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喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その一

喜六家清八(きろくや せいはち)
 私は、1976年から1994年の間、浜松市内で大きな落語会の主催者のお手伝いをしていました。もう29年から47年前ですから、当時の名人たち、六代目三遊亭圓生、八代目林家正蔵、五代目柳家小さん、十代目金原亭馬生、二代目桂小南、十代目桂文治、五代目三遊亭圓楽、八代目橘家圓蔵、古今亭志ん朝、立川談志、五代目春風亭柳昇、桂歌丸、三遊亭圓窓、柳家小三治、桂米朝、桂枝雀、笑福亭仁鶴、‥ご承知のように、すでに故人となっています。浜松駅と会場との送迎、会場の設営・片付け、楽屋でのお相手、軽食の用意、打上げ場所の確保、ホテルの手配、客入れ時のチケットもぎり、チラシ配布、手拭いやCD・書籍などのグッズ販売、出囃子のテープ担当、客席へのご案内、何でもやっていました。この期間は、私にとって非常に楽しい経験でした。しかし、こうした名人たちが亡くなられた後の「空虚感」を何度も経験し、次の名人を探したり、浜松のお客様に紹介して客数を増やすための期間も経験しました。正直言って、次の名人が現れるまで時間がかかり、東京・大阪で話題になっても、浜松ではうまくいかなかったことも多々ありました。お若い頃の桂文珍師匠、立川志の輔師匠でも集客は難しかったです。

第一回えんしゅう寄席
第四回えんしゅう寄席

西武CITY8

 同時代、私は当時の西武百貨店・浜松店の8階ホールで1981年から1993年までプロデューサーの一人としても活動していました。春風亭愛橋(現・鯉昇師匠)さんとお仲間と一緒に「西武CITY8寄席」というイベントを開催しました。このイベントは1982年1月2日から1993年1月10日までの間、合計64回も開催されました。当時の落語協会や落語芸術協会に所属している二ツ目の皆さんは、ほぼ全員が出演していただきました。浜松市の百貨店では夜間のホール開催が困難でしたので、寄席も含めて昼間に開催されました。集客を考えると、土・日・祝日の午後からというタイミングで開催されました。

 雅落語会

 この西武百貨店と関わる前の1974年、浜松市内の信愛学園(現在の浜松学芸高校)には落語研究会がありました。当時は、落研ブームだったのですが、女子高校に誕生したのは珍しかったようです。とはいえ、新任教師が作り上げた同好会で、学校側やPTAのお母さま方からは批判を受けながら活動していたようです。当時、私は浜松市内のアマチュア噺家集団「楽天会」に入会し、月に一度の例会や老人会、婦人会での小遣い稼ぎをしていました。私だけが学生だったので、時間の余裕があり、文化祭への応援出演や指導など、いろいろな理由で同校に出入りしていました。ある日、先生から、友人がプロの噺家になったと聞かされました。その噺家は浜松出身で、明治大学農学部に進学し、園芸ではなく演芸の世界に入ったそうです。それまで静岡県西部地方出身の噺家は出ていなかったので、とても興味を持ちました。そして、翌1975年に先生から手紙が届きました。その噺家が浜松市内で勉強会を開くので、ぜひ聞きに来てほしいという依頼でした。当初、この会は静岡市出身の柳亭楽輔さんと始められ、"柳若・楽輔勉強会"と名乗っていました。柳若は瀧川鯉昇師匠の前座名で、春風亭柳若という名前でした。師匠は八代目春風亭小柳枝師匠でした。2回目からは名前を"雅落語会"と改め、年に2、3回、夏と冬にペースを合わせて続けました。会場は浜松市の元遠州病院の裏手にある田町稲荷の境内にある田町公会堂でした。暖房も冷房もなく、あまり上手ではない(失礼ですが)噺と暑さや寒さに耐えるため、同級生も少しずつ参加しなくなっていきました。しばらくして会員募集をし、会員証を発行することになりました。私は申し込んで会員第1号の会員証を手に入れ、喜んでいました。しかし後に真相が判明しました。発行された会員証は一枚だけでした。今では幻の会員証として私の手元にあります。

