
【社台グループ】さん、吉田一族の歴史③「吉田牧場」(吉田照哉・勝己・晴哉氏の親戚)
「吉田牧場」さんは「社台グループ」ではないですが、民間牧場で最も古いものの一つとされる牧場。そしてやっぱり「社台グループ」にとっても重要な存在ではないかと思われます。
そんな「吉田牧場」さんをちょこっと調べてみました。
●吉田一族家系図(一部)

●有限会社吉田牧場
北海道勇払郡安平町早来富岡406
●●吉田権太郎(初代)
(社台ファームの吉田照哉氏から見ると、曾祖父の弟)
・1897(明治30)年 吉田権太郎独立、植苗村(後の安平村)早来に約160haの土地貸与を受ける。「吉田牧場」を創業。
・1902(明治35)年 吉田権太郎兵役満期除隊となり、馬産を開始した。「吉田一族」馬産の出発点。
・札幌競馬倶楽部・稗田虎伊調教師と出会う。
優良軍馬が300~400円という時代に、稗田虎伊調教師は1万円、1万2000円という交渉を馬主としていた。
サラブレッドという品種を知らなかった権太郎に対し、稗田は「世界で最も優秀な馬」だと力説し、もしも生産する意志があるなら馬を斡旋すると申し出た。
これを聞いた権太郎は「どうせ馬を作るなら最高のものを」と決意。
・1906(明治39)年頃よりサラブレッド生産も開始。
追風(父パーナムビュコー、母レスリーカーター)
第二フェアペギー(父インタグリオー、母フェアペギー)
プレヴァンス(父コイワヰ、母第二プロポンチス)
の繁殖牝馬3頭を仕入れる。
※吉田善助(照哉氏の祖父)は、子どものころから、叔父・吉田権太郎の家に暇を見つければ随時遊びに行く。吉田権太郎のことは「おんちゃん」と呼び仲が良かった。叔父・甥の関係も年齢は3歳しか違わない。
・1909(明治42)年、農商務省および畜産組合から豪州産牝馬を払下げ、種牡馬も購入。
・1927(昭和2)年ごろには約500頭を生産し、生産馬は各地の共進会や品評会で賞を受けた。
この頃、「吉田牧場」は、面積400町歩、私設競馬場もある大牧場になっていた。
※1928(昭和3)年 吉田善助、徳川慶喜の孫・徳川慶光公爵所有、白老社台の土地購入の売買契約を結ぶ。白老「社台牧場」でサラブレッド生産開始。
吉田善哉(照哉の父)はこの頃7歳。以降、父・善助と一緒または一人で、吉田牧場によく遊びに行っていたとのこと。
・1940(昭和15)年3月1日 吉田権太郎没。
吉田権太郎のもう少し詳しくは下記にて
●●吉田一太郎(2代目)
・1940(昭和15)年3月1日権太郎が死去し、長男・吉田一太郎が跡を継ぐ。
次男の英男氏、三男の権三郎氏もそれぞれ牧場を創設して独立した。
・1941(昭和16)年12月太平洋戦争勃発。
・戦局の悪化により、政府は1943(昭和18)年12月17日の閣議において競馬開催を中止を決定。
多くの牧場では、維持費がかさむサラブレッドは次々と処分されていったが、一太郎は1頭として処分しなかった。
※この1頭も処分しないあたりは、吉田善哉と同様。
逆にこの機を利用して下総御料牧場の良血馬・嶋城(父ダイオライト、母月城)を破格の値段で手に入れる。
・終戦後の1946(昭和21)年7月、進駐軍)の兵士と家族を慰安するための進駐軍競馬が再開された。
良質の競走馬が不足していた中にあって吉田牧場の生産馬は高値で購買されていった。
・一方、農地解放政策に伴い、当時500haあった牧場用地は接収されて半減となる。
・本格的に競馬が再開されると、吉田牧場生産馬は目立った成績を挙げ始める。
・1947(昭和22)年6月8日 復活ダービー開催。
吉田牧場もエツザンを出走させる。
(白老・社台牧場、馬主・吉田善哉もともにこの復活ダービーに出走させる)

◎吉田一太郎の方針
輸入外国牝馬が礼賛された当時に「国が豊かだった時代に買ってきた、日本に古くからいるサラブレッドの方が優れている」との考えから、戦前から日本に根付く血統から馬を生産した。
