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身のこなしをキレイにする方法 ⑤/5

いよいよ、長いながい記事も最後。
この章の序盤の数ページは、意欲作というか、実験的というか、自信作というか、かなり特殊です・・



綺麗な歩き方 その1


□■ この段落だけは特別

さて、これから皆さんにある架空の状況を想像していただきたいと思います。キレイな歩き方をするため、身体を美しく使うために、非常に有効と思われるあるイメージを持っていただきます。

そのようなイメージを利用しなければ、説明できない事柄があります。

何かをイメージする訓練法はたくさんありますが、それらとは少し違います。私としては、読むだけで身体の感覚が洗練されるような、そんな文章を書きたいと思っておりますが、その一つの試みだと思ってどうかお付き合いください。いつもより少しだけ気持ちを静かにして、集中して読んでいただければ幸いです。

これから述べるような状況に、あなた自身が置かれたと想像してみてください。
実際に身体を動かす必要はありません。頭の中で、懸命に身体を操作する自分を思い浮かべてください。

第三者的に一歩引いたところから自分を眺めるように、自分の全体像を一つの映像として思い浮かべていただいてもかまいませんし、もっと内的な、自分の感情や感覚、視界などに重きを置いてイメージしていただいても結構です。できればその二つを組み合わせて、これから述べる架空の世界の中で、真剣に身体を操作しようと努力してみてください。

□■ よくわからないままで良いので読み進めて

読み始めはなかなか状況をうまく想像できないかもしれません。正確にイメージをつかもうとして、文章の一字一句の意味に意識が行き過ぎたりするかもしれません。たとえ状況設定がいまひとつ把握できなくても、どうかあまり気にせず読み進めてください。では始めましょう。

とてもとても広い空間にあなたはいます。身体の力は程よく抜け、ゆったりとした直立の姿勢をとっています。そして、落下しています。上から下へと落ちていく自分を想像してみてください。

そこに恐怖はありません。焦りもありません。あまりにも速いスピードで落下しているので、ほとんど無重力に近い状態にあります。気圧のことや空気のこと、そこから見える景色のことなどは今は考えないでください。

ただ、文字通り「地に足の着かない状態」にある自分を想像してみてください。その状況における身体の感覚をイメージしていただきたいのです。

上下の意識を少しだけ残しておいてほしいので、「落下している」という状況を設定しました。「宇宙空間における浮遊状態」のほうがイメージしやすければ、それでもかまいません。ただしそれは、くるくると体が回転してしまうような状況ではなく、イメージとしては、あなたの身体は普通に直立の状態にあります。

地に足がついていない感じ。無重力。直立。

ここまではイメージできたでしょうか。

さて、このような状況では、あなたは自分の意思で身体を「横方向に1メートル移動させる」といったことができません。もちろん飛び跳ねることもできませんし、水の中を泳ぐようにして移動することもできません。身体全体の位置を変えることはできないのです。

それは、あなたの筋肉が生み出すエネルギーを、自分以外のものに伝えることができないからです。外的に力を作用させるための支点を持っていないからです。簡単に言えば、あなたの足元に地面がないからです。

しかし、身体を動かすことは可能です。関節を曲げたり、手を伸ばしたり、脚をばたつかせることはできます。自分の体に触れることもできます。

このような状況(地に足がついていない感じ・無重力・直立)の中で、次のような動きを求められたと想定してみてください。

「キレイに歩く。まるでそこに地面があるかのように、美しく歩く」

歩くとは言っても、もちろん移動はしません。歩くその形をとるだけでいいのです。それは不可能なことではないはずです。外的な支えがなくても、脚を前後させたり、腕を振ることはできます。それらの行為は、内的な動きの起点を設定すれば行えるものです。腕を曲げたければ、ひじの関節を起点とすればいいのです。

地に足の着かない状態で、歩く。できる限り、体をきれいに動かす。美しい状態を保つ。自分の腕が、脚が、空を切る。形だけの歩く動作をつくりだそうとする。

最初は自分がうまくキレイに歩く姿をイメージできないかもしれません。身体が丸まってしまったり、ただ手足をばたつかせるだけだったり、どうしてもくるくる回転してしまう映像が浮かぶかもしれません。