雅落語会 瀧川鯉昇師匠と柳亭楽輔師匠

 1981年の6月頃、西武百貨店浜松店内に小ホールが作られるという情報が入りました。当時、私は浜松市内のミニコミ誌「月刊あっ!ぷる」の取材・編集の手伝いをしていました。コラムも担当していました。たぶん、ここからの情報でした。椅子席で100人、スタンディングで150人収容可能な、音響・照明設備が整ったイベントホールのようでした。当時の販売促進課の担当者から連絡があり、ホールのオープン後のイベント企画の相談をしてほしいという依頼でした。しかも、新居町まで出かけるから、会って詳しく話をしたいとのことでした。早速お会いして話を伺うと、かなり設備は充実していることがわかりました。

1981年9月 CITY8オープン
1982年1月 CITY8の予定

 実は、1977年から80年にかけて、私はお金と時間があれば大阪に通っていました。当時の花月や角座、トップホットシアターなどの劇場に行ったり、古本を探したり、「上方芸能」編集部さんが企画してくれた「上方芸能ゼミナール」にも定期的に通っていました。この時の会場は、大阪・梅田の阪急ファイブの8階にある「オレンジルーム」でした。このホールは300人収容可能で、毎日コンサート、演劇、寄席、映画、講演会など、様々なイベントを低料金で開催してくれていました。そのため、私はオレンジルームのイベント資料をたくさん持っていましたので、西武百貨店の担当者に見せることができました。浜松周辺の若者がこんなに多様なジャンルの資料を豊富に持っていることに驚かれた様子が伺えました。そして、しばらくこの仕事を手伝って欲しいと正式に依頼されたのですが、私は1977年4月から88年3月まで、地方公務員として合併前の新居町役場職員でした。当時は副業禁止だったため、お断りしましたが、土・日・祭日のみボランティアとして手伝うことにしました。結局、浜松店の閉店まで11年間手伝うことになりました。 

CITY8 オープン時のパンフ
CITY8クローズ時のはがき

 こうした経緯から実現したのが、1982年1月2日の「初笑いCITY8寄席」でした。鯉昇師匠と相談して、「雅落語会」のお仲間である柳亭楽輔さん、林家時蔵さん、そして真打の桂文朝師匠にお願いをしました。出演料の都合で、私も出演させていただき、口上と前座噺で失礼を致しました。携帯電話もネットもHPも無い時代でした。一企業がパトロンとなって運営していた状況だけに、なかなか周知も難しかったのですが、他に類似イベントが現れない中、続けることが出来ました。

春風亭愛橋(瀧川鯉昇)

新居・寄席あつめの会

 その年の9月から、私は新居町内で「寄席あつめの会」というイベント企画集団をつくり、「土佐源氏」という坂本長利氏の一人芝居を企画していました。第1回目の企画は芝居でしたが、グループ名の寄席を企画してみたいという思いもありました。このグループ名は、大阪に若手の噺家や講談師たちが集まる勉強会グループがあり、「グループ寄席あつめ」と名乗って、地域の寄席活動を始められていました。当時、そのメンバーの2、3人と親交があり、許可を得てその名前を使わせていただきました。当時27歳の私は、これまでの経験から、将来、名人になるであろう才能のある若手噺家の寄席を企画・開催したいと考えていました。そこで、当時の二ツ目の噺家である春風亭愛橋さん(現在は瀧川鯉昇師匠として活躍)に相談しました。彼は当時28歳でした。3回目のシティ8寄席の時に、新居のお寺でも寄席を開催できないかと相談してみました。彼の答えは、「日程は一ヶ月前までは決まらないことが多いが、それでも可能かな?」というものでした。木戸銭はなるべく安くし、勉強会の形式で開催することで合意しました。こうして実現したのが、1982年10月30日に開催された「第1回本果寺寄席」です。そして、それから41年後の2023年11月26日には、「第97回本果寺寄席 瀧川鯉昇の会」として開催され、大入り満員の成功を収めました。

第一回本果寺寄席のチラシ
第97回本果寺寄席のチラシ



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