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【短編】愛を込めて

 花屋にでも寄ってみるか。
 ふとした巡り合わせから、普段つかわない出口から地下鉄を降りた彼は、角の人だかりを見つけて立ち止まった。行列に惹かれる質である。いや、もっと消極的に、行列がなければ床屋でもラーメン屋でも、初めての店舗に足を踏み入れるのを躊躇ためらう小心者である。なにより店員の待ち受けたような誘導がわずらわしく、デパートの洋服売り場では「いらっしゃいませ」の一礼ですでに居心地が悪くなる。おじさんのくせに、試着する度胸もない青緑のタートルネックを物色するなんて、と品定めされている気がしてならないのだ。
 その点、行列ならば安心して様子をうかがうことができる。順番に流入する客の一人になり、前の人のふるまいを見てそなえる時間もある。定食屋の食券ならそれでよかった。どういう風の吹き回しか、この角の人だかりの気楽さは彼に、日頃近づきもしないフロリストへと踏み出す場違いな勇気を起こさせたのだった。
 「いい夫婦の日」だという。どうりで背広姿の集団が華やかな正面入り口を物色しているわけだった。覗くだけ覗くふりを装って帰るとするか。そう思った矢先に話しかけられた。
「どんなお花をお探しですか?」
 溌溂はつらつとした女性店員が、過剰なまでの瞳の輝きで彼の表情を覗き込んでいた。オレンジがかった茶髪の若い女性である。彼は一言目で、自分が到底適わない強靭メンタルガールだと察知した。はきはきと元気、こちらの戸惑いをものともせず正論とポジティブをぶつけてくるタイプ。印象は良いが、断りづらいのは必至だった。行列に気を許して、花屋の軒先へ迷い込んだ己の気恥ずかしさが今になって猛烈に到来した。
「ええと、薔薇がいいのかな」
 もう後戻りはできないと、平静を装うのに膝が震えている。人だかりに誘われて冷やかしに来ただけだと、言えない見栄がまた彼を裏切った。いい夫婦の日に薔薇の花束だなんて、なんと陳腐な。しかし他に花の名前を知らなかったのだ。紫陽花やら向日葵ならともかく、びらびら花びらの揺れ動く可憐な品種や、緩く丸めた広告紙のようなスタイリッシュな品種は一切。
「奥様にですね? それでしたら、こちらの赤薔薇が一番人気ですよ。それから、ちょっとお色味は変わりますが、こちらのダークピンクもロマンチックかと」
 目の前に示された二色の見分けが彼にはつかなかった。
「ええ、いや、しかし。やはり、赤が人気なんですね。」
「そうですね。赤にこだわる方が多いですね。その分、赤薔薇の方がちょっと単価がお高いんですよ。ダークピンクの方は、一本360円、赤の方だと420円。」
「そう、やはり、赤が王道ということですか。」
「まあ、そうですね。ロマンチックですから。赤薔薇の花言葉は渡す花の本数でも違うんですよ。一本なら一目惚れ、二本なら『世界に二人だけ』。三本で『永遠の愛』、二十四本なら『一日中あなたを想います』なんていう風に。101本ですと、『これ以上ないほど愛します』という意味になるんですよ」
 店員の情熱的な説明にこくり、こくりと納得するふりをしながら、背後かからのサラリーマン集団の視線が熱い。赤薔薇の情熱的な意味合いを講釈される彼を、外野は声もなく見守っているのである。不慣れな注目と気まずさを振り払いたい一心で、気づくと店員に声を荒げていた。
「君、定型どおりの説明は分かったがね。いい年をして愛しますだとか永遠だとかなんて、本気にする人がいるのか。二十四本、百一本の花言葉なんてでたらめもいいところだ。五十六本の薔薇の花言葉はどうだ? 答えられないだろう」
 水を打ったように、あたりが静まった。店員の眼の中に、温牛乳の表面のような透明な膜がゆるりと張り、それがみるみるうちに揺らいで表面張力のせめぎ合いになった。
「申し訳ありません……存じておりません」
 取り返しのつかない沈黙だった。
 どうにも不味い状況である。歩き去るもわろし、適当な本数を取って会計するのもわろし、謝って撤回するのもわろし。苦しまぎれに呟いた。
「すまないね。五十六回目の、今日が結婚記念日なんだ。」
 店員の眼に、再び星が灯った。そして彼の眉間や法令線を懐疑の視線がさまよった後、全てを合点したように表情がぱっと華やいだ。
「そういうことでしたか! すみません、正式な花言葉は存じていないのですが、そうですね。ええと、五臓六腑まであなたのもの、なんていかがでしょう? 赤薔薇、五十六本お包みしますね。」
「……ああ」
 身体じゅうから力が抜けた。

