喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その七
坂本長利(さかもと ながとし)Part.1
1981年11月18日、静岡県湖西市新居町の本果寺本堂において、坂本長利さんの一人芝居「土佐源氏」を上演していただいた。盲目の老乞食が蝋燭のあかりを頼りに、自分の生きざまを語った90分間。新居町で第583回の上演となったこの企画、結局、観客数53名、39,597円の赤字でした。これが、現在、「新居・寄席あつめの会」としてイベント企画を継続させている、出発点となりました。
坂本長利さんは、1929年生まれの新劇役者で、商業演劇の脇役として活動しながら、彼自身のライフワークとして取り組んでいる一人芝居「土佐源氏」の全国公演を続け、当時で公演回数は700回を超えていました。
1980年、私は「土佐源氏」というものに初めて出会いました。その年の6月に、劇書房から「坂本長利『土佐源氏の世界』」という本が出版され、7月にはビクターから「土佐源氏」というレコードが発売されました。これらの二つの作品が私に強烈な印象を与えました。本は一人芝居の台本や制作の経緯、それまでに行われた300回の公演での感想が書かれており、地方の演劇関係者には興味深いものだったでしょう。レコードも同様に、300回公演を記念してビクター関係者の協力で制作された記念盤であり、現在では入手困難なものとなっています。このときの強烈なカルチャーショックを他の人に知らせたくて、当時、浜松市内で月刊ミニコミ誌として発行されていた「あっ!ぷる」に私の「我楽多通信」のページを掲載しました。その内容が浜松市内の演劇関係者の目に留まり、翌年になって何度か話をする機会がありました。そして、5月頃、何としても坂本さんご本人と話をしてみたくなり、劇書房さんに教えてもらいました。仲介者などはいなかったのに、電話で簡単に連絡が取れたことに後で驚きましたが、その時は何も考えずに行動していました。
交渉の結果、1981年10月2日の浜松公演が実現しました。当時、浜松市内には小さな劇場がなかったので、伝手を使って浜松市鍛治町のヤマハホールを確保しました。ところが、公表後にいくつかの問題が起きました。ホール側と私たちの双方が誤解していましたが、消防法の関係で「蝋燭」の使用はできないことがわかりました。それにも関わらず、私たちは「蝋燭」のイメージで宣伝記事を作ってしまいました。新聞に掲載された翌日、ホールの責任者から電話がありました。私はすぐに会いに行って、彼から「乞食を入れるのは困るので、公演をキャンセルしてください」と告げられました。私は新劇の役者として一人芝居をすることを説明し、なんとか許可を得ました。こうしてホール使用はできましたが、「蝋燭」の使用はできませんでした。
準備期間が約三カ月あったこともあり、スタッフの協力で150人ほどの観客を集めることができました。金銭的には黒字となっていたのですが、ホール内の雰囲気、電気照明、どうも自分が抱いてきたイメージと違っていることに気が付いたのです。このままでいいのだろうか?三カ月かけて実現してみたものの感動していない自分になっていたのです。これは、ひょっとしたら違うものではないだろうか?そう思いたつと、終演後の楽屋で、坂本さんにもう一度上演の機会をお願いしてしまいました。ホールで「蝋燭」使用が出来ないならば、使用出来る場所ょ探してみよう!と。準備期間は約3カ月ありましたので、スタッフの協力で約150人の観客を集めることができました。財政的には利益が出ていましたが、会場の雰囲気や照明が自分のイメージと異なっていることに気づきました。これでいいのかな?実現してもあまり感動していない自分になってしまいました。もしかしたら、これは違うものかもしれないと思いました。そう思ったので、終演後の楽屋で坂本さんにもう一度上演の機会をお願いしました。もしホールで「蝋燭」を使用できないなら、他の場所を探してみようと思ったのです。
