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曖昧な



写真は ひの 様より拝借致しました。ありがとうございます。





さて、のんびりとこの二日間をすごせたこと、ありがたい。前回内と外というはなしをしていて、それも忘れていた。つかむも、手放すも、ひとは全てを識ることなど叶わぬ、そしてその積りでもない、ということ。大切なことは、こころとからだを調えて、穏やかに(できる限り)健康ですごすこと




いろいろなことが、曖昧な色のなかに、とかしこまれていく。ような。冬なのに、鮮やかな色がそこには現われた。それはカオスなわけでもなく、所々に理(ことわり)はある。あえていえば、免疫系の「スーパーシステム」それの話が、いまさらながら興味深い。

このあたりか。
そうした「システム」をみる在り方と、他方に「幻想」や「呪い」への考察があって、両者はいずれも「アンダーコントロール」の術(すべ)の、人間の探究の一端なんだと、私は思っています。




自らのアンダーコントロールを外し、また逆に、アンダーコントロールに他人や環境を置きたいという欲求をどう扱うのか。それについて、良寛さんは、越の国の大地震とそれに告ぐ飢餓に面したとき、こういう言葉をのこされた「苦しむときは苦しむがよく、死ぬるときは死ぬ、それが苦や死を免れる一番のやり方」と。




システム的な世界把握もせず、呪い・幻想のような意図的な色にも染まらぬ。そして「全体性」やらも追わず、かたらず。楽なときは楽にすごし、苦しいときは苦しみ、その、寄せ来る波をたのしむように過ごせたらいい。そう、かくも曖昧=無明なる、それは手放すことと同義なのではないかな、とも。


今夜はもう一冊

わたしは枕辺に置いて、無作為によんでいます。わかるかといわれれば、わかりません。でも、なにかたのしい。禅味という。

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