBN 4924426377
原田俊治『新・世界の名馬』サラブレッド血統センター、1993年 ISBN 4879000329
Eclipse(Bloodlines)
Eclipse(Thoroughbred Heritage)
原田俊治『馬の文化叢書10 「競馬 - 揺籃期のイギリス競馬」』財団法人馬事文化財団、1995年(以下2文献の部分訳)
Theodore Andrea Cook『A History of the English Turf』vol.1 - vol.3 div.2 (Virtue And Co)1901-04(千葉隆章訳)
Charles Mathew Prior『The History of the Racing Calendar and Stud-Book』(The Sporting Life)1926(三宅隆人訳)
日本中央競馬会編『サラブレッド世界百名馬』中央競馬ピーアール・センター、1978年
石川ワタル『世界名馬ファイル』光栄、1997年 ISBN 487719293X
Charles Vial de Sainbel『An Essay on the Proportions of Eclipse.』 London: Martin and Bain、1795年
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