有吉の鋭い指摘と、尾崎豊についての考察
かつてテレビ「怒り新党」で、「ヤバい、キモい、ウケる、意味分かんない」の若者言葉四つを、寛平ギャグ「どうしてじゃー」に絡め、若者が自分の優位性を保つための“最強ワード”と指摘した有吉弘行。
現代の若者の深層心理を、これ以上なく的確に切り取っていたのは、人をよく観察している有吉さんらしい指摘。
さらに一歩踏み込んだ文章を、2000年辺りに尾崎豊と絡めて書いていたのを思い出しました。
鍵となるのは、「ヤバい、キモい、ウケる、意味分かんない」のマウント言葉の、インスタント“否定”の便利さと、“嫌い”になることの、意外なほどの大きな違いです。
尾崎の一つの可能性
自己否定と自己嫌悪の深層心理をライトとして
一、今なぜ尾崎なのか
八〇年代、尾崎は反逆のシンボルでしかなかった。
しかし彼の死後八年の時が流れ二十一世紀に入っても、尾崎は色褪せることなく何かを訴え掛けてきている。
彼の歌が教科書に載る時代になり、今なお若者の心をとらえ、多くの人々の心を揺さぶり続けるのは何故か考えてみたい。
ニ、否定することと嫌いになることの違い
この二つの違いをまず強調したいのは、とりもなおさず、この二つの言葉が混同されがちのように思われるからである。
そして尾崎を知る上で、把握しておくべき点と感じたから、最初の問い掛けとして挙げておくことにした。
ではその違いは何かといえば、それは一言で表すなら、「思考停上をするかしないかの違い」ということになる。
嫌いになることは理由付けが必要なのに対し、 否定にはその先がない。
例えば、否定を端的に表した「ダサい」という言葉があるが、この言葉には「無条件」に相手を自分より下に組み敷くことで安心できるという、心のバランスをとるための防衛機制が働いている。
この “無条件”という点が大事な所で、そうすることでもう相手の存在によって、心を乱される心配がなくなるのだ。
が、一方言われた側にとって、無条件に否定されることは、自覚できなくとも確実に心にダメージを受けることになる。自分の心を“ゴミ捨て場”にされたからである。
心の防衛機制は、誰しも自分の存在の、確かな現実感を感じるために必要なもので、他人にそれを揺るがされることは本能的に人は避ける。
中には人を傷つけることでしか心のバランスをとれない人もいる。
この場合、自分を守る自己保全のため、先に「思考停止」した方が強者となり、否定される側は一方的に心の排泄物を押し付けられた形になる。
それは痛みとなって否定された者の心に突き刺さる。
たとえそこに悪意はなかったとしても、無条件に否定されるということは、全人格を否定されることに等しい。
暴力というものは、常に受け止める側によってそれと判断されるものなのだ。
余談だが、イジメの根本にある上下関係のヒエラルキーには、いじめる側にとっていじめられる側は、“絶対的”に下でしかないという強者の驕りが見て取れる。
否定することは実に簡単なことなのだ。 相手を認めなければそれで済むのだから。
そこに存在するのは「思考停止」、 つまりは相手の痛みに対する圧倒的な無関心でしかない。 否定する側にとって否定される側のことなどどうでもいいことなのだ。
そして、 残るのは得ることも失うこともない希薄な人間関族である。
が、否定することと嫌いになることの違いが、致命的な 違いとして現れる状況が存在する。それはそれらが自分に向けられた時である。
三、自己否定と自己道悪の違い
否定の怖さは実はその思考停止の便利さにある。無条件に相手を自分の下に組み敷けたその便利さが一度自分に向けられた時、大きな矛盾としてのしかかって来ることになるのだ。
今まで組み敷くことで“安心”してこれた構図が、根底から揺らぐことになるからだ。
人は誰も、自分の心を最終的なゴミ捨て場にすることには耐えられない。
その時、自分の何を信じることが出来るだろうか。おそらく人としてのバランスをとることさえ、危くなってくるのではないだろうか。
何故なら自分で自分を否定した場合、 「自分は何物だ?」という己の存在への問い掛けに、何ら有効な答えを、自らの中に見出し得ないはずだから。
では、自己否定と自己嫌悪の違いは何かといえば、“存在”の概念を哲学で突き詰めていった人、ハイデガーによって興味深い指摘がある。
彼は、嫌いになることは自分の存在と対比し、よりよい自分に向かう心の働きであると考えている。
一方で否定は、その対比するものの希薄さにより、目の前の希望に向かうからこその存在に、プラスになることはないと言っている。
つまるところ、自己嫌悪はモチベーションになり得るが、 自己否定で終わってしまっては何も得られないということなのだ。
今の世の中、そして若者の心の闇は、その一見ささいな、 しかし重大な違いに、ひとつは根差しているように思われる。
四、尾崎は自分を否定しなかった
尾崎は全面的に自分を好きではなかった。むしろ嫌いであったと思われる。
その理由が単純なものではないからこそ誰よりも深い苦悩を抱えていた。
しかし、自分をただ否定したりはしなかったはずである。 別の言い方をすれば、否定を結論にはしなかったということだ。
答えを捜し求めつづけた彼は、否定は決して答えにはならないことを直感的に気付いていたに違いないのだ。
彼は「存在」のなかで、自分らしさに打ちのめされてもあるがままを受け止めようと歌っている。
Exislence (存在)のExには狭い自我を出て、本来の自己に向かう意がある。
自分を否定しそうになりながら、自己嫌悪の闇に取りこまれそうになりながらその結論に辿りついた所に尾崎の強さと、人としての輝きがあるように思われるのだ。
五、尾崎の歌の力、そして可能性
否定することで思考停止してしまうのは、結局弱い自分を守るためである。しかし自分を否定したら自分は守れない。
だから自分を嫌いになることはあっても、 自分を否定してしまってはいけない。
否定からは何もプラスのものは生まれはしない。語弊はあるが、むしろ自分を嫌いになることをすすめたい。
何故なら自己嫌悪に陥る心の働きこそ、よりよくありたいと願う健康な心を持つ証であるから。
決して万人受けするものではないが、尾崎の歌には言葉だけでは伝わらないものを伝える力がある。
言葉だけでは反発さえ買ってしまいかねないことでも、尾崎の歌は人の心の不可侵領域すら包み込み、溶かしていく。
幸運な人は、そこで人は尾崎と向き合い、自分の本当の姿と向き合う。 尾崎を通して。
そして心を揺さぶられ、今のままの自分でいいのかという疑問を持った時、人は変わるための動機を手に入れるのだと思う。
その内省することで人として成長することを、強要ではなく自然な心の働きとして、 特に若者に促がせられることこそ、尾崎の歌の力であり、これから伝えていくべき一つの尾崎の可能性ではないだろうか。
自己嫌悪と自己否定についての追想
自分さえ否定してしまう者は、何者も肯定することは出来ない。
しかし、自分すら否定したこともない者もまた、何者をもほんとうに肯定することは出来ないのではないだろうか。
ヘーゲルは「精神現象学」で「人間が真理を突き詰めていこうとするとどうしても『自分の否定』になってしまう。 これはとても受け止めがたいことだが、それをしなければ 真理の追求はできない」ということを言っている。
弁証法 は“正”でもななく“非”でもないところにある、“合”を 追求していくことに意義がある。やはり否定で終わってしまってはならないということなのだ。
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