過去を忘れるために、日記がある
忘れられない過去で、頭の容量がオーバーしている?
「あの頃は、青春だったなぁ、懐かしいなぁ」
「当時は苦しかったけど、今思うと良い経験だったなぁ」
「あの時の選択は、果たして正しかったのだろうか」
楽しかったことを思い出してホクホクとした懐かしい気持ちになったり、煮え切らない思いを反芻してはモヤモヤと後悔したり…。忘れられない過去があるということは、(ポジティブなものでもネガティブなものでも)それだけ思い入れのある経験をしてきたということですから、貴重なことです。ただ、過去に対する思考で頭の容量を占領してしまって、今を考え、楽しむことがおろそかになることはないでしょうか。
「あの時が人生のピークだった。今は物足りない…」
「昔の彼氏/彼女と比べるとなぁ…」
「あの時こうしていれば…もし過去に戻れるならやり直したい」
日記を書くことでより過去が忘れられないものになる、と考えるのが一般的かもしれません。しかし僕はその逆で、「日記を書くことで、過去を忘れて今に集中できる」という考えです。今回は、過去のことで頭がいっぱいになっている人が、スッキリ今に目を向けられるような日記の使い方を書いていきたいと思います。
日記は、過去を内省する最後の一回
僕の大学時代の最高に楽しかった思い出は、アカペラサークルでのバンド活動です。特に3年間続けた「キミトオレンジ」というバンドの卒業解散ライブは、今思い出しても感動的な気持ちが蘇ってくるくらい、幸せで大事な思い出になりました。
解散ライブが終わった数日後、メンバーの一人が解散ライブの出来事や感想を超長文でバンドのグループLINEに送ってきてくれました。当時はコロナ禍で、コロナ対策をしながらのライブ開催が大変だったこと、ラスト1回として歌っていった一曲一曲それぞれに対する思いが、鮮明に書かれていました。
長文のメッセージと一緒に、メンバーがこんなことをLINEで言っていました。
「本当の意味でキミオレから卒業するため」
なるほど…。当時の出来事を記録するのは、気持ちを言葉として整理して、過去にお別れを言って今に目を向けることでもあるんだな、と思いました。
さらに、長文メッセージの最後には、こんなことが書いてありました。
まず、メンバーがこんなにバンドのことを好きでいてくれたことが嬉しくて、引用文を書きながらちょっと感動した気持ちが蘇ってきました。メッセージを書いてくれたメンバーは、過去の楽しかった思い出にすがり続けるために書いたのではなく、過去の思い出に「ありがとう、また会うときまで、さようなら」と告げるために、書いたんだなぁ、と思いました。
日記を書くということは、過去を内省する最後の一回、ということでもあると思います。言葉にしなければ、過去の思考感情が頭の中で漂い続けるだけです。それを言葉として固定化し、出来事に対する思考感情に一旦のケリをつける。そうすることで、過去の思い出が胸の奥の棚に仕舞われます。
過去を忘れることは、自然なこと
時間の経過とともに記憶が薄れていくことを、切なく感じることもあるでしょう。でも過去を忘れることは、脳の仕組みとして自然なことで、忘れることが良いこととも思っています。「忘れる」ことができなかったら、頭の中が物で溢れかって隙間もないくらいに散らかってしまうでしょう。辛い記憶に永遠に苦しめられなければならなくなるでしょう。
忘れることが怖くて、でも一方で思考感情を言語化しておかないということは、お気に入りの服やアクセサリーを全て身につけて、手からこぼれるほどに抱えているような状況です。思い出として残しておきたいものほど、日記に記憶を託して、過去の出来事を棚に仕舞いましょう。過去を背負いすぎて身動きがとれなくなっていたら、日記に書いて、安心して過去を手放しましょう。いつか思い出したくなった時は、日記が覚えていてくれた記憶を、日記を開いて見にいけば良いのです。
「今このとき」に集中して、夢中で生きる
自分が生きているのは、過去ではなく今です。もちろん過去は尊く、何度も振り返りたくなりますが、一旦過去のことは日記に覚えておいてもらって、今を楽しむことに集中したいです。過去を忘れた頃に、たまに振り返って懐かしむ方が、なんだかんだ楽しかったりすると思います。
どうせ人間の記憶は曖昧なものなので、良い意味でテキトーにやっていきましょう(笑)そして、お気に入りBOXに入れておきたい思い出があれば、日記にしたためておきましょう。何年か経って、お気に入りBOXに溜まったものを眺めてみるのは、きっと楽しいですよ…!
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