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復刻版「よせあつめ瓦版・ランダム」その8(94.11.1~11.30)

1994年11月2日(水)

 「上方芸能119号」が届いた。今回の特集は、創立80周年を迎えた「宝塚歌劇」であったが、立命館大学の安斎育郎教授の「霊感を科学する」で、タカツカ・ヒカル氏を取り上げていた。今年の7月に対談した時の印象を次のように書いている。
 「ともあれ、この広告会社のサラリーマンは、自分でもよく分からない『ヒーリング・パワー』なるものを拠り所に世間を煙に巻き、一方では『タカツカ・ヒカル手かざしヒーリング・パワー教教祖』を演出しつつも、他方の心の片隅では、不条理なことに身を染めていることへの若干の後ろめたさを宿しつつ、『超能力』批判者のポーズもちらつかせて退路もちゃんと確保しながら、処世の術を繰っている一風変わった中年おじさんのように見えた。今に、『イヤー、冗談冗談』なんて言い出しそうな、何となくそんな気がする人物だった。」
 なお、28日に発売された「Bart」では、少し意味合いは違うものの「廃業宣言」をしている。

「上方芸能」 第119号の表紙

1994年11月3日(木)

 「マネー・ジャパン」の12月号に、桂米朝師匠への60分インタビューが掲載されていた。
 「こないだもあるパーティで、私がタバコくわえたらコンパニオンがマッチつけてくれたんです。ところが、マッチ擦って、こうもって来る前に全部火が消えてしまうんですわ。そやから、君、マッチ擦ったことないんやろって。マッチは軸に炎が燃え移ってから動かさなんだら、消えるの当たり前やって言うたら、あぁそうですかって。そんなんがコンパニオンになってんのやからね。‥‥たとえばいまの春団治、彼の噺はどれもこれも磨きあげた完成品ですけど、私らその中でも「いかけ屋」がいちばんええなと思てた。ところが、数年前からちっともやらんようになつた。いっぺん聞かしてえな、と彼にいうたら、客がいかけ屋いうものを知らんからウケへん、というんですわ。なるほどなぁと思たけど、客にわかるように噺を変えることは冒涜であるというような考え方ですね。」

1994年11月8日(火)

 藤本義一著「けったいな人たち」(双葉社)を読む。
 「週刊大衆」に、掲載されていたオモロイ人物50人を収録した日本異人伝である。六代目笑福亭松鶴師匠について、こんなエピソードを載せている。
 喧嘩に絶対勝つ方法として、「ヤクザに絡まれたら、土下座して頭を先ず下げます。そいで、向こうが近付いて来たら、両腕を相手の両足首を抱くようにして、パッと立ちますのや。どんな男でも仰向けに倒れますで。ゴーンと後頭を打ちますな。死によった時は死によった時だすな。しかし、目撃者の証言集めたら、正当防衛になります。もうひとつは、相手に聞こえんような小声でぶつぶついうて、相手が近付くと手招きして、相手の耳に口を当てて、出来るかぎりの大声で、アホ、といいますのや。どんな大男でも三半規管がズレて、鼓膜が破れて倒れてしまいます。

1994年11月14日(月)

 朝日新聞・大阪本社社会部編の「ごめんやすおおさか弁」がリバティ書房から単行本になっていた。
 関西国際空港が実体化した頃、関西のある企業で、関西弁を禁止したり、南海電車が車内放送や構内放送から一掃しようとした時期があった。この新聞社では91年10月から93年12月まで、「わたしと大阪弁」というテーマで、大阪弁のエッセイを掲載していたそうである。今回、出版の編集をしたのが名古屋の出版社というのもおもしろい。
 わかぎえふさんの好きな関西弁のひとつに「遠慮のかたまり」がある。「大阪では食べ物がひとつだけ残ると、『遠慮のかたまり食べてしまいなさい』と母親たちに言われて食べてしまう。これは考えてみれば、いかにも始末を尊んだ商人の街の習慣らしい。始末とケチは違うとだれかが言っていたが、私はこの始末の極意を表したような言葉が大好きだ。‥ここはひとつ食糧難の二十一世紀にむけて、ぜひ、標準語に加えるべきだと思う。」
 「遠慮のかたまり」、私は好きですから、使っていきまっせ。

