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復刻版「よせあつめ瓦版・ランダム」その13(95.4.1~4.30)

1995年4月2日(日)

 浜松・シネマウエストで「ガメラ大怪獣空中決戦」を観る。
 前評判どおりに、かつてのガメラ・キッズの大人たちに送られた怪獣映画であった。ストーリーも良かったし、特撮場面も真剣に作られていて、好感が持てた。無理して、シリーズ化を考えなければ、日本映画もこんなに素晴らしい映画がつくれるのだから、シリーズ化など考えないでほしい。キャンペーンではセガールの令嬢を登場させていたが、予想どおりのハズレで、中山忍によって、全体が助けられていたように思う。中山忍は使い方によっては、素晴らしい女優になるかもしれないという予感がした。

「ガメラ 空中大決戦」 海外版のチラシ

1995年4月3日(月)

 「週刊金曜日」の第68号に、ホーキング青山氏が取り上げられていいた。
先天性多発性関節拘縮症で生まれた時から手足が不自由な「障碍者」、ホーキング青山は、大川興行の公演の前座として出演、「障害者ネタ」で賛否両論の評価を受けている芸人である。「笑いで自己解放する方が絶対強くなると私は信じている」という大川総裁の「ぼくは差別には嫌な差別といい差別があると思うんです。もし、お笑いをやりたいと彼が言ったときに『やめとけ、ヤバイから』って言うことは嫌な差別で、『あぁ、いいよ』と土台を固めてやるのがいい差別だと、そう思うんですよ」という言葉に、テレビタレントを拒否した芸人の生き様が感じられて、気に入っている。

1995.3.31 発行 「週刊金曜日」第68号

1995年4月4日(火)

 日本テレビから出版されていた「シャボン玉ホリデー スターダストをもう一度」を読む。
 あの「シャボン玉ホリデー」の11年間を、残されている写真で、ザ・ピーナッツを中心として企画から放送まで克明に綴られている。おそらくは、当時のテレビでは観られなかった世代も、この一冊で完全にイメージできるほど、うまくまとめられている。当時の人気がどれほどのものであったか。例えば、スポンサーの牛乳石鹸は在庫切れで工場のラインを大増設、特急でシェービングクリームを開発し、消費者の要望に応えたとか。
 ちょっといい話を一つ。ハナ肇が闘病中、初めてお粥を食べられるようになった時の話である。もちろん、引退後のピーナッツが病室にかけられた楽屋のれんを潜りながら、「おとっつあん‥、お粥ができたわよ」と持っていったところ、ハナ肇が食べたら病室内で、ワァーッと拍手が起きたということです。

1995年4月5日(水)

 AERAの4月10日号に、昨年6月に師匠の前座名を襲名した桂あやめが取り上げられていた。
 男であれば、三百あると言われる古典落語をそのまま演じれば一応の評価は得られるのに、女ではそうした教科書を使うことは出来ない。そのために、遠回りをしたが、「女やから、女やったら何人でも演じ分けられる。女物の着物で、化粧して、マニキュアしても、違和感は持たれない」という発見から、彼女独自の新作が生まれてきたのである。「あやめにかかれば、男の古典落語はただストーリーを紹介するだけの存在になってしまいかねない」とライバル視しているのは、落語作家の小佐田定雄である

1995年4月8日(土)

 ムーンライトシアター(浜松・東映劇場)で、大島弓子原作の「毎日が夏休み」を観る。
 監督は復活ガメラの金子修介監督である。出社拒否で会社を辞めてしまったお父さん、クラブのホステスとして働き始めたお母さん、そして登校拒否の中学生。父と娘は自宅で「何でも屋」を設立して、社長と専務として現実に向かいます。ヒロインの林海寺スギナ役の新人・佐伯日菜子がまさに漫画のヒロインそのもので、ワクワクさせてくれた。「観ている間中、うれしくて、観終わってからもうれしかった映画」という感想があったが、まさにそのとおり、シアワセな気分になれる映画です。登校拒否とかイジメとか、PTAや教育委員会にはチクチクする場面もあるけれど、これも絶対、中学の映画教室で上映していただきたい作品だと思う。

