見出し画像

新年を迎えて思うこと。

新年を迎えて思うこと。

人間の命には限りがあり、それは束の間の存在であるのと同じく、ウイルスもまたずっと力を強めていられるわけではないと思う。いずれ弱まる時が来る。

今のところ、1度罹ったら2度目はまずないと言えるし、変異もインフルエンザほどではないこともわかってきている。治療法はほぼ確立し、当初よりも圧倒的に死ににくくなっている。解析も進み、ウイルスの起源を探る工程にまで至ろうとしている。だって、もう1年も経っているのだから。

人はいつか死ぬ。死は怖いからこそ、それを克服し、心配を少しでも軽減すべく、死の意味を問う。そのために宗教を作ったとも言える。しかし、現在では科学技術が発達し、死ぬことは人為的なエラーだと認識するようになった。我々は皆80歳まで生きるべきだ、そうすることができるはずだ、いずれはもっと…と。

しかし、宗教観が違えば死生観も違う。死は受け入れるべきもので、超自然的な現象だから仕方がないとする人たちもいる。日本には少ないかも知れない。ただ、災害などで大量死が発生した場合、それは受け入れなければならない人への罰などではなく、人災だと考える傾向は世界的な傾向だと言える。操作を誤らなければ、冗長性を持たせていれば、さらに上のレベルまで想定していれば死なずに済んだ…そうして誰かのせいにしたがる。

今回のこともそうだ。中国はアメリカのせい、アメリカは中国のせい。防げたはずだと信じる。人間の科学技術を信じ、人はもっと生きられるとする。医療とはそういうものではあるのは確かだ。

何もかも諦めて受け入れた方がいいとは思わないが、生と自由を天秤にかける場合、多くは生を選んでしまうだろうし、仕方がないことだ。だが、権力者はこのタイミングでさまざまな力を行使すべくアクションを起こしている。最初に言ったようにウイルスはいつか気にならなくなるくらいにはなる。存在はするが(しないとする説もあるが)、今ほど人々は恐れなくて良くなる。しかし、一度引き渡してしまった権力や法の書き換えを平時に戻すのは困難になる。

権力者は次の災難のための備えだと言うだろう。しかし、それ以外の場合にも悪用できてしまうことを考えておく必要があると思う。

人は危機を感じる時ほど、頼りになる存在を信じたいし、それにすがるし、色々なことを決めて欲しくて、面倒を見て欲しいと思うものだ。例えば、ある事業者は「融資と言っても、無利子無担保の借金じゃないか!」と憤っていたが、むしろそれを逃すチョイスがあるのだろうか?救ってくれる機会や権力があるのだろうか?融資を受けるのがいやなら事業者になるのは辞めて、被雇用者に戻る方が良いだろう。

大袈裟に思うかもしれないが、歴史は繰り返すのだ。

私は医学は万能であり、科学技術はどんなウイルスをも撃退できるとは考えていない。流行性感染症と人間の関係性は以前と変わりなく、ある程度の人がそれに感染するしか、前に進む方法はないと思う。自分が罹らずに済むかどうかはわからないが、まるっきり多くの人が罹らずに済むことは無理だと思う。だからこそ、重症化しやすい人にフォーカスすべきで、その可能性がかなり薄い人は前に進み続けるべきだと思うし、それは昨春からアピールし続けている。また、世界のベーシックモデルもそこにある。

我々はリアリティのある期待をすべきで、妄想や希望をもとに医師や医療に対して過度な期待を抱くべきではないと思う。それは普段より医療に対して我々の多くが要求しているオーバークオリティであり、それが医療に携わる人への普段からの過剰なストレスとして存在しているだろう。今回の医療危機(らしい事象)にはそれが関係しているはずだと思う。

私は日本国の首相になる人には、こういう事を国民に対して訴えてほしいのだ。あなたにはいくら配ります、あなたはこれをしてはいけません、そんな事は紙を読めば済む。人間として言葉で何かを伝えるからには、その人の思うことや考え方が伝わらないとなんの意味もないと思う。それが国家が国家たる骨子になり、我々がこの感染症に対峙する際に必要なことだ思うが、誰も応えてくれそうにないことが私は大変悲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?