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『エルサレムのアイヒマン』から『ユダヤ人の歴史』を読む

寒くなってきたのに、夏の話をします。

今年の8月は、ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』を読んで終わりました。
って、もう10月も終わりなんですけどね。

なぜ記事として書くまでこんなに時間がかかってしまったのか。発端は、この本を読むのに苦労したからです。
とにかく読み進めるのが大変。なかなか読点の来ない長文に閉口していたら、こちらが思いもしない単語を投入してくれる上、それまで何とか意味を追っていたのを疑問符でひっくり返してくれる。そんな文章に振り回されっぱなしでした。ちゃんと読めたか、理解できてるか、全然自信がないままに図書館の返却期限が来て、未練たらたらで本を返してしまう始末。
文意もさることながら、ユダヤ人についての知識がゼロの自分、というのを自覚せざるを得ず……読書記事? とんでもない。「難しかったよ~。いろいろ知れて勉強になったよ~」ああ、私は莫迦か。

という『エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』は、ナチスにおいてユダヤ人収容所(ガス室)移送の担当者だったアイヒマンの、エルサレムでの裁判記録です。著者はハンナ・アーレント。
ハンナ・アーレントの名前だけは私も知っていたんですが、不勉強にて未読。これが初アーレントでした。
この本も名前だけはなんとなく知っていて……というか、アイヒマンが予想に反して小物だった、ということだけは聞きかじっていた、その程度で。
だから今回これを読むまで、ユダヤ人=被害者、ナチス=加害者、というきっちり線引きされた図式が確立しているような気になっていました。ああ、なんて莫迦。

そんな教養もくそもない私ですが、読んでいると、どうもそんな単純な図式ですすむ世の中じゃないぞ、という人間の本質をぶちまけたような現実を見ざるを得なくて。ナチスの「ユダヤ人をこの町から一掃するぞ」的な思考は論外として、ユダヤ人もドイツ人もそのほかの国の人も、人間としての弱さとか、情けない部分とかは、今を生きる我々ともそんなに変わらないかもしれない……?
結局、低きに流れたり、保身に走ったり、他者依存だったり、生存本能とか正常性バイアスとか言われるものが非常時に働くと、人間の剥き出しの弱さ醜くさがあらわれて、時に悪にもなる。
だから心しなければ。
文字の隙間から絶えず警鐘が鳴っている。そんな気がずっとしていました。

勉強の苦手な青年アイヒマンが、一発逆転を狙ってナチスに近づき、出世しようと頑張る。それだけのことなのに、なぜ人は虐殺が平気になっていくのか。
自分の保身のために、他者を平気で死地に送る。その限界心理と、それはダメだと踏みとどまって戦う人たちの違いは何なのか。
なぜユダヤ人は、自分で歩いて処刑場へ向かったのか。
なぜユダヤ人はこんなに嫌われていたのか。
ユダヤ人って何なのか。
読むことで謎が増え、わかったつもりになったことも、指の間からすり抜ける。読書とはそういうものなんですけどね。


なので次にポール・ジョンソン著『ユダヤ人の歴史㊤』を図書館で借りて読みました。それが9月。こちらも読了までに1カ月……。500ページ越えの本だったので。

しかし、ユダヤ人の歴史は壮大ですね。4000年以上前から確認されているとは。出エジプト、バビロン捕囚は有名ですけど、本当に世界史の教科書みたいな地軸・時間軸なんですもんね。文字を持っていた民族は強いわ。日本が弥生時代の頃に、ユダヤ人は歴史書をつくっている。学問をやっている。神とは何かと思考してる。やばいな。

ローマ帝国にイスラエルの地を奪われて以降、2000年、国家を持たない民族として生き延びてきたユダヤ人の強さは、無神論者の私が口をはさめるものではありません。迫害されてもあの手この手で生き延びる、その逞しさが現地の人々の反感を買い、新たな迫害の火種となる。なんなんでしょう、このいたちごっこのような堂々巡りは。

