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004. あたらしい自分との関わり方


少し前、姉が結納代わりの食事会をすると沖縄に帰ってきたとき
ネイリストの彼女は嬉々としてジェルネイルを施してくれた。

けれど、爪は伸びる。

そしてジェルネイルは簡単に落とせない。

わたしは結構な面倒くさがりなので、
昨日
もう殆ど引っ剥がすようにして、取れかけたそれを落とした。


とりあえず な感じで一旦実家に戻っている。


どこで仕事をすることが多いかを見定めてから暮らす場所を選びたいなと思って
ここ最近はWi-Fiを求めてスタバを彷徨っている。

よく行くこのお店では
「あれ?沖縄帰ってきたんですか?わー!おかえりなさい!」
と歓迎してもらえて カップに「BIG Wellcome♡」
なんて書いてもらえたと言うのに
その店員さんの名前をわたしは覚えていない。


人に会うのは好きだけれど
嬉しすぎて、つい自分のエネルギー配分を見誤ってしまう。
お別れした後はいつもヘトヘトだ。



最近はじめたブログは
有り難いことにいろんな人に「また読めるの楽しみにしてるね」と声をかけてもらえるのだけれど、もう早速2回もちゃんと更新できていない。
(ありがとうございます。気楽に読んでやってください。)


音楽や本の趣味や身体の相性がとても良く合って
たまに料理を作り合っていた恋人のような人は
わたしが沖縄に帰ってきてからLINEの既読がつかなくなった。




「すいませーん、席で見られるメニューってないですかー?」

「あ、もう僕出るんでここよかったら座ってくださいねー」

「お姉さん、おばぁちゃんがコーヒーこぼしたみたいなんで拭いてあげてくださいー」

店内ではいろんな会話が聞こえてきて
特段、誰もそれを気にかけてはいない。


好きだな。と思う。

適度な関心と無関心さが入り交じる距離感。


丁寧に生きたい。とか、ちゃんと生きたい。とか
会った人に喜んでもらえる時間を過ごしたい。なんて思っていたけれど

結構うまくいかないことばっかりだ。



でも、不思議なことに
「見栄を張って生きる」ようなことから距離を取ってからは

なんだかんだいって自分のことが嫌いじゃなくなってきた。



わたしには得手不得手があって
好きな人はたくさんいるけれど、苦手な人もいる。


「こうあるべき」とか「何を持って生きるか」とか「指針」みたいなものにも縛られて生きていたけれど



爪先がガッサガサなわたしも
毎日更新ちゃんとできないわたしも
名前を覚えられないわたしも
すぐ人を信じて疲弊するわたしも

ま、いっか。と思えるようになってきた。


それはきっと「ありのままを受け入れる」
ともまた少し違う
新しい「ゆるし方」を覚えたからなんじゃないかなと思う。


不思議な場所です、沖縄。


帰ってきてから、ぐっすりと眠っている。
三食食べて
家族や友達とか、誰かと毎日損得抜きの会話を楽しんで
明日の予定にわくわくしている。

横浜でそれができなかった訳ではないのかもしれないけれど
無意識に「できている」ことが
わたしをこんなにも肯定してくれるとは思いもしなかった。


なんにも成せていなくても
それを逃げとも言い訳とも言われないし、思わない。

今に見てろよ、とも思わない自分がすごく健やかですきだ。

使い古された言葉を使わずとも
無理に言語化しなくとも
自分のすきな自分で、それをゆるせたらいいんじゃないかと思えるようになったよ。 よかったね、わたし。


向き合う、とも
寄り添う、とも違う
新しい自分との関わり方が見えた今日は
なんだか自分がちょっと誇らしいです。

今日も会いに来てくださってありがとうございます。

それではきっと またあした。

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