喜六庵の「あくびの稽古」にお付き合い下さい その四
広沢瓢右衛門(ひろさわ ひょうえもん)
広沢瓢右衛門という浪曲師の名前を覚えていますか。もし、覚えているとしたら、かなりの博覧強記の方か、浪曲が好きな方に違いありません。1897年に生まれ、大阪出身の浪曲師であり、1990年に他界されましたが、その声はレコードやYoutubeに残っています。私は、この瓢衛門おじいちゃんと1982年8月25日に一緒に共演しました。
瓢右衛門さんの存在を知ったのは、1975年頃だったと思います。当時、大阪の朝日放送で「和朗亭」という、桂米朝さん司会の寄席番組がありました。テレビ局のスタジオに、明治・大正・昭和の寄席のセットを組んで、昔の芸人さんたちを探し出し、芸を演じていただくという、なかなか視聴率を取りにくい番組だったと思います。客席は畳敷で、お茶子さん、下足番、お囃子も用意されていました。なお、舞台の正面上部の「和朗亭」額は、薬師寺の当時の高田好胤管主の書でした。出演者は、二代目一輪亭花咲さんの二輪加、京山幸枝若師と中田ダイマル・ラケットコンビによる節劇、山崎正三・都家文路の夫婦コンビによる阿保陀羅経、柳家三亀坊さんによる寄席の紙芝居など、これまで本で読んだり見たりしたことしかなかった芸能をテレビで見ることができました。当時はビデオ装置は高価で所有していませんでしたが、いくつかのオープンリールで音声のみを録音した記憶がありますので、私のコレクションの中にあるかもしれません。
その出演者の一人が広沢瓢右衛門さんでした。この番組では「雪月花三人娘」という面白い浪曲を聴かせてくれました。それまで、浪曲・浪花節といえば、「忠君愛国」とか「軍事物」「任侠物」といったイメージを抱いていた私にとって、この落語のような浪曲は驚きでした。この番組以降、桂米朝さんとの二人会、小沢昭一・永六輔さんたちの東京公演が続き、メディアや東京の芸能界でも話題になっていきます。それも80歳を過ぎてからなのです。この頃、東京・紀伊国屋ホール、渋谷のジャンジャンを若者で超満員にしていたのです。私自身は、1979年8月12日になって、やっと、お得意の「乃木伝」を聴くことが出来ました。これは、当時、大阪市梅田にあった阪急ファイブの「オレンジルーム」で月一回開催されていた「上方芸能ゼミナール」で企画してくれたからです。 瓢右衛門さんの芸人生活で最も輝いた時期は、おそらく1979年から1982年ではなかったと思います。昔ながらの浪曲や老人芸能の内容では、いくら面白くても若い世代には響かないものです。私やマスコミも、瓢右衛門さんと彼ののんびりとしたキャラクターに魅了されたのだと思います。古いものは、ただし、それを知らない世代にとっては新しい存在なのです。しかも、その古い芸人さんが、時代の動きを敏感に捉えて新しいギャグを連発してくれました。この「笑い」をたっぷりと盛り込んだ瓢右衛門の芸風は、当時一番注目された芸能でした。
さて、ご一緒させていただいたのは、1982年8月25日のことです。その当時、私は浜松市内の音楽鑑賞団体である遠州文化連盟のスタッフとして、寄席部門「えんしゅう寄席」の企画を担当していました。興行業界では、「二・八」月は入りが悪いと言われていました。しかし、第25回の開催日程は8月下旬しか空いていなかったのです。そこで、赤字が予想されるなら、今までに企画したことのない芸人さんを呼ぶことになりました。私はそこで「広沢瓢右衛門独演会」を提案し、企画会議で採用されました。しかし、事務局主任も誰も手ずるを持っていなかったのです。そこで、交渉方法を考えていると、思い出したのが「上方芸能ゼミナール」を主宰されていた「上方芸能編集室」でした。早速電話をかけると、桂米朝さんが保護者的な存在だということがわかりましたが、特定のプロダクションに所属していないため、個人的に話をすることができる可能性がありました。連絡先を教えていただけましたので、早速電話をしてみると、電話で話すことはできないので、家まで来てほしいとのことでした。私が浜松市から連絡していることを伝えると、「それでは手紙を出してほしい」と言われ、住所を教えていただきました。