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復刻版「贋作・ひとりごと」No.4

遠文連ニュース「はぴねす」No.202(1984.8.10発行)より

 「スリラー」って、ありますね。一世を風靡したM・ジャクソンのじゃなくて、この季節になるとテレビや週刊誌で必ずとりあげられる例のアレです。もっとも今では「オカルト物」なんて呼ばれていますが‥。「怪談」って呼ばれていた時代もありました。時代によって、流行りすたりがあるみたいですが、恐怖感っていうのは、人類がこの地球上に誕生してから、そんなに変わっていないんだそうですね。ただ、情的な要素が時代によって変わってきましたから、体験させないとわからないことも多いわけです。それじゃ体験しなければしないで、それでいいようなものですが、それでは人類の進歩と調和はないわけですね。かといって、どちらかというと好きくはないわけですが、日常生活に突然入ってこられても困ります。そこで、ある特定の場所とか、時間、季節を設けて体験させているんだそうです。ですから、時々、キャーとかワァーとか言うて、「あァー、こわー、あァー、こわー、‥もう一度見よか‥」という、この程度で充分なんやそうです。
 ところで、幽霊はんはこの世に恨みつらみを残しているから現れるんだと言い伝えられてきましたが、それなら現代には何故もっとたくさん現れないんでしょうか。きっと、恨みつらみの相手が大きすぎたり、抽象的だったりして、通用しないのでしょうかね。

遠文連ニュース「はぴねす」No.203(1984.9.10発行)より

 暑かった夏もようやく終焉を迎えようとしています。避暑地での生活を思い出しながら、財布の中身に落胆している今日この頃です。これから、おそらく秋という季節がやってまいります。JAPANという国は良い国で、必ず、春・夏・秋・冬とか春・冬・春・冬とはなりませんね。これから科学が発達しますと、この季節の調節が可能になるんやそうです。そうしますと、一年中春秋の気候とか、例えば九州を冬にして、北海道を夏にするとかも可能になるんです。するとどうなるかというと、まず観光業者が目をつけますな。土地を買い占めまして、熱帯地区とかツンドラ地帯を造ってしまうわけです。始めの内は、「おもろいやないか」てな事を言うてますが、これも日常化してきますと災難が持ちあがってまいります。進化論の法則に従いまして、それぞれの地区の人種が誕生してまいります。元々、同じ人種、同じ風習、同じ言葉であったのが、分化してしまうわけですね。
 そうしますと、やはり良い条件の土地を求めたり、その機会を奪おうと戦が始まります。やがて、核戦争によって振り出しに戻ってしまうという‥‥
熱帯夜の夢でございました。(スタートレックの見過ぎで、清八版・ジェネシス計画でした)

遠文連ニュース「はぴねす」No.204(1984.10.10発行)より

 演劇のプロデュースに係わって3年程になるでしょうか。最近、プロデュースしたのは地元の劇団なのですが、稽古に立ち会ったり、演出を考えたりしているうちに効果音という問題にぶつかりました。これが「今」の内容なら解決もしたのですが、「SF」の世界だったのです。既成の音ではどうしてもイメージが違ってしまうため、結局、今回は効果音無しでお客様の創造に頼るという、半面、情けない状況になってしまったのです。この時の教訓というか、教えられた事なんですが現在好むと好まざるにかかわらず、様々な音が耳に飛び込んできます。だけど、そうした音の中からその状況にぴったりする音をみつけるのは、そうしたプロの方は別でしょうけれども、流行る音とか、売れる音というのは、確かに多くの人に好まれる音ではあるけれども、その人その人には必ずしもベターではないんじゃないかということです。モア・ベターな音というのは、その人の生活を通じて見つけるぐらい難しいのではないでしょうか。
「環境音楽」というジャンルができているんだそうです。ウィンダム・ヒル・レーベルのコピーが発祥だと思いますが、インストゥルメンタルで四季とか天候のイメージを演奏するんだそうです。一種の効果音かもしれませんが、おもしろいもんですよ。

