006.たしかなもの
昨夜は沖縄で知り合った友人の送別会で
いつもの珈琲屋さんに行った。
彼女はご家族の都合で名古屋に戻るのだけれど(写真とは別の友だち)
不思議と全然さよならな気がしないので
「今日もおいしかったね、しあわせだったね。またねー」と言って別れた。
(事実明日はその友人が声をかけてくれた合コンに一緒に参加する。)
名古屋に戻る彼女について
好きなところを書き出すと3記事分くらいできそうなのでそれはまたの機会に譲るとして
昨日ふと思った
大事にしたいな、と思うことについてちょっと書いてみようと思う。
わたしにはなんとなく
「絶対」という単語のように
あまり使わないようになった言葉や
意識しないようにした気持ちがあるのだけれど
そんなふうに
その言葉を使うことを「避ける」っていう行為は
端的に言えば
身を守るためなんだろうなと昨夜思った。
「絶対だ」と思うことは簡単だし
そう決めてしまえばもう対象への思考から離れることができるから
楽なんだけれども
強い言葉は強さがある分
放った途端に、対象への執着が始まったりもする。
わたしで言うと、本当に身勝手なもので
自分で勝手に信じて、揺るぎないものだと勝手に期待したくせに
期待と違ったからだなんて
それこそ「勝手に」しょんぼりしたりする。
場合によっては「裏切られた。。。」なんていう気持ちになったりもしてしまう。
うん。ずるいなあ。笑
そんなこともあって
いつからかわたしは、(「だからこそ」なのだけれど)
意識のなかに「たしかなもの」を置かないようにした。
だってひとは変わるし、物は壊れるし、期待しないほうが楽だから。
そう思っていたはずだったのに
昨夜ふと、
「わたしにとってのたしかなものがある場所が、ここなんです」
と、件の珈琲屋さんで
自然と口に出していた。
なんだか少し、こそばゆかったけれど。
なんというか、伝えたくてたまらない気持ちになって
お酒も飲んでいないのに言ってしまったのです。
「勝手に、なんですけど、わたしにとっての揺るぎないもの、なんです」
店主さんと奥さまは「ありがたいね〜」と微笑んでくれたのだけれど
言った後に珍しくちょっと照れくさくなってしまった。
変わらずに在ることが、いかに尊いか。
無意識に在ることが、どれほど難しいことか。
30代になったわたしは
20代の頃よりも少し強めに感じることができるようになった。
勝手に好きになって
勝手に通って
勝手に愛を語って
勝手に幸せな気持ちにさせてもらっているけれど
そういうわたしにとっても「たしかなもの」であるその存在を
勝手に大切にしていたいなと思ったのであります。
ゆうぞうさん、いつもありがとう。
(名前出すんかい。笑)
歳を重ねて、手放すことや、執着しないことへの意識が
変わってきなあ。
今日も会いに来てくださってありがとうございます。
小さな気付きのなかに
揺るぎない信念の種があったりするね。
実りの季節に
恵みを差し出せる自分になれていたらいいな。
それではきっと またあした。
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