また、吉田一太郎が最も重視したのは幼駒のトレーニングで、トレーニングに耐えるだけの栄養を馬にとらせるために、牧草を育て、牧草を育てるために土壌を豊かにした。
そして、馬自身の血統も弱々しいものであってはなず、五代遡っても血のクロスがないようなアウトブリーディングでトレーニングに耐えていく馬を作った。
それは病気や脚部不安にも無縁なほどに頑健で、精神的にも図太く、長く競走馬として活躍し続ける、無事之名馬を育てることであった。
そうした条件にかなった種牡馬がトシハヤであり、カバーラップ二世であり、オーシャチであった。
そして、これらの種牡馬には名血が弱いだけに、配合牝馬には名牝を選んだ。小岩井農場や御料牧場の良血牝馬である。
・1952(昭和27)年 ヒロホマレ(父ヒロサクラ 母名月)鳴尾記念(春)優勝、天皇賞(秋)2着。通算53戦20勝。
・1955(昭和30)年 ヒロイチ(父ヒロサクラ 母名月、ヒロホマレ全妹)が桜花賞2着の後、オークスで優勝。吉田牧場生産馬初のクラシック制覇。
・1955(昭和30)年 種牡馬トシハヤ(祖父シアンモア)導入。
中央競馬で9戦1勝、地方競馬で127戦34勝という頑健な馬である。
※この年、吉田善哉が「千葉社台牧場」として独立。
・1957(昭和32)年 種牡馬カバーラツプ二世導入。
米国産。競走馬として輸入されたが、7戦2勝しただけの二流馬だった。しかしアウトブリード血統の典型で、いかにも健康な異系の血脈である。
カバーラップⅡ世は、ほとんど吉田一族の繁殖牝馬のみに配合されただけで、その種付頭数も産駒数も極めて少ない。
だが産駒からは、ワカクモ(桜花賞)・リュウズキ(皐月賞、有馬記念)・カシュウチカラ(天皇賞春)・チトセハーバー(阪神3歳S)・リュウゲキ(朝日杯3歳S)などの活躍馬を多数出す。
・1958(昭和33)年 「クモワカ」事件
◎クモワカ
・1950(昭和25)年10月 新馬1着
・1951(昭和26)年 桜花賞2着 菊花賞4着
・1952(昭和27)年 現4歳でも走り、6月1日阪神特別では3着に入っていた。
・この夏に体調を崩し発熱。9月、診察した京都競馬場の獣医師は馬伝染性貧血(伝貧)と診断。
・クモワカは11月まで経過観察とされ、隔離用の厩舎に移動。
・ただ、クモワカの健康状態は日を追うごとに回復を見せていたことから厩舎関係者は罹患していなかったのではないかとの憶測が広がった。
・1952(昭和27)年12月 この診断を受けて京都府知事の蜷川虎三は家畜伝染病予防法第17条により12月末までに殺処分を行う旨の通告を出した。
・馬主の山本谷五郎はクモワカを試験治療用の学術研究馬にしてほしいと京都府に要望し、その結果殺処分は延期され引き続き隔離厩舎に置かれることとなった(殺処分をしたとの提出書は出して、実際は匿っていたとの話もあり)。
・そのままほぼ3年が経過。
・1955(昭和30)年9月 隔離厩舎改築のため、クモワカは移動を要請される。
・通常競走馬の移送には移動証明書が必要であるが、京都府がクモワカは競走馬ではなく一般の馬であるから獣医師の証明書のみで移送可能と解釈上の便宜を図ったことで移送が実現した。
・11月、早来・吉田牧場に運ばれる。
・そこでオーナーの山本谷五郎と、吉田一太郎は、クモワカを繁殖牝馬として繋養することを決める。
吉田一太郎は、隔離厩舎でクモワカを見て、伝貧ではないとの確信を持ち、北海道まで運ぶことができれば受け入れましょう、と言っていた。
・1956(昭和31)年春 種牡馬との交配を行う。
・1956(昭和31)年8月 「丘高」という名で軽種馬登録協会に繁殖馬として申請、受理される。
・しかし、1958(昭和33)年春、第2仔を産んだクモワカは、軽種馬登録協会から血統登録を抹消すると通告された。
