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後に残るは希望だけなり

1,
「やれやれ、この家を終えたらすこし休憩を入れるとしよう。お前もさぞかし疲れたろう」

 サンタクロースはそう言って、もう一度プレゼントの配達票で住所を確かめると、ずっと夜空を駆け続けてきたトナカイたちの首を軽く叩いてやった。まったく、いつまで続けなくてはいけないのやら。子供たちのためとはいえ、すべて投げ出してしまいたくなることもないではない。

「ゆっくり行ってくるとしよう。だからお前たちは、せめてゆっくり休んでおいで」

 屋根のほうを振り向き、サンタクロースはほっと安堵した。煙突が見える。近ごろでは煙突のある家も珍しくなった。ない場合は見るも怪しげな道具を持ち出して、家のどこかの鍵をこっそり開けて忍び込まなくてはならなくなる。当然今までに何度もそうしてきたが、何度やっても好きになれない。ときにはセキュリティ・システムを作動させ、逃げ出さなくてはいけなくなることもあるのだ。

 懐古主義は好きではないが、やはりサンタクロースは煙突からに限る。彼はそう思っている。やはりなにごとつけても気分は重要なのだ。煙突から入り、狭い中をずりずりと降りていくと、サンタ気分が否応なしに高まってくる。そうして置いたプレゼントは、くたびれきって置いたプレゼントとは違う表情をして翌朝に子供たちを迎えるような気がするのだ。


2,
 煙突を抜け、暗闇に目を凝らす。ここでクリスマス・ツリーが見つかれば、仕事は楽だ。その下にプレゼントを置いて、さっさと引き返せばいい。見つからないと、面倒なことになる。だいたいは玄関ホールあたりに行けば置いてあるだろうが、中には変わったところにツリーを置く家族もいるのだ。洗面所に飾る家族もいる。とりわけ厄介なのは子供部屋にツリーが飾ってある場合で、こうなると、寝息を立てる子供たちを起こさないようにするだけでもひと苦労なのであった。

 さて、この家はどうだろうか? サンタクロースは闇に沈んだリビングルームに目を凝らした。見えない。足音を忍ばせながら、室内を進んでいく。こうして神経を張り詰めさせるのが、いちばん疲れる。「まったく、ぴったりとカーテンを閉め切りおって……これでは光が入らんではないか」と、やり場のない怒りが募り、心に不愉快なさざ波が起こる。

 なかなか見つからないツリーの影に、サンタクロースが業を煮やしかけたそのときだった。リビングルームの端に小さな灯りが点った。その仄明かりに部屋がぼんやりと浮かび上がる。サンタクロースは慌てて、灯りのついたほうを振り向いた。

 そこにはベッドがひとつ置かれていた。電動でリクライニングする、介護用のベッドである。そこに老人がひとりいるのが見えた。肘をついて体を起こし、隣に置かれたランプに手を触れたまま、サンタクロースのほうをじっと見つめている。

「こいつはたまげた……」老人が言った。

「声を立てないで!」サンタクロースは慌ててそう言うと、人差し指を立てて自分の唇にあてがった。「怪しい者じゃないんだ。サンタクロースだよ、私は。正真正銘本物の」

「大声を出そうか」老人は、険しい眼差しで見つめている。

「やめてくれ、それはやめてくれ」サンタクロースは袋を床に放り出すと、敵意がないことを示すように両手のひらを老人に向けて振って、武器を持っていないことを伝えた。「できるだけ速やかに仕事を終えたいんだ。プレゼントを置いたら出ていくから。約束しよう」

 老人は、なおさらいぶかしげな視線でサンタクロースをじろじろと眺め回したが、やがて眉間に寄せた皺をほどくと全身の力を緩めてベッドのリモコンを操作し、上半身を起こした。

