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ビージーズ・ディスコブームのきっかけに!⑰
連続55日目
お寄りいただき有難うございます~
ビジーズ、知っている方もそうでない方も
それなりに楽しい曲が多いです!
お馴染みの曲、選んでみました!
以下、ウイキペディア。
#ビージーズ
ビージーズ(英: Bee Gees)は、
英国王室属領マン島生まれの
イギリス人のギブ三兄弟を中心に構成された男性ボーカルグループ。
1963年にオーストラリアでレコードデビューし、
1973年からは米国を中心に活動。
1960年代前半から息の長い活動を続け、
「ラヴ・サムバディ」、「マサチューセッツ」、
「メロディ・フェア」、「若葉のころ」、
「イン・ザ・モーニング」、「ホリディ」、
「ジョーク」、「傷心の日々」、「ラン・トゥ・ミー」、
「ブロードウェイの夜」、「獄中の手紙」、
「ステイン・アライヴ」など、数多くの名曲を発表した。
ポップなメロディメイカーとしては、
レノン=マッカートニー(ビートルズ)や
ビヨルン&ベニー(ABBA)らと並ぶ名ソングライターチーム
として知られている。
メンバー
ビージーズはギブ3兄弟を中心に結成されたが、
1972年からは完全に兄弟のみのトリオ編成となった。
全員共通してボーカルを担当。
バリー・ギブ(Barry Gibb)
ビージーズ結成から数多くの楽曲は
彼が作曲し、リードボーカルを担当。
70年代中期以降、ファルセット唱法を積極的に導入した。
ロビン・ギブ(Robin Gibb)
モーリスとの二卵性双生児で次男。
一時的に脱退し、その後復帰した。
ソロ活動も積極的に行った。
モーリス・ギブ(Maurice Gibb)
ロビンとの二卵性双生児で三男。
ギター、ベース、そしてロビン同様に
楽器を演奏することができた。
グループのライブバンドのバンドマスターでもあり、
ステージではベースやオルガンを演奏することが多かった。
来歴
キャリア
デビュー以前からオーストラリア時代まで
ギブ兄弟は、オートバイレースで著名な
英国王室属領マン島に生まれた。
1946年9月1日にバリー[
1949年12月22日にロビンとモーリスが
二卵性双生児として誕生。
1950年に父の故郷、イングランド・マンチェスターに移る。
1955年、ギブ兄弟は教会の合唱団に所属し
キャリアをスタートさせる。
自宅の近所には後にハーマンズ・ハーミッツの
リードボーカルとして英米で大人気を博す
ピーター・ヌーン一家が居り、ギブ一家とは
家族ぐるみの付き合いをしていた。
1958年、父の仕事の都合により家族7人
(両親、バリー、ロビン、モーリス、姉のレズリー、
末っ子アンディ)でオーストラリアの
クイーンズランド州ブリスベンに移住。
一番下の弟、アンディ(1958年3月5日~1988年3月10日)
はマンチェスターで生まれたばかりだった。
ここで兄弟は、小遣い稼ぎに歌うようになる。
最初のグループ名は
ラトルスネークス(Rattlesnakes)、
その後、
ウィー・ジョニー・ヘインズ&ザ・ブルーキャッツ
(Wee Johnny Hayes & The Bluecats)になった.
