250117
リンチが亡くなった
朝起きて、知って、最初は悲しいでも寂しいでもない不思議な気持ちで、今日はとても天気が良く、親父の葬式もとんでもなく晴れていたなと思ったりしてぼんやりと過ごし、会社に行ったが今日は映画の話ができる唯一の同僚もリモートワークでおらず、Twitterの溜まった下書きを無造作に投稿するなどの異常行動で気持ちを誤魔化し、やっと夕方くらいからとても悲しく、寂しい感じにとっぷりとくるまれ、最初に観たのは限りなく胡散臭い大学教授が午前の授業で垂れ流していたイレイザーヘッドだったか、とか、いや友達の家で白のMacBookで観たブルーベルベットのDVDだったか、とか、まあみんなも今頃同じように思い出したり語ったり、再見したりをしているよなと思いながら呆け倒し、そして、そして『ミニミニポッケの大きな庭で』を、一度でいいから観て欲しかったなと、素朴に思った
昔は訃報に際して一斉に語りが始まる事が少し苦手で、と言うかあまりその現象がピンとこず、そうは言ってもここ数年、チバユウスケ然り、鳥山明然り、世代のヒーロー達が相次いで旅立つ中で、他人の語りを今までとは違った距離感で読み込んだり、また自分も何かをぽそぽそ小さく語ってみたりをする中で、こうしてみんなの気持ちがたくさん並べられた状態を眺めて、落ち着きをもらう時間と言うか、コトを受け止める時間と言うのは、きっと大切なのだなと、ちょっとわかるようになった
私は親父が死んだ時、喪主の忙しさにかまけて(※喪主は本当に大変)、しっかり死と向き合ったり、悲しんだりを実はかなりサボってしまい、言葉を選ばず言えば「ちょけて」明るく元気にハイ気味で過ごした結果、コトを数年引きずった経験がある
当時、私のその妙にカラッとしてハイな様子を見て、葬儀場でほんのひと時いっしょに過ごした納棺師は、親父に死化粧をしながら「(※関西弁)悲しむべき時にしーっかり悲しんでおきませんと、なかなかねえ、悲しみを引きずったりする事って、人間、ようあるんですわ」とこちらに一瞥もなくぽそりと言って、その時は私は「ああ全てを見透かされているな」と深く思った
出来事と向き合い、語ってそれを共有したり、体に馴染ませたりする作業、侮ってはいけないなと思う
ところで!
バンド・左右のメンバー、花池さんに先日新橋の飲み屋で、「honninmanのリボルバージャンキーズのパフォーマンスは、数ある弔意の中で一番の弔意だった」と言われ、「な、なんて素敵なコメントなんだ・・・」と他人事のように感服してしまった(※自慢)
もらったもののたくさんある人が亡くなったら、もらったものを使ってこちらもたくさん何かを作っていくのも全然弔意になるなと思った
ではリンチにあんたは何をもらったか・・・
そんなの全くわからないが、とりあえずTwitterに投稿しているhonninmanの音声ツイート日報は、ツインピークスのクーパー仕草のパクりであるとか、ないだとか・・・