・「丘高」がクモワカであることを見抜いた協会は「いまは伝貧が陰性でも、再発する可能性がある」との理由で申請を拒否。
・山本はこの処分に反発し、知事による殺処分通告を取り消すよう京都府に働きかける。
・1959(昭和34)年3月 京都府蜷川知事は、馬主の山本に、「再検査の結果陰性」とし、殺処分を取り消すという通知を出す。
・それでも軽種馬登録協会はクモワカ側の申請を受け付けなかった。
・山本はついに「丘高」ことクモワカと、その産駒の登録を求める民事訴訟を起こすに至った。
・一審はクモワカ側の敗訴。
・だが、二審の審理に入る際、ほかの生産者と馬主たちから、クモワカの登録を受け付けないのは不合理である旨の趣意書を提出。
・そうしたバックアップもあって、協会は「再度クモワカに検査を行い、伝貧が陰性であれば登録を認める」ことを決定。
・1963(昭和38)年9月 クモワカは検査で陰性となったため、クモワカと産駒は晴れて血統登録を受け付けられた。
・裁判は二審を前にして終結。
・その年の1963(昭和38)年3月、クモワカはカバーラップ二世を父とする牝馬を産んでいて、これが第5仔の桜花賞馬となるワカクモ。
・そののちワカクモが繁殖入りし、産み落とした1頭がのちに天皇賞・春、有馬記念などを制するテンポイント(父コントライト)であった。
・1959(昭和34)年 オーカン(父トシハヤ 母フクニシキ)がオークス優勝。
※1962年12月、吉田善哉が早来の土地を購入(のちのノーザンファーム)。
・1966(昭和41)年 クモワカの仔・ワカクモ(母クモワカ桜花賞2着時と同じ杉村一馬騎手にて)が桜花賞優勝。
1966年 桜花賞 ワカクモ 春眠
・1967(昭和42)年 リュウズキ(母オーカン)が皐月賞に優勝。史上3組目の母子によるクラシック制覇を達成。
・ダービーでは皐月賞馬リュウズキが1番人気に。だが5着に敗れる。
・1967(昭和42)年 種牡馬オーシヤチ(父メイヂヒカリ 母父セントライト)導入。
トウルヌソル→クモハタ(母・星旗)→メイヂヒカリと続く下総御料牧場に小岩井農場が融合した日本基礎の血統。
・1968(昭和43)年 リュウズキ(母オーカン)が有馬記念優勝。
第13回 有馬記念(グランプリ) リュウズキ 牡4 56 森安弘明 1968.12.22
・1970(昭和45)年 吉田一太郎死去。
息子・吉田重雄が引き継ぐ。
◎吉田牧場主な血統

●●吉田重雄(3代目)
重雄は一太郎の血統を守りながらも、「このままでは血が偏って行き詰まる」と危惧し、外国馬も積極的に導入する方針を採った
英オークス優勝馬ジネヴラ、伊オークス優勝馬ケルケニアを購買
・1972(昭和47)年 種牡馬コントライト(父Never Say Die・米国産)導入。
ここからテンポイントが出てくる。
・1973(昭和48)年 アメリカの年間最優秀古牝馬を受賞したタイプキャストを、繁殖牝馬に付けられた価格としては当時史上最高額となる72万5000ドル(約2億2300万円)で購買
のちの天皇賞馬プリテイキャストを産む。
◎テンポイント
・1975(昭和50)年8月17日 函館新馬戦「流星の貴公子」テンポイント、レコードで圧勝
【テンポイント トウショウボーイ グリーングラス】TTG 伝説の名馬の新馬戦【競馬】競馬列伝
・1975(昭和50)年12月7日 テンポイント、阪神3歳ステークス優勝。優駿賞最優秀3歳牡馬に選出される。
1975年12月7日 阪神3歳ステークス テンポイント aiko871
・1976(昭和51)年4月25日 「TT決戦」テンポイント(5戦無敗)VSトウショウボーイ(3戦無敗)の皐月賞。テンポイント2着に敗れる。
第36回 皐月賞 トウショウボーイ 牡3 57 池上昌弘 1976.4.25
※この年、社台ファームは種牡馬としてノーザンテーストを導入。