「なるほど、どうやら危ない御仁でないのは確かなようだ。こんな老いぼれ、その気になればすぐに黙らせられるだろうからな」

「お分かりいただけてなにより」サンタクロースは、床に落とした袋を拾い上げると口を開け、中に手を突っ込んだ。一刻も早く出て行きたい。

「その代わり、私の願いもひとつ聞いてもらおう」老人が言った。

「いや、サンタクロースとは子供の──」

「断れば大声を出す」老人は、有無を言わさぬ口調で遮った。「大した願いではないよ。さあ、どうするね?」

 サンタクロースは言葉に詰まった。こんなことなら、煙突からプレゼントだけ放り込んでそれで済ませてしまえばよかった。

「私は一分間、息を止められる」老人が言った。「今から止めるから、その間に答えを出しなさい。断るならば、話し合いは決裂だ。大声を出して家の者を呼ばせていただくよ」

「ちょっと待ち……」サンタクロースは慌てて手を伸ばした。

 しかしもう遅い。老人は大げさな表情で息を止めると、じっと手元の時計を睨み始めてしまったのだ。

「こんなのは一方的すぎる。フェアじゃない」サンタは苛立ったように言った。

 だが老人は答えない。時計の秒針が時を刻む音だけが、静かな室内に響き渡った。

「んんんっ……!」老人がわざとらしく、苦しげにうめいてみせた。

「分かった!」サンタクロースは思わず、懇願するように答えた。「分かったから、もうやめてくれ!」

「ありがとう」老人は深呼吸をすると、にっこり微笑んでみせた。「それでは、まず私の話を聞いてもらうとしよう」

 老人はそう言うと、サンタが返事をするのも待たずに話をはじめた。


3,
「君は、自己啓発というものを知っているかね? そう、日々に満たされない者が『なぜ自分は満たされないのか』と疑問を抱き、それを苦しみとし、己を救うために先人たちの知恵に救いや導きを求めることだよ。私は、その道では名の知れた人間だった。若いころ、同じようにどうにも救われぬ思いがしたもので、古今東西ありとあらゆる自己啓発書籍を読みあさったものさ。それで目が開いたような気持ちになると、今度は人のためにその知識を使おうと思い立ち、私は自ら得た知識を説くだけではなく、個人個人に適した導師を紹介したり、自己啓発セミナーを開いたりする『導師(グル)ナビ』というサービスを始めた。これが当たった。大当たりだ。そして、私は人生を狂わせた。

 知っているかね? 世の中には救われたら困る人びとというものが多く暮らしている。多くの人びとは、それぞれ理由があって、救われない気持ちになりたいだけなのだ。彼らは『日々は虚しい、退屈だ、生き甲斐がない』という。それは虚しいだろうとも。セミナーを開いても彼らは同じ道を通って駅に向かい、電車を降りればおよそ同じ道を通って自宅まで帰る。新しいものなどまったく求めちゃおらんのだ。ただ、自己啓発をしていると前向きな自助努力をしているような気持ちになるから、せめてその日くらいはなにかいい気持ちがして暮らせるというだけなのだよ。

 面白いのは、そういう連中は金を払うのが大好きだということさ。たかだか一時間や二時間程度のセミナーを開いて話してやれば、正気を疑うほどの大枚を喜んで払っていく。『ああ、お金には換えられない話を聞くことができた』と、ちゃっかり金に換えて帰っていく。そして、しばらく経つとまたやって来る。結局大枚を払っても無駄だったから自分はまたやって来たのだと、そんなことも考えない。彼らは暇なのだよ。金があるから暇がある。暇があるから不安になる。だから不安を解消するために金を払う。だがしかし、かのデール・カーネギーも、「忙しくしていれば不安を感じることなどない、不安ならば、とにかく忙しくすることだ」と、『新訳 道は開ける』(田内志文訳 角川文庫)で言っている。