そして3人はラジオのDJ、ビル・ゲイツ
(Bill Gates、マイクロソフト創業者とは別人)
に紹介される。紹介者は、レーサーの
ビル・グード(Bill Goode)。
ゲイツは、自分とグードのイニシャル(BG)
から彼らのグループ名をBee Geesとつける。
1960年に入るとテレビとラジオの
レギュラー番組を持つようになった。
1963年にフェスティバル・レコードより
「The Battle Of The Blue And The Grey / 三つのキッス」
でレコードデビューする運びとなり、
以後は国民的人気を博すこととなる。
ビージーズはエヴァリー・ブラザースからの影響も受けていた。
ソフト・ロック期:1960年代-1974年
![](https://assets.st-note.com/img/1728382496-3PEwoknryuYRHVOhTZGpKANd.jpg)
彼らは、1966年にはオーストラリアで
最優秀ボーカルグループに選ばれ、
翌1967年2月、
シングル「スピックス&スペックス」が
全豪ナンバーワンヒットしている頃、
オーストラリアでの大人気に着目した
ビートルズのマネージャーである
ブライアン・エプスタインは、
自らが経営するNEMSエンタープライズに
入社したての新人ロバート・スティッグウッド
(1934~2016)をオーストラリアへ赴かせ、
ギブ兄弟にワールド・デビューの契約を持ち掛ける。
イギリスに帰国したギブ兄弟は、
オーストラリア・クイーンズランド州生まれで
ロンドン育ちのドラマー、コリン・ピーターセン(1948~)、
そしてオーストラリア時代から彼らのレコーディングに
たびたび参加していたシドニー出身の
ヴィンス・メロニー(1945~)をリードギターに迎え、
5人編成として1967年5月にポリドール・レコード本社より
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」でレコード・デビュー。
アメリカでの発売元であるアトコ・レコード
(アトランティック・レコードの子会社)が、
新人では前代未聞の25万ドルで契約した。
以後、「ラヴ・サムバディ」[注 1]、「ホリディ」、
「マサチューセッツ」(全米11位)、「ワールド」、
1968年に「ワーズ」、「ジャンボー」、「獄中の手紙」
(初の全米トップ10入り)、「ジョーク」
(同じく全米トップ10ヒット)をリリース。
同年末にヴィンスがプロデューサー業に
転向するため正式に脱退、翌1969年春、
サードアルバム『オデッサ』およびシングル
「若葉のころ」の発売間もなくロビンが
ソロ・シンガーになるべく独立
(シングル「救いの鐘」は英国のみでヒット)、
同年夏にはシングル「トゥモロウ・トゥモロウ」
を最後にバリーとモーリスが一方的に
コリンを解雇してしまう。
これによって2人となったビージーズは、
「想い出を胸に」を全英トップ10に送り込むも、
翌1970年春先にシングル「I.O.I.O.」
およびアルバム『キューカンバー・キャッスル』
発売直後の兄弟喧嘩によって空中分解。
その後、それぞれソロ・シングルを発表するも
芳しい結果は出せず、
同年9月にバリー、ロビン、モーリスの3人は
結束の下に改めてビージーズとして再出発することを誓う。
10月に再スタート第一弾アルバム『トゥー・イヤーズ・オン』
を発売、翌71年1月にシングルカットされた
「ロンリー・デイ」を全米3位(キャッシュボックス誌では1位)
とし、続くシングル「傷心の日々」は念願の
全米ナンバーワンとなるが、アルバムセールスは低調だった。
71年のイギリス映画『小さな恋のメロディ』は、
本国では成功しなかったものの、
日本では興業的にも大成功となり、
サントラ盤に収められた「メロディ・フェア」、
「若葉のころ」などは日本人に親しまれた。
コリン解雇後はジェフ・ブリッジフォードが
ドラムを叩いていたものの1972年春、
初の来日公演
(アイドル人気だった1969年に予定されていたが、
メンバーの脱退などの諸問題で延び延びとなっていた)
寸前に解雇される。
1973年に、マネージャー兼プロデューサー
でもあったロバート・スティッグウッドが
設立したRSOレコードへ移籍し、アメリカでの
発売元であるアトコ・レコードでかつては
ヤング・ラスカルズなどを手掛けるなど
華々しい経歴の持ち主であるアリフ・マーディンの
プロデュースを受け、
アルバム『ライフ・イン・ア・ティン・キャン』をリリース。
