みんなが忙しい毎日の中で。

 自分が大学生の時にメインで入っていたサークルの他に点字サークルに入っていました。この点字サークル(同じ部屋の手話サークルも)には、設立した大学の先生の意向で点字サークルだから点字だけではなく、手話サークルだから手話だけでなく、視覚障害(盲)、聴覚障害(聾唖)、視覚・聴覚の重複障害(盲ろう)、身体障害、知的障害すべての人と付き合っていこうと言うコンセプトがありました。

 始まりは90年代の少し前くらいで、大学の一般教養のゼミとして「手話セミナー」「指点字セミナー」と言うものを開講し、外部から上記の様々な障害者の方を毎回たくさん招き、終わったらみんなで飲み食いをして交流をしていたそうです。

 ここで、時代背景をキチンと知っていないとピンとこないのではないかと思うのですが、この頃はボランティアと言う言葉や概念が一般的ではなく、バリアフリーやQOLと言う言葉もない。階段ばかりでスロープはない。車椅子で電車に乗ろうとしても、階段を上がる為に周りの人に助けをお願いしてもなかなか手伝ってもらえない。点字ブロックは放置自転車で一杯だし、お店では周りの客の目を気にして店員さんに嫌な顔をされることがあったり、障害を持っている家族には世間体が悪いからと外に出歩かせてもらえない。そんな感じの世間だったと言うことを強くイメージする必要があります。

 それをふまえると一般の国立の総合大学で教育系ではない学部の先生が全学部向けに上記のようなセミナーをするのは、普通ではありえない特殊なことでした。外部から障害のある人に参加してもらって、とサラッと書きましたが、ボランティアも公的支援もないので迎えに行ったり、送ったりも自分達が段取りしなければ来れない人がたくさんいました。スマホもないので電話、ファックス、手紙でやりとりする。手紙にはもちろん点字のものもあり、これはコピー出来ないので、人数分手打ちしていました。

 少し話がそれますが、こういう交流の場所での自己紹介はちょっと変わっています。まず、視覚・聴覚の重複障害の方がいるので、普通の名前と所属だけの自己紹介では、性別、年齢、容姿などが相手に伝わらない。なので、その情報が追加されます。見えず、片耳の聴力が少しだけある人には隣にいる人が自己紹介を大声で中継します。「…、中肉中背あたまのハゲたおっさんで…」大声で繰り返します。「…、中肉中背……ッあたまの…ハゲたおっさんで…」ちょっと躊躇しますよね。自己紹介でなくても本来見えていたら、わかることは正解に伝える必要があるので、聞かれたり、必要があればそのまま伝えます。この時に美人かどうか、太っているか、その他の印象も正確に伝えないと後日教わった人はその情報を元に発言するので、美人ではない人に美人って聞きましたよとかズレた発言をしてしまう原因になります。そのままを伝えるのです。

 話は戻って、その後、主催していた大学の先生が退官されて、点字サークルと手話サークルが後を引き取って、勉強会の後に交流会をするというのを何年かやって、(自分がサークルに入ったのはこの頃)最終的には飲み会のみの交流会になりました。

 それから、15年くらいの時間の中でサークルでの人と人の関わり方が変わってきました。徐々にゆっくりと楽で楽しい方に傾いていきます。サークルの中で自分たちだけで楽しみたいとか交流なしで手話だけを学びたいとか段々そう言った人の割合が増えてきました。

(自分にとっては思うところがたくさんありますが、一部の学生と会う機会が頻繁にあっても、卒業生なので運営には口出しできません。口出しするとただでさえ板挟みな人が更につらくなるからで、たいていは話を聞くだけです。)

 そうこうするうちに、聴覚障害の人の目の前で手話を使わずに相手の愚痴や文句、馬鹿にした発言を言ったりする学生に居合わせました。居合わせた自分はその発言をそのまま相手に手話で伝えます。伝えられた学生は、びっくりしてましたが、かなり年上の自分には文句を言えないと言った感じでした。もちろん、波風を立てないようにやんわりと学生に伝えることも選択肢です。ですが、その場で見たり聞いたりしただろうと言うことはそのまま伝えるが基本で、ゆずりたくありません。怒ったり許したり我慢したり悲しんだりは、言われた本人のものなので、やはり伝えるべきだと自分は思っています。

 こういうことがたまにあるのに前後して、サークルの中で障害者の方の要望に対して、大変だなと思ったときに真正面から向き合わずに、「それは俺が処理しておくよ。」とか「あの人は仕方ないから、無視すればよい。」とか「聞き流しておけばよい。」とか何か真正面から向き合わずに上手くやろうと言う流れができてきました。相手と直接話したり、怒ったりすることはありません。そうすると、今までいなかったはずの「困った人達」って枠組みが急にできたのです。

 断っておきますが、運営している人はなんとか一生懸命やりたいと思っていても、みんなが忙しくなり手伝ってもらえず、大変と思ったらサークルに来る人が少なくなる、苦しい中でのことで別に責めようと思っているわけではありません。真正面から向き合う時間も余裕もなかったのです。

 でも、「困った人達」と言う枠組みが、なんとなく本人の目の前で悪口を言っても許される(相手は聞こえないし)、そして、周りの人も強く非難できないと言うことになってしまったんじゃないかなと思ったのです。

 これに関連して、最近思うことがいくつかあります。

 ひとつは、「発達障害」と言う言葉です。自閉症、ADHDなど色々メディアに取り上げられて、教育に関係のないひとでも言葉とイメージはよく知っています。でも、これは生きて生活している全員がレベル感はそれぞれで何かしらの傾向があると言えるものです。でも、一度診断名がつくと(素人が勝手に言っているものも含めて)、急にみんな安心して「困った人達」枠に入れている気がするのです。そして、きちんと相手に向き合うことから開放されているように自分には見えます。診断がされることで、理不尽に親の責任にされていた誤解が減ったのはとても良かったと思いますが、自分はこの分類がほんとに大嫌いです。

 ふたつ目は時間です。最近は、ほんとに便利になった影響でみんな忙しいです。プライベートの予定を一日に何個も詰め込むのは、スマホや携帯なしにはできないことです。そして、会って会話する時間が格段に減りました。(もちろん、私は違うって人もいると思います)でも、付き合う人の数が増えて、自分が他人と思いを直接ぶつけ合う対象と人数と時間は減っていませんか?

 最近、相手を誉めたり、肯定したりすることが良いと特に言われます。自分は、これが特に大事になった理由は便利になって時間がなくなったからと言うことがかなり大きいのではないかと思っています。限られた時間の中では、誤解を解く時間もありませんし、自分がどれだけ真剣に向き合っているかもなかなか伝わりません。相手に初めからポジティブに受け取ってもらう必要があります。思ったことをそのまま口にしてしまう自分は頑張って直さなくてはいけないと最近特に思っていますが、でも、否定しない注意しないに気を付けすぎると「困った人達」枠を作るなかに自分がいつの間にか入っていないか、とても不安になります。ゆずりたくない部分は、絶対にゆずりたくありませんが、自分にはよくわからない価値観はなるべく棚上げしてゆっくり考えることにしました。新しい考え方を思考錯誤して受け入れていきながらも、自分のまわりの人にきちんと向き合いながら付き合っていけたらと思っています。

 さて、話は戻って15年くらい続いた交流会も幹事をする学生がいなくなり、今年度で終わります。寂しくもありますが、ひとつの区切りなのかなと思っています。

※15、6年前に自分のHPで点字や視覚障害について書いていた文章をアップしています。拙い文章ですが、興味があったら是非ごらんください。
点字にまつわるエトセトラ 

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