復刻版「よせあつめ瓦版・ランダム」その7(94.10.1~10.31)
1994年10月3日(月)
大阪芸能懇話会より「藝能懇話」の第八号が届いた。
平成元年に第一号が創刊された。この会誌は、大阪の小屋の藝・座敷の藝の資料の紹介を主目的としているため、かなりマニアックであるが、貴重な資料を掲載してくれるので楽しみにしている。例えば、明治40年2月の上方主要寄席出番表を当時の新聞記事から集約してまとめてくれている。当時の大阪・京都・神戸で活躍する芸人の数が約140名という状況がわかり、それぞれの土地での番組傾向が読み取れておもしろい。
1994年10月4日(火)
シャーリー・クァン(香港)の広東語での日本デビュー・アルバム「ドリーミング・シティ」がポリドールから発売されていた。今まで、香港の人気歌手が日本で紹介される場合は、日本語で日本人作家の曲を歌うというパターンが多かった。とうとうアジア人歌手が現地の言葉で歌っているCDが発売されて、当たり前に聴けるという状況になってきたのが嬉しい。このシャーリー・クァンには、広東語の音と言葉が彼女の声に合っていて(当たり前だが)、世界には、まだまだ素晴らしい歌い手がいるものだと感心させられた。おそらく、日本のマスコミの紹介の仕方次第では、日本人歌手の何人かは廃業せざるをえないほどのインパクトを持っていると思う。産業の空洞化現象は、芸能界にも影響していくかもしれないと、真剣に考えさせられた。
1994年10月8日(土)
正式オープン初日の浜松アクトシティを見学、散策した。実は、浜松駅前開発のコンペで第一生命グループ案で決定した時に、その内容を知りたくて、青年婦人会館のセミナーに強引に参加して、拝聴してから不安に思っていたので、現実の形となった機会を心待ちにしていた。確かに、当時の第一生命グループのプロジェクト最高責任者は、建物を建てて浜松市に渡してしまえば、後はどうなろうと私共には関係ないという意味の発言をされたのが、頭に残っていて、関心を持っていた。
オープンの二週間前くらいから、地元の新聞では誰でも想像していた程度の問題点を取り上げて記事にしていたが、オープン後は、また、記事にしなくなっている。私は浜松市民ではないし、関係者に親戚・友人・知人もいないので、正直に書かせていただくと、問題点が山積みになっているのに、マスコミもミニコミも取り上げていないのは問題ではないでしょうか。静岡新聞社から発行された「アクトシティ物語」では「浜松の人は、プロジェクトか走っているうちに集中力を持たせ、機能を発揮し始めれば需要も広がるはずだと考える。」と分析されているが、そうなんでしょうか。昭和55年に浜松出身の木下恵介氏が発言した「駅前広場には何にも作らないで森にしてしまうのが一番いい。何百坪という土地に樹を植えるところに人間の文化性があり、浜松の文化が生まれる。」という意見に全面的に賛成であった私としては、ハードをつくって市民に与えれば、ソフトは後からついてくるという考え方には、どうしても理解できないのですよ。悪い面も生まれるかもしれないが、関西的な要素を少し受け入れる事によって、希望されるような大都市になっていくと思うのですが、言いたい事が山程あって、支離滅裂なってしまって、すいません。
1994年10月10日(月)
NHKのBS映画劇場で「赤い薔薇ソースの伝説」を観る。
この映画は、昨年12月に一度、浜松のムーンライトシアターで観ている。メキシコのラウラ・エスキバルのベストセラー小説をメキシコを代表する監督・役者たちによって映画化されており、メキシコ映画史上最高の興行記録を樹立した作品である。
三人姉妹の末娘であるティタは、末娘は年老いた母の世話をしなければいけないという家訓のために恋人ペトロとの結婚を許されない。あきらめきれないペドロは、少しでもティタの側にいたいがために姉のロサウラと結婚する。同じ家の中で、母マリア・エレナの監視の下、ティタは彼への愛の言葉を口にすることができず、その熱い想いを得意の料理に込める。すると不思議なことに、彼女が恋心を抱いて料理すれば、それを食べるものがすべて恋におち、悲しみを胸中に秘めて料理すれば、皆が涙した。‥女性が料理を作り、それを愛する人に食べさせるという行為に潜む官能の映像化である。