しかし、落ち着いてそんな映像を何度でもリセットしなおして、どうにかキレイに歩く自分を想像しようとしてみてください。歩こうと努力して身体を操作している自分をイメージしてみてください。

もう、上から下へと落下していることも、無重力であることも忘れてかまいません。いかに自分の身体を操作すれば良いかだけを考えてみてください。

脚を前後に出すためには、股関節を起点とした動きをすればいいのです。右脚を前に蹴り出し、左脚を後ろに蹴り出す。普段なら後脚はそこに残すくらいの感じで良いのですが、この状況においては、お尻や背中の筋肉を使って後方へ向けて振り上げる操作が必要となります。

腕を前後に振る動作はもう少し簡単でしょう。肩を安定させ、交互に左右の腕を動かします。

身体の胴体部分をまっすぐに維持し、頭の位置を決めます。腰と腹筋、背筋をバランス良く操作して、背骨がきれいなラインを描くように心がけます。おそらく最も難しいのは、この胴体をまっすぐに保つことだと思います。

キレイに、美しく歩く。まるでそこに見えない地面があるかのように。

以上。

イメージを強要する文章はこれでおしまいです。ここからはこの「支えのない状態での身体の操作」についての解説になります。

おそらく、簡単に自分がきれいに歩く姿をイメージできた方もいれば、まったくうまくいかなかったという方もいらっしゃるでしょう。

イメージの成否は実はあまり関係ありません。私と皆さんが一つの架空の状況を共有できたかどうかが大事なのです。

ここで私がお伝えしたいことは、身体の内的な支えとなる点、つまり「重心」についてです。

皆さんは「キレイに歩くこと」を意識していく中で、身体のある特定の部分の、その重要さに気づかなかったでしょうか。身体を操作しようとする時に、ある部分を意識しなければ動きが始まらないような感覚はなかったでしょうか。力を込める起点のようなもの。その存在を意識しなかったでしょうか。

動きの中心となる場所。動作を生み出す基準となる部分。身体の各関節の相対的な位置を決めていくゼロ地点。基準点。

それが「腰」と呼ばれる部分なのです。

非常に回りくどい説明になりましたが、私が言いたかったことはこれです。

正確には、「腰」という言葉ではその部分を完全に言い表せてはいません。腰から、(よく丹田と呼ばれる部分を含む)お腹の下半分くらいまで。だいたいこの部分が、あなたの体の動きを作る土台となります。もちろん人それぞれその範囲は多少違ってきますが、身体の重心はこの部分にあります。

「腰の入った動き」「腰を入れて歩く」などと言いますが、本当は腰だけではなく、もう少し上の部分までを含めた、まさに体の中心部分が動きの支えとなっていることを、イメージを通じて理解していただけたでしょうか。重心が担う役割の重要性を理解していただけたでしょうか。

身体が空中に浮いた状態では、腰が、動きの始まる場所となります。腰がまず最初に動く、という意味ではありません。エネルギーを反射させる部分として腰が使われるという意味です。
それはたまたま身体の重心が腰のあたりに位置しているからです。何も考えなくても、自然と腰を起点に動きは作られることになります。腰を支えに動きが始まることになります。ダイビングなどで水中を自由に動き回ったことのある方なら、そのことは実感として理解していただけるでしょう。

しかし、地に足のついた世界、現実の世界ではもう少し事情が複雑です。腰の重要性はほとんど変わりませんが、それに加えて、下半身の働きが大きな影響力を持つことになります。実際に地面を蹴るのは脚であり、体を支えるのも足首や膝です。腰は脚に支えられる存在であり、それでいてかつ脚の動きを作り出す存在でもあります。

そのことが、腰についての理解を難しくしています。人々は腰の重要性を何となくは知りながらも、その本質を理解しないまま体を動かしています。腰は身体のすべての動きの中心となって、あらゆる関節に影響を与える存在であり、また逆に、身体全体にその位置や角度を維持してもらうことを必要とし、ある意味で庇われ、守られていなければその役割を十分に果たせない存在なのです。
このことについて、次の段落で、もう少し深く考えていきます。



綺麗な歩き方 その2


私はほんの一時期ですが、毎朝、人のいないサッカーグラウンドを、目をつぶって歩くことを習慣にしていました。

旅先で、日がのぼったばかりの静かな時間、河原まで軽いジョギングに出たついでに、息を整えるようにグラウンドを数周、目を閉じながら歩いたのですが、そのときに腰の存在の複雑さに気づきました。