映画パンフレット

1995年4月10日(月)

 青蛙房から矢野誠一著「芝居歳時記」が出版されていた。
 1988年から93年まで、都民劇場の月報に連載された「劇場歳時記」の単行本化である。落語・俳句・そして芝居と、わかりやすい表現で、名人上手を紹介してくれる矢野氏の四季折々の「芸」の紹介である。
 木下順二作「子午線の祀り」は、「平家物語」に取材した、ダイナミックな叙事詩的なドラマだが、その舞台のナレーションにグレゴリオ暦が登場する。つまり太陽暦である。日本が、このグレゴリオ暦を採用したのは1872年(明治5年)のことで、この年の12月3日を1873年1月1日としたそうである。そのとまどいからか、同じ五月の行事でも、「メーデー」「八十八夜」は晩春で、「子供の日」は初夏の扱いになっている。
 こんなユニークな読み物は、今までなかったように思う。

1995年4月11日(火)

 三一書房から出版されてきた「立川談志独り会」の完結編、第5巻が発行された。立川談志、60歳にして自ら90席の落語を原稿用紙に手書きした談志落語である。もちろん、それぞれの落語もいいが、自らの解説も漫談もあり、昔の名人上手の紹介ありで、これだけで1巻できてしまうような、素晴らしい内容であると思う。少し長くなるが、最終稿の解説を紹介させていただく。
 ‥鎖国であった日本、やがて明治・大正・昭和、そして平成と、その伝統の流れを引きずっているうちに、西洋文明が入って来ちまった。それを文明開化として受け入れた日本人。やがて敗戦。そして日本人の思考・行動まで西洋化・欧風化というアメリカナイズされてしまって、そんな風潮の中で”NO”といえる日本人にならなければいけない‥等とほぞく馬鹿な奴も出て来た。全て世界と一緒に行動するためには、国際人という、ロジカルなものの言い方、論理的に物事を判断できる人間にならなければならない、なんざァ、”呆れ鳥の背中チャン切り”である。日本人を無国籍者にしろ、と言わんばかりの奴等を、世間では知識人、文化人と呼ぶ。阿保かいナ。‥
 なお、5巻収録以外に約80席が持ちネタとして紹介されていたが、こちらもぜひ続けていただきたい。

1995.4.15 発行
「立川談志独り会 第五巻」

1995年4月11日(火)

 講談社のスーパー文庫から、榎本滋民・三田純市編「落語名人大全」が出版されていた。
 また、これまで出版された落語の速記本から安易にまとめた本だと思っていて、購入しなかったのだが(定価は2800円)、どうしてどうして、古本屋でも手に入らない速記本からの収録もされていて、内容の濃い速記本集成である。例えば、江戸落語からは、三遊亭圓朝師「黄金餅」、三代目三遊亭圓馬の「七度狐」、上方落語からは、初代露の五郎の「昆布巻き芝居」、初代桂ざこばの「口入屋」、初代桂小春団治の「深山隠れ」などである。

1995.1.13 発行「落語名人大全」

1995年4月12日(水)

 本年2月に四代目桂文我を襲名した、枝雀門下の雀司が先代文我との個人的な深い交流を通じて知りえた事柄を同郷の寄席芸能研究家である、前田憲司氏と「大阪芸能懇話会」の協力により、初代から現四代目までをまとめた「桂文我」を購入できた。もともと、襲名披露用の配り物として企画されたので、限定1000部。私の番号は974番でした。
 初代・文我は嘉永二年の生まれとあるから、明治の約20年前まで遡っての資料あつめは、どんなにご苦労であったか、関係者に感謝・感謝である。もともと、字が書けなかったり、その芸人が亡くなってしまえば、何も残らない世界である。
 文我落語集として、初代から四代目までの十八番の速記を掲載してくれたのも、文我代々の口調がイメージできた楽しい。

1995.2.25 初版発行 「桂文我」

1995年4月15日(土)