・1976(昭和51)年11月14日 菊花賞 テンポイント、グリーングラスに内を掬われ、またしても2着に敗れる。
1976 菊花賞 グリーングラス 【懐かし】90年代
・1976(昭和51)年12月19日 有馬記念 トウショウボーイに敗れテンポイントここも2着。
【貴重映像・昭和レトロ】天馬 トウショウボーイ 1976年有馬記念 | JRA公式
・1977(昭和52)年4月29日 天皇賞(春)テンポイント無冠返上の優勝。
『これが夢に見た栄光のゴールだ!』第75回 天皇賞(春) テンポイント 牡4 58 鹿戸明 1977.4.29 おびるチャンネル
・1977(昭和52)年12月18日 有馬記念。最後の「TTG決戦」。ここまでトウショウボーイの4勝1敗。「TT一騎打ちの名勝負」。年度代表馬に選出された。
【貴重映像・昭和レトロ】流星の貴公子 テンポイント 1977年有馬記念 | JRA公式
2分35秒のデッドヒート トウショウボーイ テンポイント
・1977(昭和53)年1月22日 悲劇の日経新春杯
未来に語り継ぎたい名馬物語 14 数々の名勝負を残した流星の貴公子 テンポイントの運命
トップハンデ 66 5kg のせいで骨折してしまうテンポイント 競馬・騎手レア動画
1978(S53)不滅の名馬テンポイント 今井拓我
・1980(昭和56)年 プリテイキャスト(父カバーラップ二世 母タイプキャスト)が牝馬で天皇賞(秋)に優勝。
1980 第82回天皇賞(秋) プリテイキャスト
※大逃げから逃げ切り勝ち。
・1982(昭和58)年 ダービーでワカテンザン(父マイスワロー 母オキワカ)が2番人気に。バンブーアトラスに半馬身及ばず、無念の2着。
82日本ダービー teio toukai
・1982(昭和58)年 テンポイントの全弟・キングスポイントが春秋の中山大障害を連覇し、最優秀障害馬に選出された。
・1995(平成7)年 フジヤマケンザンが香港G1(国際G2)競走の香港国際カップ(現・香港カップ)に優勝
1959年にハクチカラがワシントンバースデーHCを制して以来、日本馬としては36年ぶりとなる海外重賞制覇の偉業を達成。
同馬の父・ラッキーキャストは重雄が導入したマイスワローとタイプキャストの子、母系は一太郎がこだわった下総御料牧場の系統であった。
フジヤマケンザン 香港国際カップ 1995年12月10日 シャンティン競馬場 aiko871
・1997(平成9)年 ライデンリーダー繁殖馬入り。
・2001(平成13)年11月29日 吉田重雄が死去。
●●吉田晴雄(5代目)
重雄の実弟
JRA騎手 1963年~1970年障害中心 51勝。
・1970(昭和45)年 父・吉田一太郎死去により、吉田牧場に戻る。
・2001(平成13)年11月に重雄ががんで死去し、その後、牧場代表となる。
・2020(令和2)年4月2日、火災が発生し、繁殖牝馬5頭全て焼死。
繁殖牝馬を失ったことに加え、場長である晴雄の体力的な衰えもあり、2020年5月をもって競走馬生産を終了を決断。
・2020(令和2)年9月23日 吉田晴雄享年77歳で死去。
●●吉田邦子(6代目)
吉田邦子が現在6代目となっている。
マジックゲール(母リボンノキシ 馬主:吉田牧場 生産:吉田牧場)門別にて現役(2025.1.1現在)
●●吉田直哉(4代目)
◎米国ケンタッキー州ブルーグラス地方 ウィンチェスターファーム 社主
(サンデーサイレンスが生まれた牧場近く)
競走馬生産・育成
繁殖牝馬、当歳馬、1歳馬を繋養
米国内外のセリでの顧客の代理として売買業務
ウィンチェスターファーム・ホームページ
・吉田直哉/Naoya YOSHIDAさんのX(旧twitter)
https://x.com/NaoyaYoshidaUSA
1968(昭和43)年生まれ
吉田重雄(3代目)の長男
