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エドゥアール・マネ / メトロポリタン美術館
とことこと
※画像は エドゥアール・マネ/メトロポリタン美術館 さまより拝借致しました。有り難う御座います。
ここのところ、般若の思想、中観というものを改めてこつこつと考えて、読んでいて。テキストは岩波文庫の『般若心経 金剛般若経』です。いままで、縁起というもの、相互に依存するということを狭く捉えていたなと。ぱっと開ける思いでした。
それを更に敷衍させると、華厳経の理と事の世界になってくる訳ですね。そしてそれは禅の時代までくだってくると「平等覚」といったあたりになる。そこまでたぐってみて、ハァなるほどなあと合点、したように思えたり。それも消えていくのですが。
ふと思うのは、それでも私が人を他意無くも傷つけたり、又は傷つけられた経験というものは、なんだろう。そこに無自覚でいてはならんと思うので、やはり業(カルマ)の思考というものは、仏教におけるバラストみたいになっていると思う。空無とか、事事無礙なんていうてぱあっと舞いあがるんじゃなしに。誰もが、だれかを傷つけたことがある。ある意味ではそれを折りこんでの、縁起であると。
今こつこつと読み直している、今井恵子さんの歌集です。
いい歌集は、何度読んでもいいですね。前半も後半もいい。
静止するクレーンの下に並び立ちテトラポッドは海風のなか
今井恵子
巻頭歌です。この一首の「並び立ち」は、なかなか出ないことばだなと。ここで若干「異化」される。韻律的にもすこし凝縮される、凝集されるというか。単なる描写のうたに、サムシングが加わっている。この微妙なところを味読するのが歌集を読む、慶びではなかろうか。
私のうたも、最後に載せる。
あたたかき数日ののち身を締むる寒当然の如く来たりぬ
今井聡