鬱の核心に迫る時(1)〜恐怖の正体〜
今年の夏、私は夏に家の中で見かける虫(以下G)の恐怖症を発症しました。
もともと特段虫が苦手なわけではなく、家で見かけても嫌々ながらも自分で処理できるタイプでした。
毎年と同じ対策をしていたにもかかわらず、今年は例年の10倍くらい(!)のペースで遭遇してしまい、おそらくそれは近隣の一軒家がコロナで避難しもぬけの殻になったこと+我が家の窓パーツのゴム老朽化が原因かと思っています。
そして、私は恐怖症というものを完全に甘く見ていたことがわかりました。
高所恐怖症とか閉所恐怖症とか見聞きしたことはあったけれども、実際には想像していたそれの1000倍くらい辛いものでした。
とにかく、見かけることが増えるにつれ段々と壊れていく自分が怖かった。
そして8月のある日、急に精神が崩壊しました。
見かけた途端、「死にたい!!!」に思考が直結して泣き崩れてしまったのです。
長年自分の鬱と付き合ってきましたがこれは初めての経験で、とにかく経験上かなりまずい!と感じ、家族に頼んでかかりつけの心療内科に連れていってもらいました。崩壊に至るまでの過程が急だったことから、一緒に住んでいる夫も訳がわからず困惑する一方でした。
そこでお医者さんに言われたこと。
それは「トラウマがある人には恐怖症が出ることも考えうる」とのこと。
あぁ、かなり癒すことができてきたと思っていたのに、まだこんなにも私を苦しめるのか・・・そんな気持ちと同時に、恐怖症になった原因がわかったことによる安堵感もありました。(その日からとりあえず実家に避難しました)
そして、カウンセラーさんとここから暴露療法というものに取り組むようになるわけですが、Gの恐怖症とトラウマの共通点として「自分の安心安全のゾーンが侵害されること」が一例として挙げられると言われました。
ここで改めて、自分のトラウマについて思いを馳せたわけですが、幼き頃から父は私を自分のペットのように扱い、かわいがりもするけれどもいろんなことに対する選択肢を与えてはくれなかった経緯があることから、自分の安心安全ゾーンを構築する事や学ぶことができなかったのだろうな、と考え始めました。自分の中にいつもあった恐怖心に名前がつき始めたような気持ちでした。
今でこそましになったものの、昔から人との距離感をうまく取ることに難しさを感じていたこと、人のお世話をかきすぎてしまうこと、とにかく境界線があやふやなことは自分でも感じていました。
逆に考えると、Gという存在は単なる媒介で、やっと独立して作った自分の安心な場が損なわれるという状況下であれば同じことが起きたんだろうと想像します。
トラウマがあるからこそ、自分が自分らしくいられてほっとする居場所や人を死守しないといけないんだ。そんなことに気がつき始め、それを取り戻すべく、キツイが故途中で辞めてしまうひとも多い暴露療法に着手することになるのです。(続)