ユダヤ人でもキリスト教徒でもムスリムでもない、契約宗教の外側にいる人間から見ると、やっぱり一神教って大変だなと思ってしまいます。
ユダヤ教とキリスト教は共に聖書を読むし、ナザレのイエスはユダヤ人なので、正直ここまで敵対していたとは思っていませんでした。はい。発端はイエスの存在ですか?
イエスは改革者だった。その改革は、ユダヤの教え的には認められないものだった。だから破門・処刑となった。それは禍根になるわな。
2000年近く前の出来事が、ず~っと尾を引いてるとは、ちょっと考えたくなかったんですけど、でも「それはおかしいよ」という声が主流にならない限り、迫害ってなんとなく続いて行ったりするんですよね。だって迫害する側は考えるのを辞めていじめてりゃいいんだから、ラクじゃん。
しかしイエス処刑の罪なんて、その後の約2000年間、生きて苦難の人生を歩んで死んでいった大半のユダヤ人には、責任はないわけで。なんだかな。


それで次にすぐ『ユダヤ人の歴史㊦』を読む意気地がなかったので、手ごろな解説本に走りました。市川裕氏の『ユダヤ人とユダヤ教』です。

読んで思ったのは、『エルサレムのアイヒマン』の後、すぐにこっちを読めばよかったじゃん……です。歴史、宗教、社会などの要点を、わかりやすく解説して下さってます。ただ、『ユダヤ人の歴史㊤』を先に読んでいたからわかりやすく感じたのか、そこは何とも言えませんが。

上記のユダヤ人本2冊を読んで。
ユダヤ人の生活そのものがユダヤ教によってつくられていて、だからキリスト教的価値観とのギャップも生まれるし、軋轢も生じる。
迫害する側は、理由さえあれば、統治者に対する不満の矛先としてユダヤ人を利用するし、都合が良ければ厚遇活用して己のために資金を出させる。ずるい統治の仕方。
でもそれらは、別にユダヤ人の周辺のことだけではなく、現在の社会でどこでも起こりうることの一つにすぎないと思います。
我が日本国だって、西欧キリスト教圏とは違う思考の歴史を歩んできているし、だから「御上」意識の強い人はいるし、異分子を排除したくなる誘惑に駆られる時がある。自分が信じてきた常識に自分で疑問符をつけることは、なかなかに苦しい。
だからこそ外の世界に目を向ける必要があるんですね。


この3カ月で、自分にとっての空白部分にそれなりの城壁(都市国家)ができなような、そんな読書体験となりました。
でもまだまだ外側。その内側を、どんどん構築していかないと面白くありません。
たとえば「そもそも一神教ってどうして生まれたのか?」
その足掛かり的な入門書として手を出したのが、本村凌二氏の『教養としての世界史の読み方』。

え~、著者の本村氏と感覚の根本は合わない気がしますが(石原慎太郎氏をかっこいいとは私はどう転んでも思えないので)、一般人向けの世界史の楽しみ方が書かれた本ですね。

その中で、5000年前~3000年前の人類は神の声を聞いていたのでは? というくだりがありまして。
別に怪しい新興宗教の話ではなく、文字を持つ前の人類は意識が希薄だったのではないか? 故に、右脳で内なる声(神の声)を認識していたのではないか? ということです。
『ユダヤ人の歴史』を読んでいても、なんか神の声を聞ける預言者って多すぎない? と思っていたんですよね。思い込み激しい人に、みんな惑わされていただけじゃないの? と。
でも、脳のつくり云々と言われたら、なるほど面白い仮説に思えるし、文字の獲得って劇的なことなので、認識できる世界も違うのかもしれない。


以上が、ここ3カ月の本の旅です。現在は『ユダヤ人の歴史㊦』と格闘中。
ただ、古代人の心理って面白そう……と思い始めているし、このまま『ユダヤ人の歴史㊦』を読んでいるとやってくるホロコーストにメンタルが耐えられるか微妙です。直視すべしと思う反面、虐殺記述は被害者側に同調してしまうので辛い……。

歴史って人類の歩みそのものなので、追いかけ始めるときりがないんですが、しかしその歴史の中に、今日の問題を解決する糸口もいろいろ埋まっているので、掘り返す楽しみは格別です。
知らないことを知るって、楽しいですよね。
私は読書が唯一の楽しみなので、生きている限り楽しみたいと思います。

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