 私の元には、どんどん金が集まってきた。だから私は、彼らに苦しみや不安を与え続けた。『お前はそのままではいけないよ、幸せにはなれないよ、なぜなら幸せというのはこういうものだからね。だけど心配することはない』と、彼らが不幸であることを肯定してやり続けた。ご存じかね。人は不幸が大好きなのだよ。自分のことを不幸だと思うと、特別な気持ちになれるからさ。これは一種の娯楽だと言っていいね。セネカは「将来を案じるあまり、不幸の訪れよりも先に不幸になっている心こそ惨めなのだ」と言ったが、不幸が娯楽と化した現代には、この言葉も当てはまらない。不幸な気持ちになり、そこから脱しようと努力している自分を演じるという娯楽が、今の世にはあるんだ。金持ちはすでに不幸などではなくなっているのが物足りないから、不幸になるため平気で金を使う。彼らは、山あり谷ありの人生が欲しいのだ。満たされた平坦な道を歩むのが恥ずかしいのさ。そら、よく金持ちが貧しい国に寄付をして、それを公言してみせるようなことがあろうだろう? あれに似ている。彼らは自分が人よりも大金を持っているのが恥ずかしかったり後ろめたかったりものだから、『私はこういう立派なことにお金を使う人間です、だから私が金を持っているのは正しいことなのです』と言い訳をしてみせる。それと同じことさ。

 彼らは、自分が楽をして生きているのがどこか嫌になり、高い金を払ってそういうドラマを作りにくるんだ。せっかく安定を求めてそれを手に入れたのに、手に入れるやそうなのだから、これは笑い話というものだよ。それにありがたい話に人が大金を払ってみせることには、『私はこういう無形のものの価値が分かる人間です。だからそれに支払うための金を持っていてもいいのです』というアピールの意味もある。だから法外な値段だろうと気前よく払ってくれる。場合によっては、高ければ高いほどいい。

 君は聖人だから知らんかもしれないが、『ニキビがあるのは恥ずかしいことです』などと謳っているのは、ニキビ薬の会社が流すコマーシャルだけではないかね? 彼らもまた私と同じで、人がニキビに困っていなくては自分が困るのだよ。だから人に『私にはニキビがある』という苦しみを与え、薬を売りつけるのだ。なんとあくどい! ニキビを英語で『アクネ』というが、連中にこそ私は『悪ね』と言ってやりたい。

 また、中には自分があまりになにもできないものだから、苦しみから解放されさえすればなにかができるようになると信じ込む者もいる。『まだ自分は準備ができていない、勝負ができる自分にはなっていない。だからまだ、そのタイミングではないのだ』という具合にね。彼らは、自分がまだなにもしなくていいお墨付きをもらうために私に金を払い、それで出発を先延ばしにする。勝負をするのは怖いものだから、それを回避できるのであれば多少の金を払うこともいとわんのさ。だが、『本当は違う、自分は言い訳をしているだけだ』と心の奥底で分かっているものだから、そんな魔法はすぐに切れてしまう。そして魔法が切れたら、また新たな魔法をかけてもらいに金を握りしめてやってくる。

 つまりどんな相手であれ、人に『自分は本当に今のままでいいのだ』などと思わせてはいけないのさ。それは不親切というものだ。そのうえ、こっちにしてみれば金にならん。だから私は手を変え品を変え、彼らの生活に罪や困難や不幸を与え続けた。そして、新たなそれらを生み出す度に、それらに対する新たな救済を考え、それもまた与え続けた。木を見れば木に意味があり、道端で人とすれ違えばそれにもまた意味がある。お前には今苦しみがあるだろうが、その苦しみにもまた意味がありえる。そう言ってね。時には、苦しみなどにはまったく意味がないと、まったく逆のことも言ってみせた。人生が苦しいのではなく人生を見つめるお前の中に苦しみがあるのだよと。ダイエット業界と実によく似ている。本当に痩せる方法を与えてしまえば、業界は終わりだ。人は太らせたまま、次から次へとダイエット用品やダイエット食品を売りつけ続けるに限る。