映画館で観た時も泣いてしまったが、今回もテレビの前で泣いてしまった。ありがとうございました。
1994年10月12日(水)
NHKのBS映画劇場で「王手」を観る。
赤井英和の大阪・新世界を舞台にした大阪三部作の一編であるこの作品は、賭け将棋師の赤井が現役の将棋名人に挑戦して破るという、現代の坂田三吉物語である。ところが、コテコテの大阪人をうまくワキに固め、燃え尽きようとしていた若山富三郎、写っているだけで存在感のある麿赤児、今や赤井映画では楽しみとなっている笑福亭松之助などの超個性派俳優を相手に、本当に存在感のある役者として頑張っている。この作品も浜松のムーンライトシアターで、悪い状態のフィルムで観た記憶がある。
赤井英和は、東京制作のドラマよりもコテコテの大阪もんの方が絶対にニンに合っていると思う。個人的に二本立の映画会をプロデュースできたら、山田洋次監督の「学校」と赤井英和のデビュー作「どついたんねん」にしようと、ずっと前から決めている。
今晩もありがとうございました。NHKはん。
1994年10月15日(土)
浜松福祉文化会館で、「週刊金曜日創刊一周年記念」として「椎名誠講演会」を聴く。(氏は、編集委員の一人)
これは誇ってもいいと思いますが、私は「週刊金曜日」をテスト版の「月刊金曜日」時代から定期購読しています。そして、この日、編集部の報告でわかったことは、浜松地区(県西部)での定期購読者は199名ということでした。人によって、この数字の評価は異なると思いますが、私は極端に少ないと思います。それから、この時点では、谷島屋書店では扱っておりませんでした。アクト・シティで浮かれている人達は、冷静にこの状況を理解してほしいと思います。
さて、講演会の内容ですが、ほとんどが、購読者以外という状況で、仕方のなかった事だと思いますが、氏の「旅」、「映画」に関する内容でした。ただ、新幹線での禁煙席と喫煙席が同一車両にある状況、頑張っているだろう中年のおじさんたちが電車の中で「少年チャンピオン」を見ている状況に対しての怒りには共感するものがありました。
少しでもしたいと申し出、販促のチラシを28日の「本果寺寄席」で配布させていただいた。
1994年10月18日(火)
NHK総合テレビの「人間マップ」に関西芸術座の新屋英子(しんやえいこ)さんが出演されていた。
新屋さんは、在日朝鮮人のひとり語り・ひとり芝居「身世打鈴(シンセタリョン)」を20年以上演じ続けている方です。実は、私が「寄席あつめの会」を始めたのは、ひとり芝居の坂本長利さんとの出合いがきっかけなんですが、しばらく、ひとり芝居を探しては観ていた時期がありました。10年位前、名古屋市内で新屋さんのひとり芝居を観て感激し、終演後に押しかけて「寄席あつめの会」への出演交渉をしていました。その後、冷静に考えて、テーマがあまりにも重く、真実味がありすぎるという自分勝手な理由で無期延期にしてしまいました。解放出版社から1000回上演達成記念誌が発行され、その台本も掲載されているので、興味のある方は読んでいただきたいのだが、80歳になるオモニの身の上話である。簡単に言えば、日本の植民地時代に渡日を余儀なくされ、故郷の父母は悲痛のあまり亡くなり、夫は原爆で死ぬ。こうした時代の「在日」苦闘話である。当時、ご本人からも、誤解を受けやすいからホンマに大丈夫になったら声かけてね、と言われた言葉が重荷になってしまっている。
1994年10月28日(金)
第32回の「本果寺寄席」。どういうわけか、今月、来月はお忙しそうで(失礼)、春風亭鯉昇師匠の休日は、それぞれ二日しかないとのことで、久しぶりの金曜寄席となりました。
