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近況と思考

気づいたらもう2ヶ月もnoteを書いていませんでした。怠惰です。書けなかったのです。

やっぱり、文章を書くというのはすごく難しくて、自分の気持ちを立体的に描こうとすればするほど、「いやこれはデジタルの世界にアウトプットしちゃだめだな」と折れてしまう。

伝えたい、伝わってほしいという気持ちが強いからなのかな?とも考えたことがあるのですが、どうやら違うらしいと最近わかりました。

このネット世界で伝えられる情報はあまりにも少なすぎて、今の自分の技量ではこの心情を、体裁の統一された文字情報のみで書き上げることはできないと思ったのです。

私は、"表現"が自分の人生での大テーマだと思っているので、自分が納得できない表現を、そのあやふやな形のまま誰かに見せたくないと思ってしまいます。

だから、今まで書いていた哲学的なnoteの続編も、なかなか書ききることができていません。最初は勢いに任せて書いていたのですが、最近はすっかり筆が止まっています。


そんなわけで、今日はリハビリがてら、最近考えていたことや近況なんかを少し書かせてください。事実を書くだけならいけるかも…?と思っておりますm


アートの真髄に迫ってみる

4月からアートスクールに通い始めました。といっても、何かを創作する学校ではありません。精神科医であり音楽家の泉谷閑示先生が開講なさっているArt Spirit Schoolです。

端的に言えば、現代社会に潜在的に根付く意識や文化について、歴史的な文学作品や映画、音楽を教材としながら「これって本当にこうなんだっけ?」とみんなで問い直しをしていく私塾のようなものです。

運動会のテーマソングとしてよく使われる「天国と地獄」を題材に、キリスト教的な価値観から一歩引いたときの「天国」と「地獄」の意味について考察したり。イル・ポスティーノという映画を題材に、隠喩や言葉が象徴する”なにか”について考えたり。

私は現代のエンタメもとても好きなのですが、歴史の深い芸術作品はまた違った味わいがあるなあと感じます。普段消費しているエンタメは「面白い!鳥肌!わくわく!」みたいな、瞬間的な感動の強さ・体験の色濃さが際立つのですが、古い作品は言葉では言い表せない濃度と質量を感じます

言葉にすると、感情の鮮度が失われてしまいそうで、そうやすやすと言葉にしたくないというか。それくらい、心や細胞へずんずんと浸透してくる感覚があるので、心身ともに元気なときでないと向き合えないなとも思います笑

そうそう、映画イル・ポスティーノのメインキャストであるフィリップ・ノワレの演技は本当に感動しました(ニュー・シネマ・パラダイスのあのおじいさん役の俳優さん)。演じる役によって、人相や顔相がまっっったく違うんですよね。化ける俳優、カメレオン俳優とはまさに彼のことだと思いました。

今の日本の俳優さんでそれほどの演技力を持つ人ってあんまりいない気がします。上手に演じてはいるけど、あくまでその人のままというか。そもそもドラマをあまり見ない人間が何を言うかという感じなのですが…!見る側が無意識にその映像作品に引き込まれてしまうほどの演技をする俳優さんは、きっと命を削ってその役を演じられているのだろうなと思います。

自己否定と絶望の先に深い感動と共鳴があると思うのです。

自己否定や絶望のひとつやふたつ、本当にいいものを作ろうと思うなら避けられない道だよな、と最近思います。

心の病がはびこる現代を肯定しているわけではありません。でも、今まで音楽やデザインに向き合って来る中で、自分自身の不安定すぎる心の波模様や、深い沼の底に落ちたような絶望や葛藤があったからこそ、作ることができた作品も多くあったように感じます。

ご時世的なものもありますが、今ってマイナスをできる限り取り除いて、プラスを増やす動きがあらゆる分野で進んでいます。社会的に"生きやすさ"へスポットライトがあたることで、自分とは違う生き方や価値観を持つ他人への興味関心は促進されたものの、他人の意見に対して「私は違うと思う」と言わせない・言えない風潮になっているのも事実です。

だから、人から否定されることも少なくなってきているし、葛藤や不安で押しつぶされそうになっても「思い切って逃げる」選択をしやすい世の中になっています。絶望しにくい、というのが正しいのかわかりませんが、そんなニュアンスです。

私は学生時代の多くをひっそりと自己否定にまみれながら過ごしてきたのですが、周りの機嫌をめちゃくちゃ気にする子どもだったので、両親以外の大人に叱られる経験をほとんどしたことがありません。そのことに、子どもながら強烈な焦りや不安を感じていたこともありました。

他人から否定されず、怒られることなく大人になって、私は大丈夫なのだろうか。子供時代のこの不安は見事的中してしまい、おとなになった今、大きな挑戦に対して尻込みをしてしまったり、自分を主張しきれない、余計なプライドを脱ぎ捨てることのできない歯がゆさを感じることがよくあります。

まわりから負のエネルギーを受ける経験って、できれば避けたいと思うのが普通だし、あえて自分から積極的に浴びに行く必要はないと思います。でも、絶望したり、どうにもならない葛藤を経験することって、自分の感性に大きな影響を与えるし、絶対自分の血肉となって、人生のあらゆる局面で助けとなってくれると感じます。

これは完全に余談ですが、この人すげーな、と思う芸術家の方って、闇を強く感じる方が多いです。闇があるから光を強く感じる、という言葉をよく耳にしますが、そういうことではなく…。