 浜松・中央劇場3で「JM」を観る。
 先月、テリー・ビッソンの原作を角川文庫で読んで、この映画を楽しみにしていたものである。近未来、大量の情報を自分の頭の中に直接収納し、自身で移送して、移送先でそのデータを取り出して回収する「記憶配達人」が出現する。その記憶配達人ジョニーを「スピード」のキアヌ・リーブスが演じ、ジョニーの首を狙うヤクザノ北アメリカ支部長にビートたけしが抜擢され、TAKESHIとしてハリウッド映画のスターになってしまった。当然、日本人英語だが、その存在感・迫力はまさにビッグ・スターであった。主役のキアヌ・リーブスの存在が薄くなって、TAKESHIの映画になっているのである。ストーリー的には好き嫌いがあると思うが、流暢な英語が喋れなくても、これでれスクリーンに座ってしまうTAKESHIには、脱帽でした。

1995年4月16日(日)

 豊橋市駅前文化ホールで、第17回豊橋落語名人会。今回は「古今亭志ん輔独演会」。
 開演時間を30分間違えたため、江戸川金とんさん(元プロ)の「寄合酒」は聞けなかったが、志ん輔師の「片棒」と「試し酒」は、たっぷりと堪能させていただいた。失礼だが、やはり噺家には「落語声」と「間」が必要で、ある年齢と経験を積まないと出てこない要素があることを教えてくれた。これから、いろいろな噺を演じられるであろう師を楽しみにしたい。
 ところで、早めに終演したので、関係者たちと一杯という事になったのだが、近くに空いている店がなく、隣の回転寿司へと入りました。とにかく、乾杯をと、15、6人が店に冷やしてあった瓶ビールを出させて、目の前で回っている寿司には誰も手を出さないという、とんでもない打上げでございました。

第17回  豊橋落語名人会のプログラム

1995年4月20日(木)

 サライ5月4日号で、「江戸の洒落上方の笑い」特集記事。
 この雑誌では、時々、昔のSPレコードや芝居小屋・劇場関係を取り上げてくれるが、全体のバランスを考慮してか、全く何も知らない方用の記事になっている。今回の内容でも、一般論としては全く間違ってはいない。
 ‥言い換えれば、上方落語はどこまでも生活に根ざした直截な笑いを大事にする。その生活感を直には出さず、一度、濾過することで洗練された笑いに変えるのが江戸落語だ。東西の芸人気質も違っていて、不特定多数を相手に出発した辻咄の伝統の上に立つ上方はサービス精神が旺盛で、お客にまんべんなく笑いを振りまく。客の側も「汗をかいて一生懸命にやる芸人」を愛する風が濃厚だ。上方の笑いが、ある種のくどさを持つのはそのためらしい。

1995年4月28日(金)

 アムステルダム行の飛行機がJALで、まだ国内の映画館で観てなかった「フォレスト・ガンプ」を日本語吹き替えで観ることができた。アカデミー賞受賞以来、前売り券は早々に引き上げられるは、今頃、まったく関心の無かった客でいっぱいになっているわで、観るチャンスを逸していたのである。
 原作本も読んでみたし、昨年からのアメリカ国内での便乗商売やフォレストたちへの差別意識問題等も雑誌の記事で読んでいた記憶があった。でも、一番観たいと思ったきっかけは、やはりアカデミー賞の授賞式での制作プロデューサーの謝辞でした。
 全米のフォレストたちやその言動や成功例・失敗例に関心を持って、ドラマとして映画化したいと、俳優や監督やスポンサーたちと交渉していた時に、こう言っていたそうです。「この映画は大ヒットしないかもしれない。赤字を出すかもしれない。でも、この作品に関わったことで、あなた方は良心を提供でき、配偶者や家族に誇ることができるはずである」と。
 まさに、そのとおりの映画であると思います。

 4月16日の豊橋落語会の打上げ二次会で、オウムの空中浮揚の話になりました。確か、全盛期の博多淡海なら、毎日、舞台で2メートルは飛んでいたはずであると。大川興行の「空中浮揚ショー」をご存じだろうか。メンバーの江頭が「超能力」訓練のために、一年分の授業料を払ってヨガ教室に入ったが、すぐ飛べたので三日で卒業、他のメンバーにも教えて、6年ほど前から公演のプログラムに入れているという事である。一度、テレビの生番組に出てもらいたいものである。

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