99 リスクを取れ!
RONINへの憧れ
かつて、アメリカ人の証券会社経営者から、「おまえはすごいな。RONINだ。自分の足で立っているなんて、大したものだ」と通訳を通して言われたことがある。通訳の人によると、日本語の「浪人(牢人)」は、英語でもRONINで、映画のタイトルにもなっているという。その映画は見ていない。
当時はフリーランスで、その経営者が作りたい書籍の手伝いをなぜかすることになったので、毎日のように会うことになった。フリーランスについては、むしろアメリカの方が進んでいたと私は思っていたのだが、そうでもないらしかった。
RONINには、浪人と牢人の2種類がある。浪人は牢人も含んでいるが、いずれも出生地(本籍地)を離れて暮らす人のことだ。牢人は武士で、主従関係から離れてしまった者のこと。浪人は、他国(本籍地以外の地域)を流浪している者全般。見た目は、浪人も牢人も同じようなものだ。
それはともかく、RONINに憧れている人がいると知って意外だったし、フリーランスを浪人に喩えることも、自分の中にはまったく意識としてなかった。
ニュースでは「無職」とか「自称○○」といった説明をその人物につける。「会社員」とか「教員」といった肩書きに該当するなにかをつけないと「何者であるか」を説明できない。
所属の明らかではない者は「怪しい」のである。つまり怪しさのランキングがあって、容疑者として逮捕された人が、どの程度怪しいかを明示する役割を果たしている。つまり「無職」とか「自称○○」は「怪しさ」を示す。
私は怪しい人物なのである。
リスクを取らないと利益は得られない
虎穴に入らずんば虎児を得ず。リスクを取らないと利益は得られない。そして、無料のランチはない。もしノーリスクのように見えるなにかを得たとしても、実はどこかでリスクを負っているのである。
痛みのない生活、痛みを知らない人生はあり得ない。たとえば渋谷の有名なスクランブル交差点を行き交う人たちを、すくい上げて調べてみれば、みななにかしらの痛みを経験しているだろう。
痛みを減らす、痛みに強くなる、といったことが、近代の人々の生活ではひとつの目標となってきた。私たちは、ずいぶんと痛みを和らげたり遠ざけて生きている。
恐らく、その痛みは、どこかにしわ寄せが行っているはずだが、回避策の複雑さによって、よくわからなくなっている。あるいは、見ないふりをしておけば無視できてしまう。
その意味で、RONINは、痛みの中を生きる。最初に大きなリスクを取ってしまっているから、組織に属している、あるいは肩書きをちゃんと得ている人に比べると痛みを和らげる策が少ない、とも言える。全身麻酔ではなく部分麻酔で手術しているような感じだろうか(違うかな)。あるいは麻酔なしで? いや、そこまで厳しくはない。
もっとも、痛みを和らげる方法を増やしたいがために、組織や肩書きにしがみつくと、それもまた新たな痛みの原因になるので、「会社員」と紹介される人の全員が無痛で生きているわけではないのだ。
取れないリスクは取らない
このnoteは、ときどき小説『ライフタイム』が連載される。それ以外は日々の日記のようなボヤキのような、特別に役に立つことのない話をだいたい2000文字ぐらいで毎日書いている。それは、小説『ライフタイム』を書くために必要なことなのだ。
これまで書いた12話までは、主人公は会社員である。このあと、フリーランスになっていく。実は、この主人公は、とてもいい条件である会社で働くことになる。それがなぜかフリーランスになって、このコラムの冒頭に記した外国人の経営者とは出会うことになる。
どうしてフリーになったのか。RONINになったのか。
その理由は恐らく小説の中で少しは明かせることになりそうだが、たぶん、リスクの取り方を変えるためだったのではないか、と私は思っている。
「このままいくと、取れないリスクを取ることになりそう」と感じた結果、組織から出たのではなかったか?
いったい組織の中で、安定した地位、わかりやすい社会的ポジションにいることで、いつの間にか自分が取らなければならないリスクを増やしていたのかもしれない。それに耐えきれなくなって、組織を出たのだろうか。
今回、こうやって書いているうちに、もう少しはっきりするかと思ったものの、どうもそうもいかないようだ。
少なくとも、取れるリスクと、取れないリスクは、個人差が大きい。主人公は「このリスクは取れない」と感じたきっかけがあったはずで、それを明らかにできるのかどうか。いまはまだわからない。
あ、今日は大晦日である。2023年も数時間後に終わる。小説の続きは来年になるだろう。だが、年が改まった瞬間に、もはやその小説の続きは書かないと決めてしまう可能性もゼロではない。
果たして2024年はどうなるのだろう。