※1968年というと、吉田一太郎は存命でした。
吉田善哉が1967年、吉田牧場と同じ早来に、社台ファーム早来(後のノーザンF)を開場。
1968年4月14日 コウユウが桜花賞制覇し、吉田善哉が独立して初のクラシックを獲る頃。
吉田一太郎・重雄とも、吉田善哉とは仲良く交流し、また一目置いていたと思われます。「哉」の字はまず間違いなく吉田善哉からいただいたものでしょう。
・幼い頃から牧場作業を通じて馬に触れ、父が購読する国内外の競馬雑誌を絵本代わりに育った。
・1993(平成5)年 酪農学園大学卒業、獣医師免許を取得。
・1994(平成6)年より、アイルランドに渡り牧場経営学を3年間学ぶ。
・アメリカで世界最大の馬の診療所で臨床研修を行う。
・その後、ゲインズボローファームなど一流牧場で生産牧場の繁殖管理、衛生管理などを学ぶ。
・約5年間の武者修行。すべては牧場を継ぐ準備だった。
・1999(平成11)年 マリ・ドゥビュッシャー(仏国出身・1歳上)と結婚。日本に戻る。
・2001(平成13)年11月に重雄ががんで死去し、牧場代表となる。
・親族会議の決定で、一度は就いた牧場代表の座を叔父2人に譲った。
・海外暮らしの長かった直哉と叔父・晴雄との行き違いが見え始め、徐々に経営から遠ざけられた。
・「自分には何ができるか」を考えた末、海外での牧場開業という結論に行き着く。
・家族や旧知の馬主も賛成してくれたが、問題は土地も資金もなく、タイプキャストの生産者に紹介された税理士とともに、事業計画を手に銀行を回る。
・好況期で銀行は融資に積極的だったが、土地を物色していることが知れると、売り主や不動産業者に高値をふっかけられる恐れもあり、夜中に候補地を探した。
・2002(平成14)年6月 ケンタッキー州パリス地区にて、「ウィンチェスターファーム」開業(60ha)。妻マリと、従業員1人の3人での始動だった。
・米国の大半の牧場は馬主の繁殖牝馬を預かり、預託料で生計を立てる。低リスクだが、顧客がいないと収入もない。口コミで馬は集まりだしたが、幼い馬ばかりで実戦デビューはまだ先で苦しい時期であった。
・2004(平成15)年12月 レキシントン市のイートンファーム本場 (110 ha ) を買収(ケンタッキー州の先駆的な生産者の一人、リー・イートンにより創設されたインディアンヒルファームが前身でレキシントン地区の開墾当初から存在する長い歴史を持つ牧場)。
・2005(平成16)年に生産馬が走り始め、2007(平成18)年に重賞初制覇。
・2010年に生産し、同年秋にセリで売却したフラックダディは2013(平成24)年春のG1で2着に入り、ケンタッキーダービーに出走。米国の生産者として認められた瞬間となった。
現在もSNSでの発信に加え、競馬雑誌やスポーツ紙の連載記事で米国の競馬・生産事情を紹介し、日本の競馬にも提言している。
◎ウィンチェスターファーム 日本での主な活躍馬
エーシンジーライン 2012小倉大賞典(G3)
エアハリファ 2015根岸S(G3)
ランドネ 2018紫苑S(G3)3着など
エアサージュ 2024鳴尾記念(G3)3着
●参考図書
流星の貴公子 テンポイントの生涯 (集英社新書) 新書 – 2005/5/17 平岡 泰博 (著)
●参照
GJ 九死に一生を得た母から桜花賞馬が誕生…息子は満票で年度代表馬に。「流星の貴公子」テンポイント前編【競馬クロニクル 第37回】2024.01.12
https://g-journal.jp/keiba/post_373345.html
Compassion コラム 競馬と文学と童謡と……
http://www.compassion.co.jp/column/course/column062
訃報 吉田重雄氏死去/吉田牧場場長 2001/11/29