人間の深層心理にダイレクトに突き刺さるというよりは、殴られたときはあんまり痛くないけど、試合後にじわじわと効いてくる脇腹へのアッパーみたいな。「おお!」というより「うわあ、、」という声が漏れるイメージです。

特にその人と会話をしたことがなくとも、作品を通して深く対話をしたような感覚になるのです。身体と心の全部で作品を受取り、共鳴して、形なき対話が生まれる。不思議なのですが、その時うけとるパワーってすさまじくて。三日三晩寝なくても元気でいられるのでは?と思えるほど満たされた感覚になります。ほんと、なんなんだろう、あれ。

残念なことに、まだデザインの世界ではそういったデザイナーさんに出会ったことがありません。そして、私自身も、デザインというツールでそれほど深い感動を与えられるものなのか?と疑問を持っています。

デザインは自己表現というより、コミュニケーションや体験設計のひとつという色が強いので、なかなかその境地にたどり着くのは難しいのかもしれません。

でも、もしできるのなら、その境地までいってみたいですね。アートとデザインの境界を溶かすようなデザイン。やってみたいなあ。


あばよSNS。達者でな。


GW頃からSNSを一切見ない実験をしています。インスタ、Xのアプリを落としました。noteやデザインの実績をupするときだけ、再びインストールするようにしています。

というのも、SNSの必要性を感じなくなってきているからです。デザイナーなら発信をした方が新たな出会いもあるし、自分自身の言語化の練習にもなる。それはめちゃくちゃそうだよねと思うのですが、どうにも自分に必要だと思えなくて。

あくまで私にとってSNSは自己表現のツールであり、友人との交流の場。最近はSNSって自己表現のツールだよね!と言い切れないくらいノイズの多い場になっていると感じます。

ちなみに私のXのおすすめフィードは、不倫された奥様方の嘆きや、お水商売をしている女の子たちのオジへの不満ツイートで溢れています。水商売の社会構造や人間の意識や、愛情/憎しみといった人間の深層心理についてはめちゃくちゃ興味があるので思わず見ちゃうのですが、一度見ると永遠に流れてきますよねあれ。精神衛生上よろしくないです。お願いやめて、イーロンマスク。

SNSの魅力のひとつって多分、セレンディピティだと思うのですが、SNSを始めた当初はその恩恵を感じていたけど、今はそんなに感じていなくて。知らなくてもいいことを知る必要は別にないんじゃね?と思うようになりました。

これはなんだかスピリチュアル的なニュアンスになってしまうのですが、自分が人生の中で知る必要があるものは、別にSNSを使わずとも知るようにできているのだと思うんです。だからあえてSNSで情報を取りに行かなくてもいいんだと思うのですね。

友人の近況を知れないのは少しさみしいのですが、知りたいと思う人には会えばいいのだという結論に至りました。そうです、会えばいいのだ。

私は良くも悪くも他人の影響を受けてしまいやすいので、SNSとの距離感は考えないとあかんよなあと昔から思っていました。ようやく最近踏ん切りがついて、よっしゃやめるぞ、となったわけです。

今のところ、気分は良好です。でも、SNSと引き換えにYoutubeを見る機会が増えました。はいそうです、デジタルデトックスはできておりません笑 意味があるのかないのかよーわかりませんが、実験的に続けてみようと思っています。


不穏な揺れ方をするメンタルの波を泳げるようになってきた

中学~大学時代、心がなかなかに不安定だったということは、今までのnoteで何度も書いてきました。両親や親友との対話に助けられ、病院こそいかなかったものの、お風呂に入れず、部屋の掃除もできず、外にも出られない…みたいな現象が頻繁に起きていました。

そして今でも2ヶ月にいっぺんくらい、その時の状態とそっくりな精神状況に陥ります。その度にめちゃくちゃ恐怖です。またあの頃に戻るんじゃないかって。

今日もちょうど、その2ヶ月にいっぺんくらいの日だったのですが、なかなかにしんどかった。1週間前くらいから悪夢しか見ないようになって、胃腸の調子が悪くなって、なんかおかしいなーと思っていた矢先のことでした。布団から出られず、でも食欲だけは湯水のように湧いてくる。そこらへんにあるお菓子を片っ端から食べながら、Youtubeを漁るという廃人生活です。

でも、学生時代から少し成長したなと感じるのは、その絶望タイムが半日ほどでスッキリ終わってくれるようになったのです。一通り絶望して、自己否定と食っては寝てを繰り返したら、「…よし、茶碗でも洗うか」と日常に戻っていけるようになりました。

自分が納得するまで絶望しまくる、というのも大事なんだなと感じます。絶望している間は、それはそれはキツイし「私のこと否定してくる人みんなきらーい!!優しくして!!」と極上のメンヘラ女子に成り果てるのですが、一旦その時間を味わい尽くすと、気持ちもだんだん落ち着いてきて、ちゃんと周りの生活に目が向くようになってくるんですよね。

負のオーラに包まれている自分自身を否定して、なんとか無理矢理にでも元気になろうとすると、余計に悪化することが多い気がします。元気じゃないときは元気じゃない自分を存分に味わったほうが良いのかも知れないです。

さっきの章でも少し書いたけれど、絶望を経験する回数が多い方が、見える世界の解像度がぐんぐん上がっていく気がします。だから、しんどいしキツイけど、こういう精神の大波小波も、なんとか泳いで乗り越えていこうと思うのでした。



おしまい。


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