言語思考者だが言語で考えることに拘らない
以前取り上げた『ビジュアル・シンカーの脳』を読んだ。
言語思考も2種の視覚思考も、大半の人はどれか一つに固定されているものではない。グラデーションの中で、各自の偏りがある。俺は言語思考だと言う時、それは「言語思考の比重が大きい」とか「言語思考に偏っている」という意味で捉えるのが正しいわけだ。
各思考法には向き不向きがあるので、問題の解決には思考が異なるメンバーで構成されたチームで取り組むのが良いだろう。『多様性の科学』でも書いていた通り、多様な視点で物事を見たほうが死角は減り、解決の糸口が見つかるだろうからだ。
『ビジュアル・シンカーの脳』でも思考法が多様であることの価値を説いている。逆に単一の指標で人の価値を決めるのはもったいない。視覚思考はペーパーテストには弱いし、著者のような物体視覚 (具体的なイメージで捉えるタイプ) は代数で落ちこぼれとなりやすい。それで才能を活かす機会に恵まれないというのは、社会の損失である。だから各思考者がそれぞれの特性を活かせるようにするべきだ。
そのような思考の多様性を活かすという話は大事だし、俺も特に異論は無い。ただこうも思うのだ。個人の中で最適な思考法にスイッチできたら強いだろうな、と。
ここから先は
863字
/
1画像
この記事のみ
¥
100
この記事が参加している募集
人に対し何かをしてあげるという事は、全て「見返り」を期待しての行為だ。noteのサポートは文章を読むための「見返り」である。