 すっかり軽くなった財布と両手いっぱいの花束を抱えて、彼はとぼとぼ家路につく。すれ違う誰もが一度振り返った。特注の高級スーツ以上に、薔薇の花束は似合う人を選んだ。残念ながら彼の場合は、花を添えるというよりも惨めさを際立たせる効果があったのだが、そんなことは自他ともに明白だった。五十六年目って、本当にそんな歳に見えるだろうか。直球勝負な愛の言葉はどぎつすぎるけれど、五臓六腑ってのもどんなものか。煙草をたしなまないので肺はきれいだろうが、胃は近年、冷や水できりきり痛む。あなたのもの、だなんて差し出されても、妻は気味悪がって生ごみ行きに処するだろう。うむ。
 煌々ひかる居酒屋街の客引きをかいくぐり、ファーストフード店の前に屯する若者の集まりの間を縫って、なんとか大通りの交差点まではたどりついた。五十六本というのは尋常な重さではない。繊細なものを運ぶ気疲れもあって、両腕が今にもりそうだった。横断歩道の信号を待つ間、へなへなと地面にその美しい花束を横たえた。
「慣れない事なんて、するものじゃないな。」
 年甲斐もなく涙がにじんだ。街路灯やヘッドランプの光がぼやけて幻想的に映った。
 情けないことに、薔薇の花束は彼の腕のなかよりも、車の飛び交う交差点に置かれているのが良く似合った。腕をぶらぶら脱力し、痺れの名残を振り払いながら、彼は一度信号を見送った。ヘッドライトを灯して目的地に直進するばかりの車群の残像が、長い露光の写真のように軌跡を曳いた彗星となった。それらを追えば、大都市をかいくぐる百万通りの家路が大掛かりな綾取りとして浮かび上がるはずだった。彼はしばらくして何を思ったのか、すっと膝をつき、交差点に手を合わせた。
『やすらかに。』
 目を閉じ、呼吸が落ち着くまで祈った。犠牲というものを想った。薄命というものを想った。数多くの人々を同時に思った。ふたたび立ち上がったとき、気分は晴れやかだった。彼は薔薇をそこへ置いたまま、信号を渡った。それから最寄り駅までの道のりを、別人のような軽い足取りで飛んで帰った。

「おかえりなさい。」
 いつもどおり出迎えは台所からよく通る声。彼は靴を揃え、背広の埃を払って今に入る。食卓では一人用の小鍋におでんが湯気をあげていた。
 眼鏡を曇らせながらのぞきこんだ彼に、妻が椀と箸を手渡してくる。出汁の甘い匂いが目に沁みた。
「美味しそうだな。」
「あなたの好きな昆布巻きを多く入れたのよ。それから白滝。こんにゃくとはまた別物だっていつも文句を言うでしょう」
「あの、いつもありがとう。」
 妻は手をとめて、夫を上から下までながめ、何を悟ったのか、 
「どうしたのよいきなり。冷めないうちに。」
 と水仕事に戻っていった。彼は使い物にならない眼鏡をいったん外し、おしぼりでレンズをぬぐう。それから顔も満遍なく拭く。家族には顔をしかめられる習慣だがこれにまさる爽快はない。ことこと煮立つ具材をりながら椀によそった。薔薇のことはもう思わなかった。

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