そこで私の感覚が捉えたものを言葉にすると、「腰のあたりに身体の重心がくる」という、前の段落でイメージしていただいたこととまったく同じなのですが、そこには普遍的な身体のあり方美しく動くための大きなヒントが含まれているように思えました。

□■ 腰をコントロールする

視覚を伴わない歩行の中、私は神経という神経が研ぎ澄まされるような感覚を覚えました。

危険なので絶対に真似をしないでほしいのですが、目をつぶりながら歩いてみると、「歩行」はまさに全身運動だとわかりました。

左右の脚が交互に前に出ていき、腕が自然とそれにならって動きます。腹筋や背筋が上体を支え、あらゆる筋肉がさまざまな大きさと方向へ働き、バランスを保っています。

静かに足元の芝生の感触を味わいながらのんびりと歩を進めても、身体中の筋肉がそれぞれに役割を果たしているのがわかります。この肉体の内部で、すべてを把握することは不可能なほどに、複雑で繊細な営みが行われているのです。

私はそのとき、美しく歩くということに全神経を集中して歩いていました。歩き方のトレーニングとして、視覚を遮断し、より自らの美的な動作に敏感であろうと意識していたわけですが、そのうちに、本当に身体が全身で行おうとしていることは、脚を前に出すことではないような気がしてきたのです。「キレイに歩く」という目的を強く意識しながら身体を動かしていると、何と言うか、全身がどこかを庇い、ある一定の状態を維持しようとする動作に自然となっていくのを感じたのです。

言うまでもなく、「歩く」とは脚を中心とした行為であり、交互に両脚を前方へ出し続けなければ成り立たない、移動を目的とした行為なのですが、しかし、全身が維持継続しているのはそれだけではないような気がしました。むしろ別の、身体の内側にある特定の部分に重点を置いて、すべての筋肉が協力し合っているように思えたのです。

そうして、腰の役割の重要性と、それを支える全身の働きについて理解しました。人が美しく歩こうとする時に、その裏側で、身体の内側で行われていることの本質が見えたと感じたのです。それはとてもとても重要なことに思えました。

一言で言えば、各関節の動きは重心を支えとしており、その事実は、重心そのものを安定させるセンスや能力が必要になってくる、ということです。

腰自体がコントロールされていなければ、美しい動きにはならないということ。すぐに頭に浮かんだのは、「高等な動物ほど、どれほど過激な運動をしていても、その目線の高さを一定に保とうとする」といった内容の昔のテレビCMです。

腰の位置や角度に対して、身体全体が配慮して動いています。全身が、腰をかばっているのです。歩くことで生じる「揺れ」によって、腰がぶれてしまうことを避けようとしているのです。

「歩く」とはもしかしたら本来、大きく脚を踏み出しながら、それにともなうバランスの崩れをなんとか全身を使って制御する行為なのではないでしょうか。そしてその根底には、腰の役割の保持というものが含まれているのではないかと思います。

腰の役割とは、身体の重心としてさまざまな動きの起点となる、という意味です。

たとえば腕を動かす時、特に素早く強く動かす時、その力は(肩ではなく)腰のあたりを支えにして生まれるということです。筋肉の力を反射する、まず最初に作用させる場所として腰が使われるという意味です。それは先ほどの架空のイメージをもう一度思い出していただければ納得していただけると思います。

そのように歩行を捉えなおすと、さまざまなことが本質的に理解できました。
腕の動きについて、腰の使い方について。その美醜について。

腕の振りは、言ってみれば、アースのようなものです。脚の動きが生み出した振動やブレを逃がす役目を負っています。そのことはずいぶん前からわかったつもりでいました。しかし、もっと積極的に理解し直すべき事柄に思えました。もう少し、違ったニュアンスで。腕の振り方には腰という身体の中心、統率の中枢への配慮が含まれていたのです。

腕と脚の振りが左右を違えて行われるのは、つまり右脚が前に踏み出されると同時に左手が振られるのは、脚の動きよりもむしろ、重心を安定させるためだったのです。

そのことは腕を振らずに歩けばわかります。このときにぶれるのは脚の動きではありません。まず腰が安定を欠くのです。

素直な意味で、適切に動く両脚は、適切に動く両腕を抜きには考えられません。ある人の脚の運びが非常にきれいで魅力的に見えるとしたら、その素晴らしさは脚の動きの中にあると同時に、その腕の動きの中にも存在します。

