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ポール・マッカートニー「Wonderful Christmastime」NO68

毎日投稿119日目

おこしやす~~~
お寄りいただき有難うございます^-^
だんだんXmasに近付いてきたぞな!

それで昨日はジョンレノン、
だから今日はポールマッカートニー!
この曲も有名ですね~

ウイキペディアから。

ジェイムズ・ポール・マッカートニー
Sir James Paul McCartney CH MBE1942年6月18日 - )は、
イギリス出身のシンガーソングライター
ファーストネームはジェイムズであるが、
父のファーストネームも同じくジェイムズ
であることからミドルネームであるポールを用いている。

1960年代ロックバンド
ビートルズのメンバーとして
ジョン・レノンと共に
楽曲作詞作曲を多く手掛けたほか、
ボーカルと演奏を担当した。
ビートルズ解散後はウイングスを結成し、
メンバーとして活動したほか、
ソロ・ミュージシャンとしての活動も行い、
デビューから半世紀以上が過ぎた現在も
第一線で活躍を続けている。

これまでに制作した楽曲は
2019年時点で500曲以上で、
ギネス世界記録』に
「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」
として掲載されている。


2002年にはジョンやジョージ・ハリスン
フレディ・マーキュリー
ボーイ・ジョージ
ロビー・ウィリアムズらと
ともに100名の最も偉大な英国人に選出。

略歴・人物

ビートルズの楽曲では
イエスタデイ」「ヘイ・ジュード
レット・イット・ビー」等の作詞・作曲を行った。

解散後には新たにバンド、ウイングスを結成し、
マイ・ラヴ」「007 死ぬのは奴らだ
ジェット」「バンド・オン・ザ・ラン
あの娘におせっかい」「心のラヴ・ソング
幸せのノック」「夢の旅人」「しあわせの予感
グッドナイト・トゥナイト」などの
ヒット曲を発表し話題となった。

1980年代に入り、ウイングスは解散、
ソロ名義で活動を始めた。
タッグ・オブ・ウォー
フラワーズ・イン・ザ・ダート
フレイミング・パイ』といった
アルバムを発表し現在に至っている。


ビートルズ時代を含め、
基本的にベーシストとして
エレクトリックベース
主に使用するが、録音および公演では
度々ピアノを演奏している。
ギターの演奏にも定評があり、
ビートルズ時代の「タックスマン」、
ソロとして発売した
恋することのもどかしさ」などでは
ギターソロを披露している。


また、「カミング・アップ
ワンダフル・クリスマスタイム」などでは
シンセサイザー
ジョンとヨーコのバラード」や
バック・イン・ザ・U.S.S.R.
ディア・プルーデンス」などではドラムス
ストロベリー・フィールズ・フォーエバー
などではメロトロンを演奏している。



その他にも楽曲によりトランペット
フリューゲルホルン
マンドリンチェロも担当している。
それを示すように、
1970年に発売されたアルバム『マッカートニー
1980年の『マッカートニーII
2005年の『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』2020年の『マッカートニーIII』では、
ほとんどの楽器をマッカートニーが一人で演奏している。


作曲技法はほぼ独学だが、
初期はリズム・アンド・ブルース
大きな影響を受けていた。
またジョージ・マーティンの影響で
クラシック音楽の技法も取り入れるようになった。
ベースの演奏手法ではモータウンジェームス・ジェマーソン
ボーカル・スタイルでは
リトル・リチャードの影響が強い。



ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、
コーラスの一人多重録音も盛んに行っている。
インタビューでは、お気に入りのギタリストはジミ・ヘンドリックス、お気に入りのベーシストは
クロスオーバーのスタンリー・クラークと回答している。
一方でウッドベースに関しては、
演奏例は皆無ではないものの、殆ど使用しない。

信条は環境保護、動物愛護、平和主義、
反人種主義である。
マッカートニーの差別反対が
顕著に出ている例として、
いわゆる「ゲット・バック・セッション」における
ゲット・バック」の
歌詞を考案した際の逸話がある。


