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能登と私が繋がった一年と、繋いでいくこれから。
今日の16時10分は、淡路島の小さな砂浜で、黙祷しておりました。
波の音をききながら。
瀬戸内海と、日本海。遠いけど、繋がっているはず。
淡路島も、ちょうど30年前の1995年1月17日に、阪神淡路大震災で大きな被害に遭った場所。
大晦日であった昨日、ドライブ中に偶然目にした当時の断層と、立ち寄った資料館で見た映像は、震災の被害は実に長い時間、その土地と人々に残り続けることを教えてくれた。
それから、今も、地震による困難を抱えているのは、能登だけでなく、東北も、熊本も。決して一か所だけではないことを思い出させてもらった。
その中で、能登半島地震は、私自身が、初めて、支援活動に関わることになった、色んなことを教えてもらった、そんな経験。
私は、1年前から今日までの間、能登と繋がってきた。
地震が起きた2024年1月1日。
新年早々の災害に衝撃を感じていた私が目にしたのは、「能登に行きます」と発信する仲間のSNS。こんなに早く行動できるのか。すぐさま動き出す人が、私の周りだけで何人もいた。
今まで、災害支援とは無縁だった。支援活動をする人たちは、私にとって、遠い存在だった。
だけどこの瞬間から、それは完全に自分ごとに変わった。
話が少しそれるけれど、私はそのちょっと前である2023年の暮れ、「世界とつながるために使ってほしい」と、使い道を試された1000円札を一枚、頂いていた。
「世界とつながる」が分からなくて、何に使おうか、考えていたけれど。
私は仲間のあの投稿を見たとき、迷うことなく使うことができた。
それが私が初めて能登とつながった時だった。
自分の知っている人間が被災地に行く。
私は、能登に向かう彼らにあの1000円と、もらったばかりのお年玉の一部を託した。
大切なお金の使い方。自分にできることを実現できた。
あれから1年。
・被災地での実際の家屋支援活動
・都内での継続的な募金活動
・復興イベントお手伝い
・クラウドファンディング協力
・水害支援
・SNS発信
私は、様々な形で能登に関わり続け、自分にできることを模索し続けてきた。「能登のために」で行動できるようになった。
石川にも何度も行き、頭の片隅にはいつも能登のことがある、1年だった。
私は、この経験を通して、能登のことが、大好きになった。
七尾の一本杉通り、魅力的だったな。和倉温泉、あったかかったな。能登のご飯屋さん、おいしかったな。珠洲の海、美しかったな。
何より、災害支援を通して愛おしい人々とたくさん出会うことができた。
災害支援の場にいる人びとは、大切な誰かのために動くことができる、素敵な人たちしかいなかった。
誰かのために動く、愛の循環がそこにはあった。
愛する存在を守りたい。
故郷を離れざるを得なかった人、今もショックを抱えながら生活している人、家が壊れたままの人。
被災していなければ、当たり前のようにあった暮らしを、取り戻すために私は動いていたい。
これからの1年は、この想いを持って、より大きなパワーを能登に届ける。
災害支援で生まれた愛を、私も繋げていきたい。
地震から30年経った淡路でさえも、その傷は残り続けていることを目にした。
能登の被災は、過去の出来事にされてしまうにはあまりにも早い。
まだ、助けを求めている人たちがたくさんいる。
1年経って人々が再び能登を思い出す今が大事。
私たちにできることはいっぱいある。
1円、募金箱に入れてみるだけでもいい。
今年、私と一緒に能登行ってくれる人も募集してます。
「寄せては返す波のように、私たちは離れ離れになってしまっても、また巡り合うことができる。」
私が聴く度に能登を思い出す、あるフラの歌に込められたメッセージを添えて。
この曲を今度能登で踊りたいな。