https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20011129000555
福島馬主協会会報 2021年春号
http://www.fukushima-umanushi.jp/column/pdf/147.pdf
スポニチアネックス 吉田牧場生産終了へ…1897年創業、晴雄氏「4月の火事、私の体力面もあり決断」 2020年5月27日
https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2020/05/27/kiji/20200526s00004048464000c.html
GJ 無情の処分命令も北海道逃亡…命が懸かった裁判で敗訴からの大逆転! “悲運の貴公子”テンポイントの祖母「クモワカ伝貧事件」【東大式必勝馬券予想】2023.08.07
https://g-journal.jp/keiba/post_352084.html
“亡霊の孫” その特異な出生 テンポイント 40年を経ても色褪せない名勝負
https://books.netkeiba.com/?pid=book_detail&bid=5&cid=2
新小児科医のつぶやき 流星の貴公子・クモワカ編
https://yosyan.hatenablog.com/entry/20130611
ライデンリーダーを訪ねて~吉田牧場 2009年10月30日
https://uma-furusato.com/column/53390.html
ホーム - Winchester Farm
https://winchesterfarm.com/ja/スタッフ/
ウィキペディア 吉田直哉 (競馬)
https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田直哉_(競馬)
日本経済新聞 米の3歳馬最高峰に出場 競走馬生産者・吉田直哉(上) 2014年1月11日
https://www.nikkei.com/article/DGXZZO64974390X00C14A1000000/
日本経済新聞 競走馬生産者 吉田直哉(中)不況克服、生きた欧州人脈 繁殖やセリで「眼力を売る」2014年1月7日
https://www.nikkei.com/article/DGKDZO64961260X00C14A1US0000/?msockid=09ab8200a4496da90a5396b5a59b6c78
日本経済新聞 競走馬生産者 吉田直哉(下)「開かれた競争を」主張一貫 大舞台へ日本ダービー目標 2014年1月8日
https://www.nikkei.com/article/DGKDZO65020300Y4A100C1US0000/?msockid=09ab8200a4496da90a5396b5a59b6c78
中山馬主協会 第6回「憧れのレキシントン(前編)」2010年11月2日
https://nakayama-racehorseowners.or.jp/main/baji/item/1970/252
Winchester Farm 米
https://db.netkeiba.com/breeder/result/b_0EVrd3TEd2d/
名門・吉田牧場は残念ながら2020年5月で、サラブレッド生産を中止。約120年の歴史に幕を閉じました。
しかし、直系の吉田直哉氏が、アメリカでウィンチェスターファームを開業、発展されています。
吉田牧場は終わったのではなく、吉田牧場はあくまで日本からアメリカに進出していった、という吉田直哉氏の意識かもしれません。
アメリカから続々日本の競馬に有力馬を送り込んで、社台グループとガチンコ勝負。なんていう日が来る可能性も。
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