衝突する情熱と狂気の魂のセッション|映画『セッション』
はじめに
久しぶりに胸が熱くなる映画に出逢ってしまった。
アマゾンのプライムビデオで、
常に「あなたが興味ありそうな映画」先頭に何カ月も居座っていたので、
「まぁ、見てみるか……」
と何気なく見はじめた。
それが、
デイミアン・チャゼル監督の『セッション』(原題:Whiplash)だ。
ジャズドラムの練習にすべてを賭ける若者と、彼を追い込む厳格な師匠の物語。この映画は、音楽と人生に対する姿勢が痛いほどひりひりと見せつけてくる。
それなのに、なんか、くじで大当たりを引いたぐらいの満足感がある。
ちょこっとあらすじ
名門音楽大学でジャズ教室の指揮者であり師匠ともいえるフレッチャーを演じたのはJ・K・シモンズ。冷酷で完璧主義者のフレッチャーは、ただの指導者という枠を超えて、まるで悪夢の具現化だ。彼の指導は、肉体的にも精神的にも極限まで生徒を追い込む。その無慈悲さが、主人公のアンドリュー(マイルズ・テラー)の人生を壊しながらも、音楽の頂点に導く。
アンドリューは、優柔不断で気弱な部分を持つ普通の青年。しかし、彼の内に秘めた音楽への執念は、次第にフレッチャーの狂気に共鳴し、追い詰められた果てに彼を変えていく。恋愛もうまくいかないし、友人関係も崩壊していく。ただ一人、彼の部屋に佇むのは、ドラムセットとスティックだけ。音楽だけが彼の人生を埋め尽くす。その心情が痛いほど理解できる人も少なからずいるだろう。
物語の中盤、アンドリューは交通事故に遭うが、血だらけの状態で演奏会場へと向かう。スティックもろくに持てない。それでも、フレッチャーとの「対決」に臨む。こんなことできるのか? 思わず声が出てしまった。
その後、身も心もボロボロになり、ニーマンは学校を去る。
学校を追放されたフレッチャーも、
学校や生徒から糾弾され追放の身となる。
しばらくたって、不遇な境遇の二人は、偶然の再会を果たす。
「今度の週末 ジャズ・フェスに出るんだ」
怒りと執念が限界を超えた最後のセッションへと繋がっていく……。
9分19秒
曲終わりから始まるドラムソロ。
そこから即興演奏に突入するラストシーンは圧巻だ。
ジャズの醍醐味であるインプロビゼーションが、これほど緊張感に満ち、聴く者を圧倒するものだとは。画面に釘付けになり、音に引き込まれ、時間を忘れてしまう。これがセッションだ! という言葉しか出てこない。
音楽の凄まじい力がこのシーンに凝縮されている。
人間の意地と意地のぶつかり合いが、ジャズという枠を超えて純粋なエネルギーとなり、観客に襲いかかる。フレッチャーが見つめるなか、アンドリューはもはや自分を超越した演奏を見せる。狂気じみた音符の連なりに、魂と命が込められているのがわかる。これは単なる「音楽」ではない。震えるほどの恐怖と歓喜の一音一音のスリリングな永遠の一瞬だ。
この映画では、愛や友情がテーマになっているわけではない。家族や友人でもなく、人生の最後まで伴走するのは音楽だ。フレッチャーとの狂気のような師弟関係が物語の骨子だが、最終的に残るのは、音楽そのものだ。
主人公が自我を捨て、ただひたすら音楽に没入するラストの「9分19秒」のシーンはまさに伝説を飛び抜けてもう言葉は要らなくなる。
僕らは、ただ見て、聴いて、感じるままに
一音一音に身をゆだねるほかなくなる。
快感だ。
まとめ
波長は合わない。
が、波形が似てくるのだ。
すると、波紋となってきれいに共震する。
どん底にお互いの境遇は落ちる。
きびすをくるっと返して、それでもステージに立ち、
演奏と指揮者、それぞれのパートを厳格にこなし、かつ逸脱しながら、
さらなる高みを求める姿に打ち震えた。
恋愛でもなく、友情でもなく、家族でもなく、音楽と共に生きることの歓喜と恐怖が交錯する物語だった。自分を超越した瞬間、人はどこに行き着くのだろうか。
この映画が描いたのは、答えのない問いを投げかける、まさに音楽、いや、芸術の極みそのものだ。
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