 それと同じ理屈で私はあらん限りの手を尽くし、何十年も自己啓発ビジネスに手を染めてきた。だがね、ある日ふと気付いてしまったのだよ。いつの間にか私には、ものごとのありのままというものがさっぱり分からなくなってしまったのだということにね。窓を見れば窓の意味を考えてしまう。窓が自分の魂に対して果たすであろう役割を思ってしまう。いったいなんの比喩なのだろうか、その裏にはなんらかの啓示があるのではないかと勘ぐってしまう。鳥を見れば鳥に自我があるのかと問い、自我を持つ人間に比べて鳥の苦しみはいかなるものかと考えてしまう。太陽や星の周期に、日の陰りに、季節の移ろいに、ふと訪れた感情の起伏に、すべてに意味や教訓を見出そうとしてしまう。ものごとのありのままが、私にはすっかり見えなくなってしまった。世の中に苦しみというものがあるとするならば、私の今の心中のことだろうさ。苦しくて苦しくて、とてもたまらない。自分の知恵など嘘っぱちだと知りながら、自らそんな御託のとりこになってしまった。とても逃れられん。なにを見ても、なにを聞いても、なにを感じても、くだらない、うさんくさい、啓発的な御託ばかりが瞬発的に、怒濤のようにどんどん湧いてきて止まってくれんのだ。ごらん、私は今、この胸の中に痛みの種を抱えながら、この痛みが自分になにを与えるだろうかと考えている。恩寵なのか、それとも乗り越えるべき試練なのかと考えている。だが本当はひざをすりむいた子供のように、痛い痛い、助けて助けてと泣き喚いてしまいたいのさ。できることならね。そんなことすらできん私の人生など、ごみくずのようなものさ。何十年もかけて生きてきた結果がこれかと思うと、とてもとても、やりきれん。私に救われたと勘違いしている者は多いが、私は実際、誰ひとり救ってなどこなかった。

 こうして病に臥せって寝て過ごすようになって、私は今、これもまた自分に与えられた罰だろうと思っている。そらごらん、いかにも啓発的な物の考えかただろう? 私はこうなってしまったのだ。私は、人の人生に不幸や苦難を与え続けたことに対する罰を、こうして胸に植え付けられてしまったのだよ。こんな人生は失敗だ。それはもうしかたがない話だ。

 ただね、君。私はもう一度、もう一度だけ、美しい朝日が見たい。

 生まれて初めて感動した、あのまっさらな朝日と同じ朝日をだ。なんの意味もない、教訓もない、人生を導く超常的なパワーもない、ひたすら美しい、ひたすら喜ばしいだけの朝日が見たいんだ。どうか、私にそれを見せてはもらえないだろうか」


4,
 下手に喋り慣れた老人ほど面倒なものは、あまりない。延々と話し続ける老人の話を聞いているうちに、サンタクロースはだんだんと腹が立ってきた。

「ご老人、わしはくたくただ。さっさと今夜の仕事を終えて帰りたい」サンタクロースが言った。「だから、手短にさせてもらえないか」

「それはありがたい。願ったり叶ったり」老人はさも満足げにうなずいた。「ベンジャミン・フランクリンの言うとおり『時は金なり』だからね」

「お孫さんの部屋はどちらかな?」

「上の階だよ。階段を上がってすぐ右のドアだ」老人は、天井を指差して答えた。「名札がついているからすぐに分かる」

「それでは、しばらく待ってなさい」そう言い残すとサンタクロースは、決意に満ちた足取りでリビングから廊下へと続くドアに出て行った。老人は、プレゼントも持たずに忘れたのだろうかと思いながら、床に落ちたままの袋を見つめながら待った。彼はすぐに戻ってきた。小脇には、まだ年端もゆかぬパジャマ姿の少年を抱えている。

「おいおい、起こしてしまったのかね」老人は心配げに右手を伸ばした。

「黙っていなさい」サンタクロースはそれを制するとまだ半分夢の中におり訳も分からぬ少年を床に下ろし、左手で口を塞いだ。

 右手に持ったなにかが、ベッドサイドのランプが放つ仄かな灯りを反射した。老人が目を凝らす。そこに握られていたのは、一本のナイフであった。

「ちょっと待ちなさい、いったいなにを──」

「やかましい!」サンタクロースが一括した。「お前は自分の人生をごみくずだと言ったな。失敗だったと言ったな。では、お前の家に生まれたこの子はごみくずかね? 失敗作なのかね?」