あいにくと5時頃から降り出して、開場の6時半頃には最悪の雨になってしまい、師匠も駅でタクシーが遅れ、ぎりぎりの楽屋入りとなってしまいました。それでも、当夜のお客様は45名、感謝・感謝でございます。
私が「矢橋船」、鯉昇「犬の目」「へっつい幽霊」という演目で、107席目となりました。
それでは、第2号でお約束した、前回の打上げ時の内緒話の公開です。もう時効?になりましたが、実は宮内庁の亀甲占いの女官さまより9月6日は関東大震災のお告げが出ていたんだそうです。岐阜県内に皇族の別荘が建てられたり、9月上旬は東京都内からは疎開するようスケジュールが組まれていたりと、かなり信ぴょう性のある話として伝わっていたそうです。現実には、房総から伊豆までの関東で2回体感地震がありましたから、本当だったということで、女官さまもお役にたったんだそうです。実は、鯉昇師匠は9月3日から7日まで浜松の実家に疎開をしておりましたとさ‥。
1994年10月29日(土)
ユニセフの全国大会が浜松のアクト・ホールで開催され、記念講演として平山郁夫画伯が来浜された。関係者にお願いして入場させていただいた。
講演の内容は、以前にNHKのBS放送でアンコール・ワット遺跡の前から明け方まで生放送していた時に語られた、文化遺産の修復の話であった。
講演後に、各地でのユニセフに協力している若い人達の紹介と報告があったが、本当に頭が下がってしまう行為である。
個人的に、東京の国立博物館で見たアンコール・ワットの遺跡の一部に感動し、平山画伯のライフ・ワーク(アンコール・ワットの修復)にも感ずるものがあるので、「寄席あつめの会」として、いくらかでも寄付できるよう頑張っていこうと思っている。
1994年10月29日(土)
講演会でいい気持ちにしていただいた後で、欽ちゃんの舞台挨拶でもっと温かい気持ちにさせてくれた。浜松松菱劇場で上映中の「シネマジャック2」に来演、15分の予定が1時間15分に延びてしまい、映画会なんだか、トーク・ショーなんだか、わからなくなってしまった。
欽ちゃんファミリーが協力して、採算を度外視して制作した作品もあるのだろうが、一つ言えることは、映画ってホントは15分とか20分で伝えられるテーマぐらいで制作していけばいいんじゃないか、ということです。何十億円も注ぎ込んで、最新のSFXを使って疑似体験させることも映画の魅力の一つですが、こういう作品がもっともっと作られるべきだと、‥特に日本映画は、必要ではないでしょうか。
1994年10月31日(金)
発売三か月で早くも六刷、話題が話題を呼んでいる、魚柄仁之助著「うおつか流台所リストラ術」「うおつか流清貧の食卓」(農文協)をやっと入手、読んでみた。
氏は、家庭料理の質的向上を目指す食生活研究家だが、「今時の主婦、手抜き、工夫知らず説」を完全に否定する立場にたっている。意識的に、加工食品をすべて排除した、三年間の「食改善実験」を自ら実践し、「食の組立」という選択肢をたくさん提供してくれる。
「普通の材料をうまく、かつ健康的に調理するにはどうしたらよいか」、疑問に思っていた人には、まさにバイブルとなるでしょう。
この二冊は、絶対に、絶対にお勧めです。もし、私が家庭科の教師なら、絶対に副読本にして、男女どちらにも読ませます。
今まで、立ち読みでも目にしたことのなかった雑誌を買ってしまった。マガジンハウスから発行されている「鳩よ」11月号である。特集として「竹中直人の映画至上主義」が目についたからである。ところが、別ページに中村吉右衛門へのインタビュー記事が掲載されていた。
舞台でとちった時に共演者に出す”とちり蕎麦”の慣習は、女性に掛け声を掛けられた時に出したのが起源であるという。昔は、女性は滅多なことでは客席から声を掛けるものではなかった。そういう中で、やむにやまれず、抑え切れずに掛けてしまった場合、その役者が仲間から冷やかされて蕎麦をおごらされた、というのが始まりらしい。
一つ、ちょっとした話で、得をしたようです。