大学生がうどん屋さんで泣いたわけ。
今日、うどん屋さんで泣いてしまいました。
忙しい一日の最後に、大好きなうどんを食べられることにワクワクした気持ちで両親と出かけました。チェーン店のうどん屋さんで、オーダーしたうどんが目の前で作られます。
私がオーダーしたのは、卵ととろろがのったうどんでした。でも、目の前に出されたのはとろろだけがのったうどん。私が「あれ、卵が」とつぶやくと、店員さんは「あ、○○うどんでしたか。」と言って、私のうどんにスッと手を伸ばし、調理台に戻しました。
卵を上にのせて戻してもらえるのだろうと安心して待っていると、次の瞬間、そのうどんは丸ごとゴミ箱に放り込まれ、新しく別のうどんが用意されました。おそらくスープが異なるメニューを作ってしまったからだと思います。
あまりにも一瞬の出来事で、「そのままで良いです」と言う間も与えられず、絶対に食べ物を捨てないことがポリシーの私は唖然としました。
胸がぎゅーっと苦しかったけれど、必死で平然をよそおって席に座りました。こんなことで泣いてはいけない。分かってはいても、うどんをすすり始めた瞬間に目からポロポロゆっくりとしずくが落ちていきました。
こういうビジネススタイルが当たり前の日本では仕方のないことだと分かっています。でも、「殻についた白身もしっかり落としてね」とコロンビアで教わってきた私には、あまりにもショックな出来事でした。
うどんが捨てられたそのこと自体というよりは、これが当たり前で、正しいとされている社会で生きていること、理想を掲げながらも、自分もこの社会の中で一つの歯車になっていることが悔しかったのかもしれません。
泣いてしまったからには、きっと私の気持ちを理解してくれない両親にも、その涙を説明しなくてはいけません。「あれがしょうがないのは分かってる。でも、そんな異常なことが当たり前になっている社会に生きていることが悲しかった。」
ショックすぎたのか、自分でも強すぎると感じる言葉を発してしまいました。この世界には色々な考え方の人がいて、それぞれ異なる考え方を持っているのだから、私にとっては「異常」でも、その言葉を使うべきではなかったと思います。
母は案の定、その言葉に強く反論しました。「自分で分かってないんだろうけど、あなたはすごく偏ってるよ。あなたの思想で不快になる人は沢山いると思う。あそこはチェーン店でこれだけ展開できたのにはそれだけの理由とルールがあるんだから。そういう人にとってあなたの考え方は不快。」
反論はしなかったけれど、自分なりにその言葉をずっと頭の中で考えていました。「私は常に弱者を傷つけない発信を心がけているつもり。でも、よく考えたら、誰かにとって不快かどうかは、あまり考えたことがなかったかもしれない。それはどうしてだろう。そして、だれかにとって不快なことは発信しないべきなんだろうか。」
しばらく考え続けて、自分なりの答えが出ました。
母の言う通り、私はすごく偏っていると思います。コロンビアのような社会では極めて「正常」かもしれませんが、日本では明らかに「偏って」います。私の意見を不快に思う人がいることも、きっと事実です。
でも、この不快さも重要なのではないかと思います。白人主義者はBlack lives matterに不快さを覚えます。ヴィーガンに対して「強制されているように感じる」と不快さを覚える人もいると聞きました。戦争中は、命を守ろうという言葉は不快なものとされ、そんな言葉を発すれば非国民と言われました。だとすれば、誰かにとって不快だからと言って発信するのをやめることは、それはそれで危険なことではないでしょうか。
世界の大半の人が不快だと思う意見だからといって、間違っているわけでも、発信してはいけないわけでもないと思いました。むしろ、そういう不快な言葉こそ発信されるべき場合もあるのではないかと思います。
きっと、この社会でみんなが誰も不快に思わない言葉を発し、周りに同化していたら、地球の破壊は進み、格差はどんどん広がり、人種差別は悪化していくと思います。
だから私は、たとえ100人中99人にとって不快で異常な存在だとしても、うどん一杯のために涙を流す大学生でいつづけたいと思います。
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