「それは──」

「ごみくずの失敗作なら、今わしがこの場で喉をかっさばいても、なんの文句もあるまいな?」

「そんなに話を飛躍させないでおくれ」老人はうろたえた。

「飛躍なものか」サンタクロースが吐き捨てるように言った。「このように愛くるしい孫を持ちながら自分を不幸だなとと、お前はいったい自分を何者だと思っているのだ!」

「それは、私の意識の在りようを問うているのかね?」

「そういう話はしていない。うさんくさい考えかたを改めなさい」

「話したとおり、身に染みついていてどうにもならんのだ!」老人は悲痛な声で訴えた。「それよりもどうか、その子を離してやっておくれ」

「お断りする。お前はついさっき私に対し、この子はごみくずだと言ったに等しいのだからな」

「そんな慈悲のない……。ならば代わりに私を殺してくれ!」老人は胸の前で手を組むと、ひたむきな目でサンタクロースに訴えた。

「本気で言ってるのかね?」サンタクロースは、じっと老人の目を覗き込んだ。

「本気だとも。心の底から本気だとも」老人が食い入るように見つめ返した。

 サンタクロースは、老人の真意を探るように言葉を反芻すると、ようやく少年を捕まえていた腕を説き、「そら、おじいちゃんのところにお行き」と背中を押してやった。少年がおぼつかない足取りで歩いて行くと、老人がさも愛しそうにその頭をなでた。サンタクロースはナイフを置いて床に落ちていた袋を拾い上げると、その中から青い包み紙に包まれたプレゼントを取り出し、少年に歩み寄った。

「ホウ、ホウ、ホウ。メリークリスマス。坊やは勇敢なおじいさんを持っているね。誇りにするんだよ」

 少年が老人の顔を見上げた。老人は孫の顔を見て、なにがあっても守ってやらねばという気持ちになった。


5,
「やれやれ、なんという夜だ」

 トナカイの待つ屋根に戻ったサンタクロースは、大きくため息をついた。まだプレゼントの配達は残っている。今すぐにでも帰りたいほど気持ちは疲れていたが、それでも彼はそりに乗り込んだ。手綱を手に取り、「さあ、行くよ」とトナカイたちに声をかける。その声を合図に、そりはふわりと宙に浮き上がった。

「それ!」サンタクロースの声が響く。二頭のトナカイが夜空を駆け出した。

 しかし、そのとき右側を走るトナカイの蹄が、先ほどの老人の家に繋がる送電線を引っかけてしまった。


6,
 切れた送電線が火花を散らし、ばちばちと火花を散らしながら落ちていく。火花が家に移る。なにせ古い屋敷である。火の手が上がるまで、そう長くはかからなかった。すっかり電気の消えた家の中、老人は揺らめく炎の影を窓の外に見て取ると、ベッドを降りて壁に手を添えながら、ふらふらと窓辺に歩み寄った。

「こりゃあ大変だ!」老人は、すぐさま孫のほうを振り向いた。「こっちに来なさい!」

 そう言って自分も孫に歩み寄り、抱き上げようとする。しかし、長らくベッドに寝て過ごしていた老人にとって、それは大変なことだった。四肢の筋肉は衰え、杖なしで我が身を支えることすらもはやままならないのだ。それでも老人は歯を食いしばるようにして雄叫びを漏らすと、孫の体を抱き上げ、必死の思いでよろよろとリビングから歩み出た。

「火事だ! 火事だぞ!」階段の上に、精一杯の大声で呼びかける。

 息子夫婦は気付くだろうか。しかし、迷っている余裕などありはしなかった。玄関へと向かい、扉を開け、玄関ポーチから芝生へと続く数段ほどの階段を降りると、そこで孫を下ろす。

「いいかい、表の道まで逃げて、そこで大人しく待っていなさい。すぐに戻るからな」張り詰めた顔で老人は言うと、また家の中を振り返った。炎はだいぶ燃え広がっている。老人はしかし、ためらわずに足を踏み込んだ。階段の下から見上げれば、二階の窓の外に大きな炎が見える。