遠文連ニュース「はぴねす」 No.202  203  204

遠文連ニュース「はぴねす」No.205(1984.11.10発行)より

 「情」という概念があります。「風情」「なさけ」「愛情」‥いろいろと、感じ方があります。非常に抽象的で難しいのですが、これがおわかりになっている方とおわかりになってない方では、甚だしい差が生じているのではないでしょうか。いつの頃からか、高度成長経済のヒズミが生じ、量から質への転換が叫ばれ、情的な教育、しつけといった形の無いモノが個人の気持ちとは裏腹に行われてまいりました。この急展開が、社会に対して、おんぶにダッコしたり、行政にバックボーンを求めるとか、安易に流されてしまったのではないでしょうか。その影響が個々に現れてきているんだと考えてみて下さい。所詮、田舎だからとか、イベント数が少ないとか言うてごまかしている方には、きっとそれだけの報いがやってまいります。
 ある江戸っ子(東京人)の発言ですが、都会人と地方人をもっと区別させろと言って、物議をかもしたことがありました。おわかりになっている方とおわかりになってない方を区別(差別ではありません)して、それぞれのエリアで生活していった方が、お互いの幸せのためによりベターなのではないでしょうか。社会やマスコミのうわっつらだけの平等論では、努力した方が逆に「出る釘」にされてしまっていると思うのです。‥文部大臣の所信表明演説の原稿にどうでしょうか‥‥

遠文連ニュース「はぴねす」No.206(1984.12.10発行)より

 トレンチコートの衿をたてて、北風から身を守りながら、歩いていても誰も振り向いてくれないけれど、とっても気持ちのいい季節になりました。陽の沈むのか急に早くなって、夜の時間が長くなっていく、そんな感が好きになってきたからです。考えたら、夜型人間になっているだけなのですが、例えば、テレビの無い時間‥、貴方でしたら、どうして過ごしますか。いろいろな事ができるような気がしませんんか。
 12月も中旬になると、もう次の年の話題に移行していきます。私の場合、年賀状に悩まされるのです。こちらから出す枚数が100枚を超したのは、いつ頃だったのか忘れましたが、とにかく、毎年増えていきますから、宛名書きが12月の行事となっているのです。
 虚礼であるとか、一年に一度の葉書なら出さないわうがいいという否定的なご意見もございますが、それでも頂いたらうれしいのではないでしょうかか。一年に一度かもしれないけれど、自分の存在をアッピールできる機会だと思うのです。一年がかりで図案やコピーを考えたり、自分で版木を彫ったりすることが楽しい環境に自分を置けるようにしたいのです。
 今年も「清八おじちゃん」のしょうもないエッセイにお付き合い頂きまして、ありがとうございました。来年も貴方にとって、良い年でありますように‥‥。 

遠文連ニュース「はぴねす」 No.205  206  207

遠文連ニュース「はぴねす」No.207(1985.1.10発行)より

 1985年になりました。あけましておめでとうございます。今年はどちらでお正月を迎えられましたか。私事ですが(いつもそうですけど)、昨年末に環境の変化といいましょうか、ふたり口になりまして、あわただしい毎日が続いております。ひとり口の時より、さらに僻地にひっこんでしまったので、都会のネオン・サインに縁のない生活をしております。さらに、電話とテレビが無くて、どれだけの情報生活ができるかという、実験生活でもあります。数ヶ月の経験から、中間報告をしますと別にどうということは無いわけですね。というのは、情報源というのは、無数にあるわけでして、その気になればテレビ以上の情報は、もっと速く、、もっと的確に、もっと大量に手に入れることが可能な訳です。こうしていて困ることというのは、NHK教育さんの舞台中継とか、字幕スーパーのノーカット映画を見れないことなんです。でも、周囲にご迷惑をかけながら、この生活をしばらく続けようかなと思っています。
 今まで何回も偉そうな事を書いてきましたが、感性という抽象的なしろものは、都会に暮らしているから豊かになるとか、マスコミが身近にあるから通ににっていくというものではないと考えるんです。こうした自分勝手な考えを実証するためにも、今年はこうした生活パターンでいこうと思います。



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