マッカートニーはその日の朝刊に、
イノック・パウエル議員が
「移民は国に帰れ(Get Back)!」と
発言したという記事があったことを
引き合いに出して、
歌詞に「プエルトリコ人はアメリカにいらない」
パキスタン人、仕事を奪ってはいけない」
などを即興で加え、
仮タイトルを "(Don't Dig) No Pakistanis"
(「パキスタン人は要らない」)としたという。


経歴

幼少期〜青年期

1942年6月18日に
マージーサイド州リヴァプールで誕生する。

労働者階級出身。
父のジェイムズは営業員や作業員として
働く一方、セミプロ級の技術を持つ
アマチュアのジャズ・ミュージシャンであった。
父方の曾祖父がアイルランド系で、
さらに母方の祖父もアイルランド系だった。

母メアリー(1909年 - 1956年)が
乳癌のため1956年に死去した。
この年、
処女作「アイ・ロスト・マイ・リトル・ガール」を作曲する。
同曲は後に1991年発売の
ライブ・アルバム公式海賊盤』に収録される。
ソロアルバム「マッカートニー」に
収録されている「スーサイド」、
ビートルズのアルバム
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に収録されている
ホエン・アイム・シックスティー・フォー」も
この頃に作曲されたといわれている。


リヴァプール・インスティチュート在学中の
1957年7月6日、
共通の友人であるアイヴァン・ボーンの
紹介でレノンと出会う。
10月18日に
ビートルズの前身となるレノンのバンド、
ザ・クオリーメンに加入する。
マッカートニーは真面目に
学業に取り組んでいたが、
高校時代から音楽に没頭したため、
成績は下降し欠席日数も増えた。


ビートルズ時代

西ドイツハンブルクなどの
クラブに多数出演する。
スチュアート・サトクリフ
ピート・ベストの脱退などの
メンバー交代を経た後、
レノン、ジョージ・ハリスン
リンゴ・スターとの4人で
1962年
ビートルズとして
EMIパーロフォンより
シングル『ラヴ・ミー・ドゥ』でデビューし、
世界的に大成功を収めた。


ビートルズとして1966年6月に来日し、
日本武道館にて公演を行った。
公演が実施される前には
正力松太郎
「ベートルスとかペートルスとかいう連中」発言や、
細川隆元小汀利得や街宣車などの
反対があったが、公演を無事に催行。
ビートルズ日本公演以来、
日本武道館は
「日本音楽界の聖地」とも呼ばれる場合もある。


1970年代

1970年4月10日、
ビートルズを脱退するという
マッカートニーの意向が
イギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で報じられ、
ビートルズは事実上解散した。



その1週間後の4月17日、
騒動の最中に
初のソロ・アルバム『マッカートニー』を発売する。
脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、
アルバムは好調な売れ行きを見せ、
アメリカのビルボード誌や
キャッシュボックス誌で第1位を獲得した。
レノンからは
「グループからの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」
として非難され、
当時の音楽メディアや
ロック・ファンからは酷評する声も少なくなかった。



1971年2月に
発表されたシングル『アナザー・デイ』、
5月に妻リンダとの連名で
発表されたアルバム『ラム』にも
『マッカートニー』の作風は受け継がれ、
『ラム』は前作同様にヒットした。
イギリスでは第1位、
ビルボード」誌では最高第2位を獲得し、
トップ10内に24週間も残留した
ロング・セラーとなったが、
評論家からは手厳しい批評を受けた。



アラン・クレイン
まつわる訴訟問題などで、
険悪な関係に陥っていたビートルズの
元メンバーの『ラム』への評価もきびしかった。
このアルバムからアメリカ限定で
シングル・カットされた
アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、
1972年度のグラミー賞
最優秀アレンジメント賞を獲得した。


8月、予てよりバンドによる公演活動を
目論んでいたマッカートニーは、
ウイングスを結成し、
12月
ファースト・アルバム『ワイルド・ライフ』を発表した。

→詳細は「ウイングス § 来歴」を参照


グループでの音楽活動、
色々、トラブルもあったんですね、

現役で活動中、凄いことですたい!

長い説明になり、お疲れ様でした!
やはりビートルズは外せないですたい!

お付き合い有難うございました^^



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