しかし、腕と脚の間に腰の存在がありました。腕の動きが、腰を適切な位置に安定させ、腰が十分に役割を果たしているからこそ、美しい脚の運びが実現するのです。

腰は本当に複雑な関節です。上半身と下半身をつなぐ位置にあり、まさに身体中の力が集中する場所です。双方からかかる動きの流れを受け止め、吸収する役割もします。柔らかく動くことで、力を逃がすアースの役割だって担うことができます。ベクトルを変換できる関節なのです。

「歩く時、腰をうまく使うにはどうすべきか?」 その問いに対する私なりの答えとして、既に、腰を軽く回転させる方法について述べました。ですが、もう少し別の言い方もできるでしょう。

きれいに歩く人を見ていると、彼らは、腰の存在をあまり感じさせないことに気づきます。

不思議なことですが、きちんと使われている腰ほど、その存在をこちらに意識させません。映画や演劇において、優れた音響が、幕開けからラストシーンまでその音楽の存在をことさら観客に気づかせないというのと似ています。

彼らを見ていると、背中からそのまま脚が生えているような感じがしないでしょうか。

それは、腰をきちんと使っていることで、脚の動きの起点が高い位置にあり、適度に回転しながら脚の動きと同調し、協力し合って、その存在感を薄めているからだと言えます。

そしてまた、腰がすべての動きの中心としてしっかりと機能しているからとも言えます。その結果、腰は無駄な動きを見せません。腰が全体的なシルエットを崩さないのです。腰をめぐるエネルギーの複雑な流れは適切に処理、相殺され、その結果として、腰が歩行を阻害していないのです。

□■ 腰の安定が身体をより自由にする

腰を安定した状態に保つ全身の働きは、なにも歩行時に限ったことではありません。人が美しく動こうとする時、身体が無意識に行うことです。ではなぜ、腰のブレをかばおうとするのでしょうか。

その理由を一言で言ってしまえば、重心のブレが身体の自由度を低くするからです。

腰をかばうとはつまり、バランス感覚の作用そのものと言ってもいいかもしれません。優れたスポーツ選手やダンサーの動きに共通しているのは、腰の完璧な安定感です。よく動きながら、かつ無駄に揺れない。

腰がある一定の状態に保たれていること(たとえそのために多少の負担が別の場所にかかるとしても)、ぶれずにいることが、動くことを前提とする身体にとっては最もニュートラルな状態なのです。

一歩先、一瞬先の世界は私たちの身体にとって未知のものです。何が起こるかわかりません。そのような環境に置かれた身体は、本来完璧にリラックスすることなどありえません。そこには目に見えないくらいの微妙な操作が常に必要とされます。対応できる範囲を、その間口を、少しでも広くしておく必要があるのです。

身体の重心として、どのような動きにも対応できる体勢。いつでも腰が動きの中心となれる姿勢。そのような状態であり続けるために、腰はぶれてはならない。おそらく身体はそのことをどこかで知っているのでしょう。人がその能力を十分に発揮するためには、腰が不安定な環境にあってはならないと。だからこそ私たちは安定した身体を目にすると感心してしまうのです。そこに美を感じるのです。読者の身体もきっと無意識にそのことに気づいているはずです。

あとはあなた自身がそのような状態を探り出して、意識化し、維持する感覚を身につけるだけです。

鏡の前で、腰をその空間に固定する、安定させるような動きを試してみれば、その存在の重要さが理解できるでしょう。腰が担っている役割の複雑さが実感できると思います。

パントマイムの、身体のある部分がそこに貼りついてしまったような動きを、腰で行ってみる。
可能な限りその位置や角度を変えないようにしながら手脚を動かすだけでいいのです。

脚首と膝を適切に十分に使って、腰が動いてしまうことを防ぎます。
肩や背骨を柔らかく回転させて、腰をその空間に残すようにします。不自然なくらいに、過剰なまでに執拗に腰の位置を安定させようとするのです。

