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なぜ「文学」は売れなくなったか(読まれなくなったか)

ここでいう「文学」というのは漱石とかシェイクスピアとかだけではない、一般的な小説を指す。
こういった文学がここ最近(いや結構前から)売れていないのは多くの人間が耳にするだろう。

具体的な統計としては次のグラフがある


グラフは基本的に下降気味なのは一目瞭然である(特に雑誌が著しい)。また下のグラフ上はあまり目立たないが「文学」の要と言える「文庫」と「文芸」の売上も下がっている。2006年では両項目合わせて3100億あったのが2022年では2000億になっている。15年とちょっとで四割売上が下がったのである。
新たに発売される日本の「文学」のレベルは下がっているというのはそこかしこで耳にする。それもそのはずである。売れないのである。創作者も生活がかかってるしある程度の贅沢はしたい。なので基本的に文学業界(文学に限ったことではないが)のレベルを上げるにはある程度の利益をもたらすものでなければならない。芥川、太宰等を生み出した日本文学黄金期ができたのはそもそも文学作品が売れていたからである。莫大な収入とまではいかないが、少なくとも今よりは売れていた。利益が出れば参入者はどんどん増えて、競争原理が働きお互い鎬を削る。その中でいい作品が生まれてくる。芸術創作と金銭利益は相反しているようで密接に関連しているのである。

さて、なぜ売「文学」が売れなくなったのか、その私見を述べたい。

売れなくなった理由は様々ある。純粋に日本人が金を持たなくなった(貧乏になった)とか本の値段が高くなったとかの金銭的な理由もあるだろうが、個人的に一番の理由は

文字だけだから

だと思っている。ご存知のように、今は表現方法が多様になっている。アニメ、漫画、映画、ゲーム、動画といった様々なメディアが登場しており、それらがミックスされることもザラである。そういったメディアにおいては、映像、音楽、演出等様々な要素が登場するし、人間を描く際においても文字だけとは違い相手の外見がはっきり描かれる。これらの多様な表現に比べて文字だけなのはあまりに味気なさすぎるのである。もちろんそれは表面上のもので、演出は豪華だが内容が浅い作品もあるし、文字だけでも深い作品はいくらでもある。古典に属する文学はやはりそうだろう。だがこれらの華やかな表現方法に慣れ、更に現代ではその表現が受け手側にわかりやすく伝わるようにしているのもあり、それに比べると今の人たちからすると文字だけというのはどうにも突っ掛かりづらいものがあるのである。

「文学」というと「教養」から連想される精神修行的な響きがあるのだが、「本とは楽しむためのものである」というモームの言葉があるように元々は「娯楽」である。また、「生前は無名だが死後有名になった」という芸術神話は実はそこまで多くない。むしろバルザックやトルストイ等ベストセラーや有名人であったことの方が多い。当時は何より「娯楽」として受け取られていたのである。漱石や芥川の明治の日本文学黄金期も「娯楽」として読まれていた。そしてその頃は、ネットもなく、動画もなく、テレビができるかできないかといった時期であった。なので「文」が「娯楽」として最も一般的だったのである。

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