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これはただのひとりごとです

帰国してもう2週間が過ぎた。
海の向こう側アメリカから、生まれ育った国日本へ。
砂漠の真ん中にある小さなまちRenoから、日本の真ん中東京へ。
30分バスに揺られて通っていたUNRから、1時間満員電車に乗って通う東京の大学へ。

そうか、2週間前、私はあの地にいたのか。
もうなんだか遠い昔のことのような気がする。

土地が変われば暮らしも変わるわけで、私の生活はガラッと変わった。
でも、うんとこしょって重い腰を持ち上げて慣らしていったわけでも、
逆カルチャーショックみたいに驚きながらなじんでいったわけでもなくて、
まるでこの5カ月がなかったかのように、すんなりと生活が始まった。
とはいえところどころに感覚が残っていて、
今日は遠目にみたハトをリスとかんちがいした。

東京の日常はせわしなくて、いつも時間に追われている。
そこらじゅうに情報があふれていて、目も耳も抱えきれていない。
最初は「おかえり」ってあたたかく迎え入れてくれたのに、
今や「ほらがんばって!」とぐいぐい背中を押されている。

そうか、これが東京だった。
なんかちょっとつかれたな。

Renoにいた5か月間、私は毎日かかさず日記をつけていた。
大学でのちょっとした空き時間、寝る前のひとりの時間、
そんなときにノートやスマホに文字を残していく。
気づくと時間が過ぎていて、ノートのページは埋まっていて、
ちいさなアカウントのInstagramの投稿はいっぱいになっていて。
毎日がだいすきだった。

東京での生活が再開して、2週間。
一度も日記をつけていない。そんな余裕もない。
いや余裕はつくるものなのかもしれないけど、
余裕を作ろうという気力もわいてこなかった。
毎日を、がんばって、生きている。
すきなのかな?わかんない。

最近ちょっとずつ将来のことを考えることが増えてきて、
いやもともと考えてはいたはずなんだけど
もっと現実味をもって考えるようになってきて、
こんなことがしたいなって思っていたことがあったような気がするのに
東京に帰ってきたら頭のどこかに隠れてしまった。
その程度のものだったのかな、それ。
目の前のことに追われたら忘れちゃうくらいのものだったのかな。
それとも、東京というまちが持つ力が強すぎるのかな。

こころで感じて生きていくのが得意だと思っていた。
実際、帰ってきてからやっていることは自分の好きなことばかり。
でも、なんか、ちょっと、ちがうきがする。

もう社会に出ていくことを考えないといけない歳なのに、
あまりにもいまの感情や目の前の「すき」に飛びつきすぎているきがする。
そしてそれは、現実からの逃げのようなきがする。
やらないといけないことが増えるほど、癒しを求めて「すき」に逃げる。
あまりにも建設的じゃない。
そうしてこの文章も、逃げるように書いているわけです。

東京での日常になじめているようで、きっとなじめていない。
でも、わかんないや。
むかし、がんばっている人が、
「みんなどんどん楽な方に流れて行っちゃうからね」
とつぶやいているのを聞いた。
それもひとりじゃなかった。たくさんの人が言っていた。
私も楽な方に流れようとしているだけなのかな。

頑張っていきていかなきゃいけないのはなんでなんだろう。
そりゃいままでたくさん支援してもらったことはわかってる。
だからその恩返しをしないといけないこともわかってる。
でもいまのわたしはそれだけじゃ踏ん張れない。
うーん、なにからはじめたらいいんだろう。

ぴんとしたわたしと、ふにゃふにゃなわたし。
きっとみんなどちらもいるものだと思うのだけれど、
最近はふにゃふにゃなことが多すぎてちょっと困る。
そのわたしもすきだから別にいいのだけれど、
東京に立ち向かうにはよわすぎる。

本を読むのも、映画を観るのも、音楽を聴くのも、文章を書くのも、
風の心地よい晴れた日の空の下、しばふに寝っ転がっておひるねをするような感じがして、こころの内側がゆたかになっていいのだけれど、
ちょっとずつ、今のうんと先のことも考えながら地図を描くことを始めないとね。それでゆっくり起き上がって歩き出すんだ。
飛び起きて走ろうったってすぐ息切れしちゃうから
ゆっくり起きて、伸びをして、いっぽ一歩あるいていく。
どうせ気づいたら競歩の人生、それくらいの心構えでいないとね。

また、日記をはじめてみようかな。どれくらい続くかな。

東京と、なかよくなれますように。

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