「火事だ! 起きろ!」もう一度そう怒鳴ると、老人は衰えたももを必死に上げて、一段一段階段をのぼっていった。一歩ごとにうめき声が漏れる。「決して屈するな。決して、決して、決して!」思わず、ウィンストン・チャーチルの言葉を胸に繰り返す。

 ぱちぱちと、屋敷の燃える音が聞こえる。先ほどよりも広がっている。廊下の先に炎の舌が這い込んできたのが見える。間もなく屋敷はすっかり焼け落ちてしまうだろう。やっとのことで二階に辿り着いた老人は、息子夫婦が眠る寝室のドアを叩いた。

「起きなさい! 火事だ! 逃げろ!」

 息子たちはただならぬ父の声を聞いて飛び起きてくると、炎立つ廊下と、息も絶え絶えの老人の姿を見つけた。そしてすぐにことの重大さを察すると妻を引きずり起こして先に逃がし、自分は父親から事情を聞き、彼を背負い上げて階段を駆け下りていった。


7,
 サンタクロースはそりの上から、もう一度あの老人の家があった方角を見下ろした。そして初めて家が燃え上がっているのに気付くと、「あれ、わしがやったの?」と思わず声に出して言った。右側のトナカイは、冷や汗をかくような気持ちでなにも言わずに駆け続けた。

 道端では、炎に包まれた我が家を一家が見上げていた。息子夫婦はとつぜん湧き起こったこの災厄に打ちひしがれ、地面にへたり込んで骨の髄まで絶望していた。だが、あの老人だけは違った。自分が家族を守ったのだという充足感は強烈であった。胸にあふれる生の実感は圧倒的であった。老人は、「これまで思い悩んだことのうち、九十八パーセントは取り越し苦労だった」という、マーク・トウェインの言葉を思い出した。「魂の中にある英雄を放棄してはならぬ」というニーチェの言葉を思い出した。古今東西、ありとあらゆる偉人たちが残した名言金言の類が、彼の胸の中を嵐のように飛び交った。そして、すべての言葉が、そしてその言葉に支えられて自分が積んできたすべての経験が形となって組み合わさり、つい今しがた自分の脚を支える杖となってあの階段を上らせたのだとはっきり分かった。

「お前たち、顔をお上げ」頼もしい父親の声で、老人が息子夫婦に言った。「リチャード・バックいわく、すべての困難は私たちへの贈り物を両手に抱えている。ヘレン・ケラーも、もしこの世に喜びばかりなら、人が勇気と忍耐を学ぶことはないと言っている。私は今日、ニーチェの言葉の意味を初めて深く知った。大きな苦痛こそ、精神の最後の解放者なのだ。この苦痛のみが、我々を最後の深みに至らせるのだ。なに、家などまた建てればいい。金はうなるほどある。だが、この火事に深く学び、決して希望を捨ててはいけないよ。希望が新しい勇気をもたらし強い気持ちにしてくれるのだと、かのアンネ・フランクも言っているじゃないか。そら、エラー・ウィーラー・ウィルコックスの言葉を思い出してごらん。これ以上ないほど非情な炎も、自分の強さを照らし出してくれる灯火になるのだよ」そしてウィリアム・シェイクスピアの肖像画を胸に描きながら猛り狂う炎を見上げ、高らかに宣言した。

「不運万歳! 運の女神に見放されこの世の最低の境遇に落ちたらば、後に残るはもう希望だけなり! 不安の種もなにもない!」

 その言葉に押されるように、息子夫婦が立ち上がった。

 そこへ、東の空から朝日が射してきた。老人は頬に触れるその柔らかな温もりに気付くと、日の昇る方角を振り向いた。そこに見えたのは、生まれて初めて美しいと感じたあのときのままの、ひたすら美しい、ひたすら喜ばしい朝日であった。老人は目をみひらくと、その美しさにため息を漏らした。

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