私たちの希望を手紙に書いて送ると、約5日後に返事がありました。浜松への来訪は以前にもあったので、引き受けてもいいということでした。赤字になっても構わないか?という内容の返事でしたが、お金の心配はさせないと言って、お願いすることにしました。私としては、ご高齢であることも考慮し、若手の噺家を用意して一席お願いすることにしていました。ところが、瓢右衛門さんからは、赤字になるのが明らかだからとても無理はしなくていい、私一人で構わないという返事をいただきました。それで、二席と対談の形にしようと提案しました。相手はまだ決まっていませんが、と言うと「あんたはん、やっとくんなはるか」ということになり、これで決定しました。
東京や大阪と比べると、浜松ではチケットの売れ行きはあまり良くありませんでした。開催当日、私が浜松駅まで迎えに行きました。瓢右衛門さんは私の車に乗り込んで、「おたく、こんな若いのに、ようこんな仕事ができますな。土地の親分はんと、何ともおまへんのか?」と言いました。私は当時28歳でした。どうやら、彼は「遠州文化連盟」という鑑賞団体のことがよくわかっていなかったようです。車の中で、全く初めての私のご依頼に、すぐにお手紙で了解をいただけた理由を伺いました。「あなたのお手紙の字がきれいで、わかりやすく、これは信用出来る!感じたんです。」と言われ、嬉しかったことを思い出しました。さて、この時の会場は、現在は解体されてしまった浜松市民会館の隣にあった児童会館でした。楽屋に案内して、久々の浜松ですね、と尋ねると、彼は昭和5年以来だと言いました。当時は、東海道を歩いて興行をしていたんだとか。さあ、鰻重を食べて休憩が終わり、開演時間になりました。私が簡単に紹介して退場し、瓢右衛門さんが40分ほど「太閤記」を語ってくださいました。その後、私が登場して対談が始まりました。事前に用意した質問は、静岡県に関連するもので、興味を持ってもらえると思いました。清水の次郎長について伺いました。以前、本で読んだことがあるのですが、現在の次郎長像は明治時代のフィクションで、浪花節によって全国的に広まったそうです。森町の方には申し訳ありませんが、「森の石松」もフィクションだという説もあります。瓢右衛門さんの答えもまったく同じでした。初代の広沢虎造が作り上げ、まるで本当のことのように語られていたそうです。それから、昭和5年当時の浜松周辺の寄席や演芸場のことも話していただけました。
対談の後は、もう一時間ほど経ってから始められたのですが、30分ほどで舞台を降りてしまったんです。演題は「征韓論」でした。「やっぱり、あきまへんなぁ」と、頭をかいていました。こうして終演したのは、20時10分頃でした。開演は18時30分でした。予約しておいた帰りの新幹線の時間までには1時間ほどありました。当夜のスタッフと一緒にお茶でもと誘って、女性スタッフ数人とお話ししました。それから駅までお送りしましたが、その車中で「おたく、よろしいなぁ。若いおなごはんに囲まれて、不自由しまへんやろ」と言われました。まだ、興行関係の人間だと思われていたようです。
数日後、手紙が届きました。浜松公演について桂米朝さんと話した際、ギャラが念頭に過剰だったことや、内容が失礼だったことについて叱られたと書かれていました。米朝さんとの話の中で、初めて遠州文化連盟について理解が深まったようでした。ギャラを返却する申し出がありましたが、事務局の了承を得てお断りしました。実際には、30万円近い赤字が発生していましたが、当日の約150人のお客様は満足されており、50年ぶりの浜松への訪問であった広沢瓢右衛門さんへのおじいちゃん孝行の一環として、それは決定しました。半年後、健康上の理由で入院した瓢右衛門さんはすぐに退院し、のんびりとした生活を送りました。たった一晩の交流でしたが、当時いただいた手紙と色紙の一枚が手元に残っています。貴重な体験をさせていただき、忘れられない思い出です。
今年に入り、Youtubeで1989年に放送された「枝雀寄席」を視聴しましたが、その回のゲストは広沢瓢右衛門さんでした。見ていて、懐かしくなり、いろいろなことを思い出しました。