『反撃の神話』を読んで、日本経済を考えた話。
ジョセフ・ヒース氏とアンドルー・ポター氏の共著、『反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』を読みました。
あらまし
西側欧米諸国の人々にとって、ナチスによるホロコーストは物凄い衝撃だった。ドイツの普通の人が、体制に従順になっただけで、罪のないユダヤの人々を殺しまくった。こんな過ちは、二度と犯してはならない。
だから、従順=ファシズムへの道と考え、嫌悪するようになった。
個人主義が尊ばれ、常識や体制、大企業が誘導する消費主義に逆らう行為を、クールととらえるようになっていった。それがカウンターカルチャーだ。
しかしカウンターカルチャーは、これまでの枠組みを全否定したので、個人の自由を尊重するために社会秩序の崩壊を招いた。それは本当に幸せな世界なのか。
実は、カウンターカルチャーが狙った行動は、単に流行消費財をつくっただけで、消費主義の後押しをしているだけになっている。
ならば、自由を規制してルールを増やすべきではないのか?
というのが、この本のだいたいの論旨だと思われます。
カウンターカルチャーの破壊活動?
本書では、過去50年間(注:1950年代以降だと思われる)に極度に破壊活動的と考えられていた物事として、以下の行為を挙げています。
正直、これを読んで、麻薬以外は全然問題ない、普通のことじゃん? って思ったんですがね。これのどこが破壊活動?
つまり、21世紀には「個性」や「人権」としてとらえられることも(麻薬以外)、20世紀半ばには「ありえないこと」だった。
同性愛や避妊や異人種間の恋愛が「破壊行為」とは、そんな秩序は退場いただいた方が、多くの人の幸福につながりますわな。
著者の二人は、カナダとアメリカ出身の白人男性で、今現在はともに50代。
そういう目線なんだなあ……というのは、ちょっと感じましたね。
クールってなに?
それまでの常識を打ち破るようなファッションや行為が、時にクールであるとしてもてはやされた。皆が自分もクールになろうと、同じファッションを求めて消費行動に走った。
でも、そうやって大勢が同じものを持つようになると、もうクールじゃなくて、また人は次のクールを探すようになる。
希少価値の高いものや、本物と認識されるようなものに価値があるし、そういうものを持っている人がクールな人だということですね。
北米の人たちも、別に皆が皆自信満々というわけではなくて、自己肯定感の低い自信のない人が多いからこそ、クールとされていることをまねる。
でもみんながまねてると、その行為がダサくなっていく。結局、自己肯定感は得られない無限ループに陥り、次々と新たなクールさに飛びつくようになる。
これ、日本人は、海外でウケた日本人のお笑い芸やサブカルチャーをありがたがる風潮がありますが、そうやってありがたがる様子を海外の人が見たら、ダサい、ってことですよね。政治家が乗っかるとかも、論外。(業界全体に芸術振興費を予算取って出すのは、また別として)
クールさって権威主義の対極にあるはずなのに、日本人はどうも海外での評価に権威を持たせたがるふしがあるし、クールジャパンってなんかなあ、違うよなあ……。
日本の経済戦略について考えた
この本の9章までを読んで、やっぱり考えちゃうわけです。日本の経済戦略を。
クールジャパンとか観光産業とかに乗っかかっていこうという政府の方針は、地味にずれてるんじゃないかと。
観光産業にしても、団体ツアー客を当て込んで大型ホテルに誘い込もうとしても、そんな旅行プランは、欧米の顧客からはクールと見られないんじゃないかと。
もっと草の根的な、日本人の伝統文化や風習のホンモノを体験するというのが、クールとなるのだから、日本にしかないものというのを、もっと学んで保護していくべきで、はっきりいって海外にもあるもの(カジノとか)に投資しても、ちょっと無理じゃない? ダサくて。
例えば能登半島。今回の地震で大変な状況になってしまったけれど、過疎を理由に復興を躊躇するのは危うくて、歴史的にも文化的にも重要な地点である能登半島を、埋もれさせるのはもったいなさすぎる。
あの大幅に隆起してしまった海岸線。あれを調査研究したいと手を上げる海外の研究者、いるでしょ? 地球のすごさを見たいという旅行者、いるでしょ?