こうして、翌11月18日に開催できることが決まりました。翌日、冷静に考えると、上演まで残り一カ月半しかありません。まずは、会場を探しました。蝋燭を使えて人々が集まる場所を探したのですが、坂本さんの本にお寺の本堂で上演された記録がありました。お寺の本堂なら、以前に何度か素人寄席で利用したことがある本果寺さんで上演することができるかもしれません。お願いしに行ったところ、当日の夜に檀家の集まりがあると言われました。ただ、他に適当な場所がなかったので、その場にいた檀家の方にも見ていただきたいという条件で20時からの開演を了承してもらいました。ずうずうしくも、当日の宿泊と翌日の朝食もお願いすることにしました。会場の手配ができたので、次は人を集めることです。説明だけではうまく伝えられない、まだ誰も見たことのない「一人芝居」です。そのため、新居駅前の喫茶店の店主やお店の常連客、そして新居町役場で働いている同僚に協力をお願いしました。チラシやチケット、ポスターは以前の浜松公演のものを使って数日で作成し、すぐにスタッフ会議を開催しました。これらの販促物を配布しました。浜松公演で手伝ってくれたスタッフにも事情を話し、チケットの販売や当日の手伝いを頼みました。初めてのイベントを開催するのは難しいものでした。準備期間も十分ではなく、赤字になることは明確でした。経費を抑えるために、電気を使わずに蝋燭の明かりだけで行うようお願いしました。音響機材は私が持っているオープンリールデッキを使用してくださいと頼みました。終演後の打ち上げは、お寺の庫裏を利用させていただくなど、便宜を図らせていただきました。
この日は、こうした貧しい状況が逆に良い結果につながりました。観客の数は53人でしたが、会場はお寺の本堂で、照明は「蝋燭」だけでした。興味を持った人たちが浜松、天竜、袋井、三ケ日、豊橋、豊川から集まってくれました。この日の上演は水曜日の夜8時からでした。実は、10月2日の浜松公演の終わりに、「来月11月18日、蝋燭だけで上演します。都合がつかなかった人や蝋燭の演出を体験したい人はアンケート用紙の余白に『D.M.希望』と書いてください」と口頭で伝え、用紙を回収していたのです。真っ暗な本堂には、見ているだけでは顔の表情がよくわからないような百目蝋燭が2本置かれていました。そんな闇の中で、御詠歌が流れ、川の音が聞こえてきます。本堂の片隅から黒い塊がグニャグニャと動きながら舞台に上がってきました。目が慣れてくると、その黒い塊が、黒ずんだ菰を被った乞食だとわかります。「あんたもよっぽど酔狂者じゃ。乞食の話を聞きに来るとは…」その乞食が菰を取ると、実は本物の乞食ではなく、坂本さんでした。11月18日の本堂は、もちろん暖房はなかったので、寒さに震えながら観客は聞き入りました。会場の雰囲気もとてもいい感じでした。約90分の語りが終わると、乞食の姿は舞台から消えてしまいました。「喜多郎」の音楽が流れている中、蝋燭は既に消え、本堂は再び真っ暗になりました。しばらく待つと、燈がつけられ、メーキャップを落とした坂本さんが立っていました。しばらくは乞食と坂本さんの関係がわからずに困っていた観客たちも、やがて拍手がわき起こりました。坂本さんも満足げな様子で、この芝居や今回の上演の経緯、そして私がプロデュースしたことなどについて、約30分にわたって素の姿で語ってくれました。そして、終演したのは、21時30分を過ぎた頃でした。スタッフに「片付けましょう!」と声をかけてみましたが、誰も動こうとしていませんでした。不思議に思って客席を見ると、お客さんが帰ろうとしていませんでした。おそらく満足してくれたのだと思い、私自身も動くことができませんでした。それでも22時頃には、片付けができました。本堂の隣の庫裏に簡単な宴席を用意し、坂本さんをお呼びすると快く応じてくれました。高級料亭やクラブではなく、手作りのおでんとお酒で楽しんでもらえたようです。約2時間、いろいろなお話を聞くことができました。こうして新居町での「土佐源氏」は終わり、39,597円の赤字が残りました。結局、私と喫茶店のマスターで費用を折半することにしました。これ以上、イベントを企画・開催することはないでしょうと話し合っていました。ところが、その翌月に坂本さんから手紙が届きました。