【奈良観光】飛鳥寺と蘇我入鹿の首塚
飛鳥寺と飛鳥大仏
538(ごさんぱい)年、百済の聖明王が日本の欽明天皇に仏像を送ったのが仏教公伝。
この時に仏像をどうするか――仏教を日本国として崇拝するか否かを天皇が蘇我馬子と物部守屋に相談しました。
俗にいう崇仏論争です。
困った天皇は、蘇我馬子に仏像を与えて祭らせることにしました。
これには物部守屋も反対はしません。
内乱が落ち着き、天皇(時代的には大王?)(=天照大御神)を頂点とする神と人の序列を定めたばかりの時に、「一番エライはずの天皇が何かを崇拝する」という行為に反対した物部氏も、蘇我氏という一大臣(一応、一般人)が仏教を崇拝することについては含むところはあったかもしれませんが反対はしませんでした。
私が中高の頃ですと、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の対立と習いましたが、物部氏だってお寺を建ててますし、蘇我氏とて神社を蔑ろにはしていません。
これは「崇仏論争はなかった」という意味ではなく、蘇我と物部の争いを外来宗教である仏教信仰の是非という紋切り刀で切るのってどうなんだろう、というくらいの意味です。
なにはともあれ、日本初の本格的な仏教寺院が蘇我氏主導の下、作られることになりました。
592年、飛鳥寺です。
本尊は『日本書紀』によれば有名な鳥仏師の作。
丈六の金銅釈迦像です。
現在の飛鳥大仏は大半が後世の補修によるもので、わずかに顔の一部、右手の指の一部などが当時のままであると考えられていました。
しかし、最新の調査の結果では当初の想定よりも当時のままの部分が多いのではないか、とも言われています。(Wikipedia)
後世の補修が大部分を占めることから国宝ではなく重要文化財、写真撮り放題(お寺の人が写真自由ですとアナウンスと解説をしてくれました)の飛鳥大仏ですが、数年後は国宝になっているかもしれませんね。
続報に期待です。
(余談ですが、大仏様へのお供えが全て減塩だったこと、皆さまお気づきでしょうか。とある緑のインスタントの減塩味噌汁が一番わかりやるいかもしれません)
この飛鳥大仏、昔は釈迦三尊像であったと言われています。
それを裏付けるように、大仏の左右には穴があいていました。
この穴が、菩薩の建っていた跡だと言われています。
仏舎利を納める五重塔が焼けてしまったため、なんと現在、私たちは生の仏舎利を拝見することができます。
いつか塔が再建されてほしい反面、仏舎利を直接見られる機会がなくなるのはもったいない……。
複雑です。
そしてなんとこのお寺、蘇我氏の氏寺にして、中大兄皇子達が飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を誅した後、馬子を包囲した中大兄皇子軍の駐屯地=蘇我氏宗家滅亡を見届けた寺であり、大化改新の折、中臣鎌足と中大兄皇子の出会いの場となった、あの蹴鞠の開催地だったとされています。
さらにさらに、蘇我氏宗家滅亡から約27年後、壬申の乱の折には飛鳥寺の西に大海人皇子率いる近江朝廷の兵営があったといわれ、日本古代史における動乱の舞台がギュッギュと詰ったお寺となっています。
蘇我入鹿の首塚
この飛鳥寺境内から訳80メール、看板からは70メールのところに、蘇我入鹿の首塚と云われのある石塔が建っています。
大化の改新で首を切られた蘇我入鹿は、首だけで数度跳ね(本によっては40回も!)この飛鳥寺付近まで飛んできた時、力尽きて落下したと言います。
この地は飛鳥板蓋宮から約600メール、氏寺である飛鳥寺と邸宅のある甘樫丘の途中にあります。
御仏に救いを求めたのか、家へ帰りたかったのか。
入鹿の首はいったいどこへ向かいたかったのでしょうか。
普通の観光客であれば首塚に古を感じたり、恩田陸さんのように何やら怨霊めいた印象を抱くのかと思いますが、残念ながらここにいたのは私です。
“入鹿の首っていつ飛んだ(I can fly)んだろう”
はい。
情緒もへったくれもありません。
スイッチがはいった私は「首が空を飛んだ(自力)日」を求めて国会図書館へ行く決心をしながら静かにスマホのシャッターを切ったのでした。
入鹿の首が空を飛んだ日
日本の記録にある最古の首取はいつから存在すると思いますか。
首を斬る習慣自体は、古代中国からの影響に端を発しているようです。漢の武帝の時には首を斬った数のみならず、首の価値も考慮にいれた功労賞が行われていたらしい形跡があります。
翻って本朝を見ると、蘇我馬子と聖徳太子が物部守屋を滅ぼした際に、守屋池にて守屋の首を洗ったと古い記録にあるそうです。(『日本の首塚』)
首を取る習慣自体はかなり古くからあったようですね。
日本における一番古い首塚伝説は蘇我入鹿のものと言われていますが、これが「首が飛んだ中で一番昔に生きていた人物が蘇我入鹿」なのか、「伝説として一番古いものが蘇我入鹿」なのかはちょっと分かりませんでした。
ちなみに日本最古のさらし首は平将門です。
『日本書紀』における大化の改新では、蘇我入鹿は切り殺されてはいても、首を切られた描写はありません。(『首塚・胴塚・千人塚』)。死んだ入鹿の亡骸は蘇我蝦夷のいる甘樫丘の邸宅へと運ばれたようです。
では、首を斬る話はどこからでたのでしょうか。