輪島塗には、私はちょっと手が出ないので詳しくないんですが、TVを通して見ただけでも美しいし、日本まで来ようというような旅行者が、あの美しさを理解できないわけないでしょ。
万博やカジノより能登半島の復興に資金人材を投入する方が、長い目で見ると日本経済に貢献できると思うんですけどね。
アニメなどのサブカルにしても、製作費がないから売れるモノ、ファンにウケそうなモノをつくる傾向にあり、それはクールさとは違うものだと思う。
カウンターカルチャー的な作品も、新たな価値をつくるとしつつ消費財に陥る危険性はあるけど、そもそもウケ狙いの作品は、消費材として成功することしか考えられていないじゃん。もちろん、売れなきゃスタッフは食べていけないから、消費財としての成功を求めるなとは言わないけど、広くカルチャーとしての向き合い方を見失ったら、業界自体がジリ貧になっていく危惧はある。
サブカルをクールジャパン扱いするのも、もはや全然クールじゃないんだけど、サブカルを制作する側と支持する側とがこれまでの慣習にこだわったり、人権意識が希薄だったりすると、それだけでクールとは言えない潮流に気づくべきだとは思う。
環境問題における強者の理論
この本の最後の10章だけ、いきなり環境問題について論じられていて、その方向転換さに戸惑うんですが。
いや、まあね、すべての事柄は環境問題につながりますよ? 我々の経済活動そのものが、地球を破壊していってるんですから。
しかし、著者たちの論旨は、なんか北米白人の強者の理論だなあと思えてなりませんでした。
例えば地産地消に対する批判。
それやられると、カナダの人達は野菜の輸入できなくなる問題。(カナダは極北すぎて、一年中の野菜の生産に適さない)
カリフォルニアで野菜をつくろうとしたら、水が大量に必要になる問題。
だから、国内を数百キロ、トラック輸送するより、船で運んだ方が省エネになるという理論。
また、北米に輸出することによって、アジアやアフリカの人たちは金を稼げて助かるじゃないか、我々は善行をしているんだ、的な理論。
すごくもやもやした。
生産作物を輸出作物に限定することで、確かに効率的になるかもしれないけれど、旱魃で作物全滅になるリスクも負う。多様な作物を栽培しておけば、全滅のリスクは回避できる場合がある。(しかし輸出品は減る)
食物を輸入に頼っている我々も他人事じゃないんだけど、生産者に依存してるくせに、旱魃になったときのフォローなんて考えないよね、全然。
この本では、二酸化炭素の排出権売買も肯定してて、要するにエネルギーを使う奴が高い金を払えばいい。そのコストをカットしたければ、企業が努力して省エネ技術を開発するだろう。さすれば結果的に問題は解法に向かう。というもの。
でも、それは甘い見通しのような気がしませんかね?
少なくとも本邦では、下請けや従業員の賃金削減でコストカットしてきたし。技術開発にかける費用もケチるし。
でまあ、私がもやもやしたように、他の欧米の読者ももやもやしたようで(有機栽培農業も批判してたから)、ブログに大量のツッコミが来たらしく、後記は盛大な言い訳と化しています。
カウンターカルチャー思考をゼロ百思考扱いしながら、当の著者らの理論もかなりゼロ百なんですね。
わかりやすく的確で成果がすぐ見えるような解決方法はない。と言い切るのも、なんか逃げ口上のような気がして。
消費を抑え、収入は下がるけど、労働時間も短くして……と言いつつ、それを本人らも実行する気がなさそうなのが、余計にもやもやするというか。
日本人とは違う視点を読むことの重要性
以上、この本を読んでいろいろ考えたことなどを書いてきましたが。
やっぱり北米白人男性の視点は、日本人とは全然違うな、ということが一番の収穫だったかもしれません。
この本の内容をそのまま日本人に当てはめようとすると、権威主義体制に真っ逆さまに落ちます。
北米の人たちは、基本的に民主主義の立場でものごとを考えている。でも日本人は、民主主義を標榜しつつ、うちの中に家父長制と権威主義を抱いているから、規則を増やそうとし始めたらすぐにがんじがらめの状態をつくる。
制服の話が良い例で、著者らは制服の利点を掲げ、制服は尊重すべきだとする。ただしその制服の範疇に、髪型や鞄や靴は入っていない。(髪型、鞄、靴は自由)
しかし日本の学校は、制服の規定とともに、髪型、鞄、靴(と靴下!)にも細かい規定があって、個人の自由は著しく制限されている。
最近、やっと女子のスラックスも認められてきてますけど、冬にスカートは寒いし、タイツも制限があったり(式典の日はダメとか)、いや、防寒は権利だろ。強制収容所か?
別に北米白人の考え方を100%指示するわけじゃないし、強者の理論にはもやもやしたけど、そういう部分も含めて、我々の常識とは違う世界観で生きてる人がいて、その人たちは違う考え方をしているんだ、ということを知ることは、今の時代には絶対必要だよな、と気づけたので、価値ある読書体験となりました。
400頁もある本だし、気軽に「おすすめですよ」とは言えないけど、カウンターカルチャーやクールジャパンについて考えている方は、読んでみてもいいかもしれません。
ありがとうございました。
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