おそらくこれだけのことで、美しい動きの正体が少しわかるはずです。その、鏡に映る動作自体はさほど美しいものではないでしょう。しかし、試験的な動きの向こうに、きれいな身のこなしのヒントが見えてくるはずです。腰が全身によってコントロールされている動きは美しいのです。

腰を十分に使って歩こうとする意識はとても大事です。しっかりと腰から動きがスタートする身体には勢いがあり、姿勢もきれいに見えます。両脚は、腰によってその動きをコントロールされています。
そして同時に、地面を蹴り、膝や脚首を柔らかく曲げる動作の中で、両脚が腰の位置やバランスを保つのです。

全身を使って、重心のブレを防ぐこと。動作と重心の関連性に敏感になり、各部位と腰との間でやり取りされるエネルギーを上手に相殺すること。

キレイな歩き方はそのようにして実現するのです。



おわりに



長ーい記事もこれでおしまいです。

写真写りの良い人。美しい歩き方をされる人。キレイに膝を曲げて物を拾う人。背骨のカーブや足の開き具合が安定している人。たとえ上司に説教をされていても、そのうなだれた首から肩にかけてのラインが驚くほど魅力的な人。

こういった人たちは皆、自身がどう見えるのかを常に意識しながら生活しているのでしょうか。

決してそうではありません。

彼らは、そしてあなたは、すでに何らかの身体システムを採用して生活しています。自動的で否応のない装置。現在の美醜に関係なく、高度に完成されたシステムが、私たちの身体を制御しています。あなたの癖、現在あなたが変えたいと思い、消してしまいたいと願っている「身のこなし」は、そのシステムが生み出しているのです。

人間の無意識の奥底に存在する身体システム。それはあなたの身体能力の原型とも言えるものです。もし人の動きが100パーセント自由意思によるもので、すべてを把握し、思い通りに操作できたなら、誰も自分の動きの美醜について悩んだりはしない。動作が常に意識的な作業であることは、とても不便で効率が悪いのでしょう。多くは自動操縦のような状態で行われており、その自動操縦時に採用されている深層システムこそが、あなたの身のこなしの原型なのです。

たとえ自動操縦をオフにして手動に切り替えたとしても、なおかつ身体は深層システムの影響を受けます。身体のすべてをあなたの意思で制御することは不可能です。それは無意識を完全に意識化しようとする試みの不毛さと同じだからです。意識し、統制できる範囲はあまりに狭く、また、意識化する作業自体、無意識から切り離すことが困難なのです。原型は原型として細部にまでその影響の根を伸ばしています。

では、その原型となるシステムに直接アクセスすることは可能でしょうか? あなたの身のこなしを決定づけるプログラムを書き換えることは可能でしょうか。何らかの手段を用いて、それを自由に編集することはできるのでしょうか?

残念ながら、無意識に採用している身体システムを、直接あなた自身の手で書き換えることはできません。

そのプログラム・データを引っ張り出し、思い通りに修正を加えることができたらいいのに、そう考えるかもしれません。歩くときはいつも背筋を伸ばす。どんな時でも腰を立たせ、おおらかでスマートな動きをする。肩や首に余計な力を入れずに、バランス良く身体全体を動かす。詳細に図解された「正しい歩き方」をそのままインプットして、実生活に継続的に反映させることができたらどんなに良いでしょう。

しかし、おそらくこういった意識の持ち方こそが間違いのもとなのです。このような考え方の先には、身体の改善を困難にさせる落とし穴のようなものがあります。

書店へ行って身体関係の本を手に取って見るだけで、美しい姿勢で生活するためのコツ、意識の持ち方など、身体を改善させる情報はいくらでも手に入ります。それらにならい、あごを引き、背筋を伸ばし、腰の角度を調整して満足する。これからは重心を低くして、胸を張ってしゃきっと動くぞ、といった決意をする。

これらが効果的であるように見えるのは、身体システムに対して意識的な書き込みが可能だという錯覚があるからです。もしくは身体システムよりも意識の力が勝ると考えているからです。注意すべきことや改善のポイントは単なる知識に過ぎません。知識として得たものをただ意識上にキープするだけで身体が変わるというのは幻想です。

読者の皆様は、このような錯覚から抜け出さなくてはなりません。決意や強い意思だけでは、本質的に身のこなしを美しくすることはできません。新しい情報や意識は、そのままでは、身体システムに対して影響力を持ちません。

