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[散乱文章]その五

雲が目の前を通り過ぎる。普段よりも近くに見えるそれは、分厚いガラスの向こうを優雅に泳いでいた。

高さ600m以上。ほとんど神の領域とも言える場所で、たくさんの人間が蠢いている。
「まるで、バベルの塔ね」
眼下の景色に目を輝かせながら、彼女は不遜にもそんなことを言った。
世界でも有数の電波塔は、観光名所として国内外から人が押し寄せている。
「神の怒りに触れて崩れ去るなんて、僕はごめんだな」
少し顔を顰め、彼女の楽しそうな横顔に向けて言う。一瞬だけキョトンとしたあと、彼女は唇の端を歪め、先程よりも妖しい笑顔になった。
「そうならないように、せいぜいきちんと生きてみせなさいな」
今度は、ね。という言葉が胸に深く突き刺さる。

彼女、と便宜上呼んでいるが、実は性別はないという。その存在は、天使だと名乗った。
一度目の人生を、自死という形で終えた僕の前に、彼女は現れて言った。
「あなたは神の怒りに触れる行いをした。けれども、慈悲深い神はあなたに炎の鉄槌を下す前に、もう一度、機会を与えてくださる」
そんなわけで、僕は今、二度目の人生を送っている。ちなみに、僕の今の年齢は一歳半。彼女に向けた言葉は、ほかの人にはただ「あうあう」という声にしか聞こえていない。そして、彼女の姿は僕にしか見えていない。
「人間はこんなにも面白いのだから、君も存分に楽しみたまえ」
そういたずらっぽく笑って、彼女は分厚いガラスをするりと通り抜けてみせる。
ちょうど陽光が彼女の姿に重なり、眩しさに声をあげれば、今生の母親に当たる女性が、ベビーカーのひさしを下ろしてくれた。

[散乱文章]その五「バベルの塔」

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