連続56日目
おこしやす~~~
お寄りいただき有難う存じます~~~♪
今日はドリフターズのお話~♪
以下、ウイキペディアから~
#ドリフターズ
ザ・ドリフターズ(英語: The Drifters)は
アメリカ合衆国のコーラス・グループ。
1953年に結成された当時は、
ビリー・ワード&ザ・ドミノスの
元リードテナーであるクライド・マクファターの
バックコーラスであった。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も
偉大な100組のアーティスト」において第81位。
#『ローリング・ストーン』誌によると、
マクファターが去った後のザ・ドリフターズは、
1955年からその名称(権)を所有する
ジョージ・トレッドウェルにより
雇われた低賃金のミュージシャンであったため、
偉大なコーラスグループの中で
最も安定感に欠けていた。
トレッドウェル・ドリフターズの歴史には、
ドリフターズの元メンバー
(トレッドウェルの管理下ではない)による
いくつかの分派グループを含め60人の
歌手がいる。
通常はこれらのグループは
「ビル・ピンクニーのオリジナル・ドリフターズ」
「チャーリー・トーマスのドリフターズ」などの
クレジット表記で識別されている。
ザ・ドリフターズには、 1950年代初頭、
1960年代、1970年代初頭
(アトランティック・レコード時代以降)
という3つの黄金時代があった。
クライド・マクファターによって
結成された最初のドリフターズは、
「ザ・ドリフターズ」として
ヴォーカルグループの殿堂入りを果たした。
ベン・E・キングを主演者とする
2番目のドリフターズは、
「ベン・E・キング&ザ・ドリフターズ」として
ヴォーカルグループの殿堂入りを果たした。
これら殿堂入り達成者のうち、
最初のドリフターズから4人、
2番目のドリフターズから2人、
アトランティック終了後の
ドリフターズから1人のメンバーが
ロックの殿堂に選ばれた。
ヴォーカルグループの殿堂によると、
「混乱と変化を経て(最初の)
ドリフターズが何とか音楽トレンドを
定めて13のヒット曲を発表しており、
その大半が現在では伝説的な
レコーディングである」。
その偉業があって、後のドリフターズの
編成はBillboard Hot 100
トップ30チャート入りを13回記録した。
1950年代と1960年代にこのグループが
生んだものは米国R&Bチャートに
おける影響力でもあり、次の6曲が
R&B第1位のヒットになっている。
「Money Honey」(1953)、「Honey Love」(1954)、
「Adorable」(1955)、 「There Goes My Baby」(1959)、
「ラストダンスは私に」(1960)、
「渚のボードウォーク」(1964)。
1970年代のイギリスでの復活は、
米国では話題にならなかったものの、
「Kissin' in the Back Row of the Movies」
で最高2位という英国ポップチャートに
おける最大の成功を収めた。
来歴
最初の古典ドリフターズとクライド・マクファター
多くのファンや音楽歴史家にとって
「ザ・ドリフターズ」とは
クライド・マクファターを意味するが、
彼がそのグループと一緒だったのは
わずか1年間である。
マクファターは1950年から3年間、
ビリー・ワード&ザ・ドミノスのリードテナーだった。
ザ・ドミノスの成功の大部分を担っていた
のがマクファターの甲高いテナーだった。
1953年、アトランティック・レコードの
アーメット・アーティガンがバードランドで
ザ・ドミノスの公演に顔を出して、
マクファターが欠席であることに気付いた。
これをジェリー・ウェクスラーは
次のように回想している。
もはや、誰がだれ?!判らんですたい!
番外編#ブルースウイルス
嘘みたい!!!ブルースウイルスが「ラストダンスは私と」
歌ってるんです!
美声!凄い、ステキ!デリシャスじゃない!マーベラス!
(どれだけ感嘆してるんや!)
最近は健康上の理由で映画界引退とか、
寂しい限りです~(-_-;)
「ドリフターズ」のメンバーの
入ったり出たり、脱退、解雇、
金銭問題!!!
だれがどうなって?
もはや、何が何だかわからんぞな!
今回の画像も誰がいつから!
入れ替わり?誰が歌ってる?
頭が痛くなってきたぞな!
もう、めちゃくちゃ!
考えないほうが身のためぞな!
歌だけ聴けばいいぞな!
歌には罪はない!
雑念なしに歌だけ、楽しんでくんしゃい!!
「ラストダンス」文句なしに素晴らしい!んですから~~~♪
知らないほうがよかった子のメモ帳から!