たしかに、一時的には、身体に変化をもたらしてくれます。「背筋を伸ばそう」と意識すれば、もちろんその時は背筋が伸びます。しかし、深層の身体システムの中にあるものはもっと経験的なものです。あなたの記憶、嗜好、感覚に密接に関係した非言語的な情報です。動きの感覚そのものをデータとし、痛みや恐れや思い込みが重要な役割を果たすシステムなのです。知識や意思が作る動きとはまったく次元の異なるものです。

身体システムはあなたの身体的な経験、心理的な経験に支えられています。日々の生活や、環境、過去、未来に対する認識の仕方に支えられています。精神的なトラウマから身体的な劣等感をも含めた、あなたの人生の流れそのものが反映されています。一時的な意識の変化は表層を上滑りするだけです。精神的に不安定な状況に置かれたり、身体に気を回す余裕がなくなると、深層にある身体システムがあなたの動きを決定してしまいます。人と話したり、ちょっとした緊張状態に置かれるだけで、情報や意識はまったく役に立たなくなるのです。

身体は非常に複雑なバランスを保っています。部分部分はそれぞれ独立して機能しているわけではありません。つながり合い、支え合い、相互に連携し合って働いています。そういう意味では、腰だけを、背骨のラインだけを変えるなんていうことは不可能な試みなのです。
首の動かし方を本質的に変えることの難しさは、全身のバランスを再構築することの困難さと同じです。

あなたにできることはただ一つしかありません。深層に限りなく近づき、システムを支えるプログラムの中にインプットされること、採用されることを望みながら、より綺麗で美しく、身体的負荷の少ない動きを具体的に提示し続けることです。メリットを最大限効果的に示すことだけです。自らに対して。

動きの中で身体バランスに揺さぶりをかけて、新しいバランス感覚の必要性を意図的に作り出す。いわば、自分の身体に自分でプレゼンテーションをするのです。そこには、もちろん筋肉トレーニングも含まれています。知識の収集もある程度は役に立つでしょう。

この動きは楽だ。この軸は使える。この関節はもっと美しい働きをする可能性がある。

というふうに。

身体に覚え込ませると言った方がイメージしやすいかもしれません。見た目の美しさという「結果」と、身体が知覚する動きの「感覚」、それらを同時に自分の身体システムに提示する。繰り返し繰り返し。

私がここで述べてきた訓練法の内容は、すべてこのような考え方を基盤としています。そして、鏡を使う理由も、まったく同じ身体に対する認識から来ています。筋肉の動きを感じながら、その結果を自分でしっかりと見届けるために鏡を見る。決して、身体をいじくりまわして即席の美しい姿をそこに映すためではありません。深層レベルの身体システムに間接的に働きかけるために、今ここで身体的な、心理的な経験をするために、あなたは鏡の前で身体を動かし、その結果を見届ける。ただただ鏡の前で動き、その結果を「見て、感じる」ことを繰り返すのです。

鏡を使って自分の動きを美しくしようとする試みは、ほとんどの方が行っています。筆者の訓練法がその試みよりも優れている点は、積極的に意図的に鏡の前で読者に「経験」を促すからです。

朝、何気なく鏡の前で身体を動かす。胸の張り具合、脇の開き方、腰の角度、柔軟性、そういったものを一つ一つ確認していくように鏡を見つめる。身体は本当に毎日違います。疲れの残り方も、緊張している箇所も、スムーズに良く動く関節も日々変化します。その、変化し続ける身体に自分を慣らす。変化することは人の身体の本質であり、常にその移りゆく身体を見失わないようにする。自分と身体とは不可分なものだと実感し、今日も自分の身体と共に生きていくことを認識する。この身体で今日も生きていこうと思う。

より良い人生を送るために、身のこなしの美醜は本質的に無関係です。けれど、自分の身体と出会う方法を知っていることや、少しでも良い方向へシフトさせる方法をわかっていること、楽しむ方法を知っていることは、きっと無関係ではありません。

できるかぎりストレスを感じることなく、本質的にそしてより効率的に身体の機能を高める。その役に立てたのなら、と思います。読者が求めたものと、私の文章が少しでも多くの部分で重なり合っていてくれればと思います。

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