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ニールダイアモンド⑬スウィートキャロライン♪
連続51日目
おこしやす(京都の人じゃないです!)、
いらっしゃいませ~~~♪
本日のメニュー
#ニールダイアモンド
「Cracklin Rosie」
https://youtu.be/iyHK8ABQ7WY?t=22
https://youtu.be/cYx3mEhk_Co?t=43
「Sweet Caroline」
https://youtu.be/861IaMpK3YU?t=49
ウイキペディアから。
ニール・ダイアモンド
(本名ニール・レスリー・ダイアモンド、1941年1月24日生)は、
1960年代後半から1980年代にかけてアメリカの
伝統的メインストリーム・ポピュラー音楽シーンを
代表するシンガーとして、そして自曲のみならず
モンキーズの大ヒット曲
「アイム・ア・ビリーヴァー」(1966年7週全米1位)
やUB40の全米ナンバーワンヒット
「レッド・レッド・ワイン」をはじめとする
数々のヒット曲のソングライターとして、
絶大な人気を誇ったアメリカの国民的
シンガー・ソングライター。
彼の書いた曲は今に至るまで様々な
形で広く愛されており、
MLBのボストン・レッドソックスの
試合で必ず8回にファンが声高らかに
大合唱する「スイート・キャロライン」
はその代表選手と言っていい。
ニールは70年代以降活躍した他の
欧米のソロシンガー達と異なり、
ロックやR&B、ジャズといった他の
音楽ジャンルとは一線を画した、
アメリカの伝統的ポピュラー音楽を
ベースにした独自のスタイルを貫いたため、
日本では欧米のような人気を得ることは
残念ながらなかったが、彼の
シンガーソングライターとしての
才能と実績、LAのグリーク・シアターでの
『Hot August Night』(1972) を
初めとする多くの迫力あるライブ盤を
リリースするほどのエンターテイナー
としての実績は、2011年にロックの
殿堂入りと同時にケネディセンター
名誉賞(パフォーミングアーツでの
高い貢献に対する最高栄誉の賞)
を受賞し、2018年にはグラミー賞
生涯功労賞を受賞するなど、
シーンから今も幅広く高い評価と
敬意を集めている。
ニューヨーク・ブルックリンの
ユダヤ系移民の家庭に生まれた
ニールは、16歳の時に参加した
サマーキャンプでフォーク界のレジェンド、
ピート・シーガーが自作の曲を
歌うのを聴いて作曲に目覚めたという。
帰宅してすぐにギターを手にした
ニール少年は、書きためた曲を
持って地元ニューヨークの
ティン・パン・アレー
(ヒット曲の職業作曲家や音楽出版社が
集まるマンハッタンの地区)の
音楽出版社に売り込みに行って
作曲家としての職を得て、
当時在学中だったニューヨーク大
を中退して音楽のキャリアをスタートした。
彼自身がバング・レコードと
契約して1966年に初のチャートヒット
「ひとりぼっちの男(Solitary Man)」
を放つまでに、彼がタイムズ・スクエア近く
のブリル・ビルディング
(キャロル・キングとジェリー・ゴフィンや
バリー・マンとシンシア・ワイルなど
有名作曲家チームが所属したことで有名)
で書いて世に送り出したヒット曲は、
モンキーズの全米ナンバーワンヒット
「アイム・ア・ビリーヴァー」や
「恋はちょっぴり(A Little Bit Me, A Little Bit You)」
(1967年全米2位)などがあり、
パフォーマーとしてデビュー前から
ソングライターとしての名声を築いていた。
当時の有名プロデューサー、
バート・バーンズのバング・レコードと
晴れて契約して「ひとりぼっちの男」
に続き「チェリー・チェリー」が
トップ10ヒットとなるなど順調に
ヒットを重ね始めたニールだったが、
バートが要求するコマーシャル路線へ
の反発や印税収入条件への不満から
1968年にユニ・レコード
(現在のユニバーサル傘下MCAレコード)と契約、
冒頭にも触れた彼の代表曲となる
「スイート・キャロライン」を
含むアルバム『ニール・ダイアモンドの肖像』
そして続く『スイート・キャロライン』で
初のアルバムチャートでトップ40入りを達成、
新しいキャリアのフェーズのスタートを切った。
1970年代に入ると拠点を西海岸LAに移し、
よりメローなサウンドによる
「クラックリン・ロージー」
「ソング・サング・ブルー」で
相次いで全米ナンバーワンヒットを記録
、名実共にシーンを代表する
ポップ・スターとなったニールは、
地元LAの野外コンサートホール、
グリーク・シアターでのオーケストラと
バックコーラス隊を従えての
7夜連続コンサートで、初期の作品から
最近のヒットまでをカバーした
エネルギッシュなライブを敢行、
当時「グリーク・シアター(1931年開業)
史上最高のコンサート」との絶賛を得た。
この勢いを駆って再び1972年に行った
10夜連続5,000席を売り切った
グリーク・シアターでのライブを収めた
2枚組ライブ盤『グリーク・シアター・コンサート』
は全米5位と大ヒット、
全米で急上昇していた彼の人気を決定づけたのだった。
1972年秋のニューヨークはブロードウェイの
ウィンター・ガーデン・シアター
(1983年から2017年までミュージカル
『キャッツ』が上演されたことで有名な劇場)
でのライブで再び大成功を収めたニールは
この後ライブ活動を4年ほど休止し、
家族との時間とアルバム制作に専念。
そして新たにコロンビア・レコードと契約し、
リチャード・バック作の小説
『かもめのジョナサン(Jonathan Livingston Seagull)』