マンネリ化した従来のストリングスサウンド
(1967年以降ステージではバックに30人編成から成る
ストリングス・オーケストラをつけていた)から
サウンドを変更したが、翌1974年のアルバム
『ミスター・ナチュラル』も不発に終わる。
マーディンは自信を失って迷いの中にいる
メンバーに「課題は自分たちの新しい音楽スタイルの
追求と発展とヒットレコードの制作だ。
まわりの音楽状況やほかのアーティストの
ヒット状況に耳を傾けるように。
ファンが何を求め、時代や状況に合った音楽は何か、
その中の自分たちの可能性は何なのか」
と問うてきた[6]。そしてビージーズの大転換がはじまる。
ディスコ期:1975年-1979年
1975年に芸能生活20周年記念アルバム
でもある『メイン・コース』からシングルカットされた
「ジャイヴ・トーキン」、「ブロードウェイの夜」が
ディスコブームに乗り、全米大ヒット。
これよりディスコ時代の幕開けとなる。
リズム主体のディスコなサウンドへと
脱皮を図った彼らに対して、旧来のファンからは
「売れるためにサウンドを変えた」と
猛反発された。
しかし以後も、ディスコ・ナンバーを
中心とする路線を継続し、
「ユー・シュッド・ビー・ダンシング」などの
大ヒットを飛ばした。
ディスコで大人気を誇っていたビージーズの
ナンバーを大きく取り入れた映画
『サタデー・ナイト・フィーバー』[注 2]が、
1977年に公開された。
同作品はアメリカだけでなく、海外でも大成功し、
アルバムも大ヒットとなった。
アルバムからはビージーズの「ステイン・アライヴ」、
「ナイト・フィーヴァー」、
タバレスの「モア・ザン・ア・ウーマン」、
イボンヌ・エリマンの
「イフ・アイ・キャント・ハヴ・ユー」などがヒットした[7]。
1980年以後
1981年のアルバム『リヴィング・アイズ』が
マイナーヒットに終わって以降は、
各自のソロ活動と並行して他アーティストへの
楽曲提供が活動の中心となり、
数多くの全米ヒットを生み出す。
1987年にワーナー・レコードに移籍し、
アルバム『E.S.P.』よりシングル・カットされた
「ユー・ウィン・アゲイン」は、全英トップ10ヒット。
1989年にはシングル「One」が久しぶりにヒットした。
また、アンディ・ギブが早逝する悲劇に見舞われた。
2003年、メンバーのモーリス・ギブが急逝。
モーリス死去後にロビンは再結成の意向はないと
表明したが、2009年から活動を再開した
2012年5月20日、
ロビン・ギブの死去によりギブ3兄弟による
グループ活動は消滅した。
業績・受賞
全世界でのレコード・CDのセールスは
2億3000万枚に上り、彼らの楽曲は古くは
エルヴィス・プレスリー、
近年はデスティニーズ・チャイルドらに
よってカバーされている。
1971年から1979年にかけて、
ビルボードチャートに9曲の
ナンバーワンヒットを送り出した。
1978年の3月には、製作に携わった4つの
楽曲が上位5位にランクイン、
これはビートルズが1964年の4月に
上位5つ全てを独占した記録に次ぐ偉業である。
1977年の最終週から翌1978年の8月までの
32週にわたり、携わった楽曲が常に
1位の座を独占し続けた。
イギリスにおいては、ビートルズの28曲に
次ぐ19曲がナンバーワンヒットを記録した。
また、活動期間中に5つのグラミー賞を獲得した。
1997年に、アーティストの殿堂とロックの殿堂、
2001年にボーカルグループの殿堂、
2004年9月20日にはダンスミュージックの
殿堂入りを果たし、音楽史上初めて
4つの殿堂入りを記録した。
他にも、「英国の音楽に多大な貢献を
行ったアーティスト」の栄誉も受賞した。
youtubeから~
「How Deep Is Your Love」
https://youtu.be/uHuTX7UOrjI?t=37
「Massachsetts」
https://youtu.be/FuoWykVNwyI?t=49
「Night Fever」
https://youtu.be/7AnKoumqcTg?t=51
堪能されましたか?
過去の曲ですが名曲に
年代は無いかと思います。
いつまでも、永遠に~~~
兄弟のグループでしたが
次々に不幸に見舞われて残念!
ディスコブームに欠かせない曲が
沢山あって思い出してしまいます!
読んで戴き感謝です★★★
(youtubeから引用させていただきました)
あのころのディス子の日記からでした~♪