『聖徳太子伝暦備講』(1678年)(『聖徳太子伝暦』は9世紀~11世紀成立・諸説あり)によると、中大兄皇子によって刎ねられた入鹿の首は高御座の戸に何度も躍り上がったと伝えられています。
他にも、討たれた首が空を飛んで鎌足の後を追いかけてきたので、鎌足は明日香村上のもんこんの森まで逃げ、さすがに逃げおおせたと思い「もう来んか」と言ったところ、首が追ってきたのでさらに逃げた。故にそこを「茂古の森」というフラグ回収が速すぎる話の中で、入鹿の首は高見峠に落ち、そこに首塚が作られたと言われています。
ちなみに茂古の森は現在、気都和既神社の境内となっているようです。
さらにさらに、刎ねられた入鹿の首が殿中の御簾に嚙みついた、石の柱に噛みついたという話が『多武峯縁起』(1239年)に見られ、そのものずばり、飛来した入鹿の首が落下した場所に建てられたという入鹿神社なども存在します。
このように蘇我入鹿の首塚伝説は奈良に数か所あり、そのうちのひとつがこの飛鳥寺付近に落ちたというもの。
今はぽつんと首塚があるだけですが、復元画像を見る限りだともっと飛鳥寺に近い場所に作られていたようですね。
しかし、「首が飛ぶ」という伝承の元になった書物をみると、平安時代の後半~鎌倉以降のものが多い印象を受けます。
ちなみに五輪塔が作られ始めるのがだいたい平安末期頃と言われています。
早良親王に始まる御霊思想のピークが院政期頃と考えると、こうした怨霊・御霊を巡る中で作られた伝説のひとつとして飛ぶ首が位置付けられているのかもしれないとも思えました。
残念ながら、首が飛ぶ話の始まりは見つかりませんでしたが、首を巡る文化にも様々あると分かったので、有意義なひと時となりました。
ただし、正気に戻った瞬間に「自分、なにやってるんだろう……」とは思いましたが。
以前旅行に行ったとき、出雲は神話の地という印象を受けましたが、奈良はやはり歴史の地という観が強いですね。
奈良にも神話・伝説が多くあり、神社仏閣を始め、初代天皇神武ゆかりの土地もありますが、やはり政治とそれを巡る物語が奈良の文化に多くを占めている印象を受けました。
蘇我蝦夷と入鹿の名前
門脇禎二の『蘇我蝦夷・入鹿』(人物叢書)で語られている蘇我蝦夷と蘇我入鹿の「蝦夷」と「入鹿」という名前について軽くまとめたいと思います。
皆さんも中学校や高校の授業で不思議に思ったことはないでしょうか。
「蝦夷って、偉い人に付ける名前じゃなくない?」と。
北海道を蝦夷(エゾ)と呼び、東北の民を蝦夷(エミシ)と言ったように、蝦夷は別称として長らく日本の歴史において使われてきた言葉です。
蔑称である「蝦夷」を貴人の名に使うというのはおかしなものですね。
ちなみに蘇我蝦夷は他にも「蘇我大臣」「豊浦大臣」「毛人(えみし)」「蘇我豊浦毛人大臣」などと称されています。
考えなくてはいけないことは、蘇我蝦夷が出てくる『日本書紀』も『藤原家伝』も天智天皇・中臣鎌足(藤原鎌足)・天智天皇を含む、大化の改新・壬申の乱の勝利者が描いた物語だということです。
蘇我親子の行為が殊更に悪逆非道にされていることも含め、私たちが今習っている名前は後世付けられた名前である可能性もあるのです。
では、息子の入鹿はどうでしょうか
入鹿の名称は、「大臣児入鹿 更名鞍作」「林大臣」「蘇我林臣鞍作 林臣、入鹿也」「蘇我大郎」などがあります。
門脇貞二さんは、いくつかの説を紹介したあとで「ほんらい蘇我林臣鞍作がフルネームではなかったか」とされています。
私たちの知る蘇我入鹿は、いったいどこから出てきたのでしょう。
「何故なら、ここで、『古事記』の一つの記事が想起されるからである。すなわちその話は、息長帯日売命(神功皇后)が筑紫から倭へ還ってきたとき、香坂王・忍熊王の反乱にあった。(中略)この反乱という穢れをうけた子(応神天応)の穢れ禊い(本文は「ネ契」)のため(中略)「入鹿」魚は、神への幣となっているのである。」
それを踏まえて門脇氏は「「入鹿」の名をつけられたのは、この改名の儀にちなんでいたのではなかろうか」と言われています。
つまり、「罪を償え。お前を贄にお祓いするぜ!」とのことですね。
発想がすごい。
ある種の刑罰として名前を変えさせることは奈良時代でも良く行われていました。
橘奈良麻呂の変では「ウスノロ」という意味の名に改名された人もいましたし、有名な宇佐八幡宮神託事件では和気清麻呂が別部穢麻呂になっています。
日本には言霊があります。
私たちも学校で、受験で、彼らを蝦夷・入鹿と呼ぶことで、この言霊信仰に参加しているのかもしれませんね。
人の嫌がることを的確に捉えて突くことに関しては、信頼と実績の古代貴族です。
(みやこは実は物部推しなので蘇我は詳しくないのですが、真面目に調べたらかなり面白そうな案件だなと思いました)
【参考文献一覧】
『蘇我蝦夷・入鹿』 昭和52年12月10日 門脇貞二 吉川弘文館
『直木孝次郎古代を語る 飛鳥寺と法隆寺』2009年6月10日 直木孝次郎 吉川弘文館
『怨霊とは何か』 2014年8月25日 山田雄司 中公新書
「神田明神と将門伝説・首塚伝説のはじめ」 光田憲雄 『風俗史学 64号』2017年3月
『首塚・胴塚・千人塚』 2015年11月 室井康成 洋泉社
『日本の首塚』 遠藤秀男 昭和48年8月5日 雄山閣