1994年11月16日(水)

 NHK出版から発行されていた、横澤彪氏の「犬も歩けばプロデューサー」を読む。
 大阪漫才を「MANZAI」として全国展開したり、「笑っていいとも」「オレたちひょうきん族」などのプロデューサーとして、関東エリアでは「お笑い仕掛人」と呼ばれているらしい。ビートたけしにかなりのページを費やしているが、少しヨイショの部分はあるものの、かなり読ませてくれる内容である。「たとえばオイラが機関士だとして、客が超満員で乗っているとするじゃない(要するに、人気があるということのたけし流の表現)、だけどオイラはこのまま安全運転で走っていくという気がないんだ。あるときがきたら、自分だけ汽車から降りて別の汽車に乗り換えるのさ。客は誰もいなくてもいいんだ。だつて、また客を乗っければいいんだから」‥最近の再活動の状況をみると、これだけではんいでしょうか。
 「笑いの変革者たち」のコーナーでは、林家三平・萩本欽一・ビートたけしの三人を分析しているが、後世に残る内容であると思う。

1994年11月18日(金)

 浜松ムーンライトシアターで、「青いパパイヤの香り」を観る。ベトナム生まれ、フランス在住のトラン・アン・ユン監督31歳の時の作品である。
 人生を投げ出してしまったような父親と、ささやかな布地屋を営みながら家計を支える母親。そして、祖母と三人の息子。傾き始めたそんな旧家に、10歳の少女がやってくる。長年この家で働いてきた家政婦の助手として、監督の母親を通して見たベトナム女性の姿、そしてこれから変わっていくであろう新しいベトナム女性までも描こうとしていた。映像表現としての照明には、小津作品を、夏目漱石や川端康成の文学も取り込んだ、実に東洋人の映画を完成させているといえる。フランス植民地時代、ベトナム戦争時、そして今日の復興期、さまざまな思いをわきあがらせてくれた。この映画も全国の中学の映画教室で鑑賞させてほしい。また、政治家・公務員は研修の名目でもいいから、絶対このアジア映画も観ておくべきである。
「青いパパイヤは、男の皿に盛られ、食べられる為に供される。しかし、それは、女によってもがれ、洗われ、皮を剥かれ、調理される。」
 世界は広く、才能を持った人材もたくさんいるものだと、今回も感心させられた。

1994年11月19日(土)

 豊橋三愛寄席の特別例会で「林家正雀独演会」。
 駒久家南朝(耳鼻科医師)さんの十八番「幇間耳」に続いて、「紀州」「文違い」「紙屑屋」の三席と、中入り前には「深川」の踊りまでサービスしてくれた。
 9年前に、「蒲郡落語を聴く会」で聴いた時は、非常にカタイ感じがあり、三席では肩が凝ってくるなぁ、と感じていたが、丸みがでて、少しフラも身についたようで、将来が楽しみな噺家の一人といえよう。二席目の「文違い」では、マクラなしで、いきなり登場人物の会話から始まり、客席もとまどっていたようだが、この地味な噺を最後まで引き付けておいたのは、さすがにプロの実力であると感心させられた。

第16回豊橋落語名人会「林家正雀独演会」 チラシとチケット

1994年11月21日(月)

 浜松市内・有楽街の居酒屋「とし平」での落語会が20回目を迎え、記念例会として、レギュラーの鯉昇師匠が桂平治さんと三味線のお姉さんと出演した。
 鯉昇の個人的な付き合いから始められたこの会は、居酒屋だけにお客さんは当然、飲食を楽しんでいるが、開演中はストップという店主からのお約束を全員が死守し、落語を聴いているだけに決してバカにできない地域寄席といえよう。
 当夜の演目は、平治「尻餅」、鯉昇「胴切り」の二席でした。なお、手前味噌ですが、「胴切り」は9年前に「本果寺寄席」で、私が話していたのを楽屋で聴いていて覚えた、ということになっています。

1994年11月22日(火)