の映画化作品のニール作によるスコア曲を
収めた1973年のサウンドトラック盤を制作。
全米2位を記録したこのアルバムで
ゴールデングローブ賞の最優秀
オリジナルスコア賞と、グラミー賞の
最優秀映画スコア音楽サウンドトラック盤部門
を受賞したニールは、映画という分野での
最初の成功を収めた。
またこの間制作した『永遠のセレナーデ』(1974)、
ザ・バンドのロビー・ロバートソンの
プロデュースによる
『ビューティフル・ノイズ』(1976)
も次々にヒット。
ロビーとの仕事がきっかけで、
1976年秋にサンフランシスコで
開催されたザ・バンドの解散コンサート
『ザ・ラスト・ワルツ』にも
ボブ・ディランやエリック・クラプトン、
ジョニミッチェルらと参加し、
ロックのオーディエンスにも
その力強いパフォーマンスを見せた。
1976年に3回目のグリーク・シアター
でのライブとオーストラリア・ツアーで
ライブ活動を再開したニールは、
その後も高校の同級生でもある
バーブラ・ストライザンドとの
豪華デュオによる「愛のたそがれ」(1978)
の全米ナンバーワンヒット、
伝説的エンターテイナー、
アル・ジョルソンの
1927年の伝記映画のリメイク映画
『ジャズ・シンガー』(1980)への主演と
再び自作曲によるサウンドトラック盤の
大ヒットなどで、アメリカを代表する
ポピュラーシンガー・ソングライター
としての活躍を続けた。
特に『ジャズ・シンガー』からの
ヒット曲となった「自由の国アメリカ」は、
自らの移民系出自を誇りを持って
歌いながらアメリカを讃える歌であり、
その後も1981年のイラン米国大使館捕虜事件
の解決時や、1986年の自由の女神像100周年、
1988年の大統領選での民主党候補
マイケル・デュカキス氏のテーマソング
として、更には2001年のニューヨーク
同時多発テロ後のコンサート等でも、
アメリカ国民が自らを鼓舞する曲として
広く支持される彼の新しい代表曲となった。
しかし1980年代以降、音楽シーンの
70年代的スタイルからニューウェーブ等への
大きなシフトに呼応するかのように、
ニールの作品の売上やヒットチャートでの順位、
リスナーの反応も次第に控えめなもの
になっていった。
ニールのシングルは1986年の
「フォー・ザ・フューチャー」を最後に
ヒットチャートにランクインすることも
なくなったのだが、60年代に書いた
「レッド・レッド・ワイン」が
UB40のカバーで1983年に
全米ナンバーワンとなったり、
90年代から「スイート・キャロライン」
がボストン・レッドソックスだけ
ではなく、フットボールや
バスケットボール・チームの
テーマソングとして全米各地で
広く歌われるようになるなど、
彼の楽曲のアメリカ国民全般への
浸透度はむしろ増していった。
そして大事なことは、その間も
ニールは自作曲を中心とした
オリジナル・アルバムを出し続けたということ。
1993年には自分のキャリアの
スタートとなったブリル・ビルディング
に敬意を表したカバーアルバム
『星降る夜に〜アップ・オン・ザ・ルーフ』、
90年代にリリースした
2枚のクリスマス・アルバム、
古いアメリカ映画でヒットした曲を
カバーした1998年のアルバム
『ザ・ムーヴィー・アルバム』など、
アメリカを代表する国民的シンガーとして
定番なカバーアルバムもこの時期に
リリースしたが、彼があくまで
こだわったのは
「メインは自作曲での作品をしっかり作り続けること」。
その彼の矜持を存分に体現したのが、
1976年の『ビューティフル・ノイズ』
以来初めて全曲ニール作による
2001年のアルバム『Three Chord Opera』
のヒットだった。
そして同じく全曲ニール作による続く
『12 Songs』(2005)は、
元々ヒップホップで名をなし、
90年代以降はジョニー・キャッシュを
ロック的アイコンとして再生させた
名プロデューサー、リック・ルービンの
プロデュースと、ロック系の
ミュージシャンのサポートで
新たなニールの世界観を提示した
作品となり、27年ぶりの
全米アルバムチャート
トップ5入りを果たしたのだった。
2008年にはリック・ルービンとの
2作目『Home Before Dark』の
リリース、
イギリスのグラストンベリー・フェスティバル
への出演、ニューヨークの
マディソン・スクエア・ガーデンでの
4夜連続のライブとそれを収めた
ライブアルバムとDVDの
『Hot August Night/NYC』の大ヒットなど、
21世紀突入後も精力的な活動を
続けてきたニールだが、2018年には
残念ながらパーキンソン病の
診断を受けたことを理由に
ツアーからの引退を発表。
とうとうあのエネルギッシュで
ショーマンシップ溢れたステージを
日本で見ることは出来なかったわけだが、
ニールの半生を題材としたミュージカル
『A Beautiful Noise』が2022年12月から
ブロードウェイの公演を開始することが
発表されており、ニールの半世紀余に
及ぶアメリカン・ポピュラー音楽の
歴史を体現してきた作品とそのレガシーは
確実に今後も幅広い聴衆に
伝えられていくことは間違いない。
そして2014年の『Melody Road』を
最後に全曲ニールの作品によるアルバムは
リリースされていないが、そろそろまた
彼の新しい作品を満載した新作も
届けられるのではないかと、
密かに期待しているファンも
決して少なくないだろう。
ニール、偉大なアーティストですね、
長生きして欲しいです。
日本での来日、叶わなかったけど
音楽は何処でも聴けるので・・・・♪
読んで戴き有難うございました~~~♪
昔はよかった子のコレクションから。