 松本人志著「遺書」(朝日新聞社発行)を読む。
 「週刊朝日」に、93年7月から94年7月まで掲載されていたエッセイの単行本である。ダウンタウンの松本は、確かに東京のテレビ・マスコミとケンカしているし、ビートたけしと同じレベルにいる芸人であると思う。連載中から訳の分からない一部の読者から批判が続出していたそうであるが、その方々は、今回、全編通して読んでいただきたい。誤解を解いていただけると思う。おそらくは、この一編がいちはばん理解しやすいのでは‥。
「昔、年寄りの先輩漫才師に『あんたらは、若いもんにウケても、年寄りにはウケへん。わしらは若いもんにはウケへんけど、年寄りにはウケる。同じことや。』と言われたことがあったが、ハッキリ言って、それは違う思う。あの人たちは若い客にウケたくてもウケないのである。オレは年寄りにウケようと思えば、できないことはない。笑いのレベルを落とせばいいのだ。それが嫌だから、あえてしないだけだ。カール・ルイスは、速く走ることもできるが、歩くこともできるのだ。ただ、オレは、走り続けるけどね。」

1994年11月24日(木)

 浜松アクトシティオープン記念事業から、大ホールで国立ポーランドバレエシアター(ニジンスキー記念舞踊団初来日記念公演)を観る。
 第二部のショパンの「レ・シルフィード」はピアノ音楽のバレエで、回転技のような華やかな技巧は少なかったが、重さを感じさせない跳躍、緊張と緩和状態の間の取り方など基本のバレエを観せてくれたようで、退屈させなかった。
 話が前後するが、第一部では「ロミオとジュリエット」「カルメン」「ゾルバ」「アンダンテ」など比較的イメージしやすい作品を集めた小品集で、創作バレエとしての表現の豊富さを堪能させてくれた。
 直接、関係ないことのようだが、休憩を30分もとって、ワインやビールを販売するのなら、ポーランド・ワインとかヨーロッパのビールを販売するよう手配してほしかった。

1994年11月25日(金)

 金曜ロードショー(日本テレビ系列)で、山田洋次監督の「学校」を観る。
 テレビでは、三回目の放映になると思うのだが、今回は殆どノーカット放映ということで、また、観てしまった。映画館で観た時には、オモニ役の新屋英子さんとか、少し遅れている役のプロジェクト・ナビの神戸浩さんをよく掴めなかったので、テレビ放映を待っていた。改めて、よくこれだけの人材を集めて制作できたことのスゴさに感心してしまった。教育関係者は、タテマエのドラマだよ、と言うかもしれないが、こうした作品を定期的に制作し、上映することの必要性を充分認識していると思う。日教組の定期大会でも分会でもいいから、毎年、鑑賞会をプログラムに組み入れるべきだし、中学校の映画教室で取り上げてもらいたい。

1994年11月126日(土)

 浜松アクトシティオープン記念事業から、中ホールでの国立ワルシャワフィルハーモニー管弦楽団演奏会を聴く。
 「フィガロの結婚・序曲」と90年ショパン・コンクール優勝者ケヴイン・コナー氏を迎えての「ピアノ協奏曲第1番ホ短調・作品11」。そして、ベートーヴェンの「英雄」で締めくくられた。それぞれの作品は音楽の授業を含めて、何処かで耳にしていたため、やはり演奏の見事さに拍手、拍手の連続であった。
 これも、この演奏会とは直接関係ないと思うが、大・中ホールそれぞれで客になってみた感想は、途中入退場者のマナーが悪すぎるということです。これは、どんな作品や、どんなアーチストを登場させても同じことなので、汚点にならなければよいのですが。それから、クラシックやオペラにこだわるなら、別に演劇専用ホール、ロック・ポピュラー専用ホール、演歌・歌謡曲専用ホールまで用意すべきではなかったかと、ご意見をさしあげたい。

「ショパンフェスティバル'94」のパンフレット表紙

 次回の「本果寺寄席」では、「東京かわら版20周年記念増刊号」を先着30名様にプレゼントできるよう準備中です。お楽しみに。


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