正義の所在

割引あり

   「正義の所在」

 1

「ここでも一人――」
 三浦安彦は後ろを歩く老夫婦を振り返った。
「女性の方でした。名前はたしか――」
 街灯の下で、老夫婦の顔は濃い影の中にあった。道路端に供えられた花は、昼間の暑気のせいですっかり萎れてしまっていた。
 夜も更けてようやくほとんどすべてのシャッターが閉ざされ、街は色という色をなくして薄暗くなっていた。しかし三浦は、あの日の昼下がり、この路地のアスファルトが毒々しいほどの鮮血で濡れていたことをいまでもはっきりと憶えている。
「もう少し先です」
 三浦は再び歩き出した。たよりない糸でひっぱられるように、江口俊雄、美和子夫妻がその後をのろのろとついてくる。
「ここです」
 ほんの十歩ほどのところで三人は立ち止まった。
「あなた方の息子さんは、ここで亡くなった」
 そう告げると、老夫婦は三浦に深々と頭を下げた。
 少しして二人を促し、一行は大通りの交差点に戻った。
 角にあった献花台は去年の暮れには撤去されたが、そのあたりにはいまでも時期を問わず供物や花束が絶えない。遺族や友人たちにとっては、死ぬには早すぎた者たちそれぞれの誕生日という日はまだ、命日よりも重い意味があるということなのだろう。
 夫の方がひどく慎ましやかな花の包みをそこに供えると、妻の方は堰を切ったようにすぼめた肩を震わせはじめた。三浦は夫妻の背後にそっと下がると、彼らにニコンのレンズを向けてシャッターを切りはじめた。
 深夜営業のファミレスに入り、夫妻の前のほとんど手つかずのコーヒーが湯気を断つ頃、三浦は二人に切り出した。
「江口さん――金尾誠一郎に会ってみたくはありませんか?」
 このとき、夫妻ははじめて顔を上げた。

 2

――三浦安彦著「午後一時五十二分、そのとき」より抜粋――

 金尾誠一郎は、千葉県柏市の裕福な家庭で生まれた。
 父親は慶應義塾大学出の財閥系総合商社勤務のエリートで、また母親は出自も良く、上智大学を卒業後まもなく二人は見合い結婚をし、四年のうちに三人の男児をもうけた。誠一郎はその長男である。
 誠一郎は良家の長男ということもあって、両親はもちろん、祖父祖母、親戚一同からは、当然のように弟たちよりも一段格上の存在として大事に育てられてきた。
 ただ、そんな周囲の期待がいずれも幼少の頃から才ありと目された弟たちに向けられるようになってからは、それはいつしか誠一郎の脇をすり抜けるようになり、彼の長男としての立場はさほど重みのあるものではなくなっていた。
 それでも金尾家の教育方針には差別も手抜きもなく、三人の兄弟はみな同じ私立の一貫校で同等の教育を受けることになる。
 とはいえ、学業の成績がはっきり数値として表れるようになると、彼の親たちは誠一郎の教育に対して早々に匙を投げた。当の誠一郎もまた、両親のそんな眼差しや態度を察し、学業に関しては特段の奮闘も努力もすることなくさっさと見切りを付けてしまっていた。
 ならばスポーツはどうかと、思春期前後のありあまるエネルギーは部活動のバスケットボールに注がれたが、誠一郎は中等部でも高等部でも一度もレギュラーを勝ち取ることはなかった。
 そうして兄がくすぶっている間にも、二年後、三年後にそれぞれ中等部に進級してきた弟たちは、いずれもすぐに勉強でもスポーツでもめきめき頭角を現しはじめた。非凡な弟たちの存在が誠一郎の友人や教師らにも知れ渡るのは時間の問題で、やがて誠一郎は、家族以外の人々からも、ことあるごとに、弟たちとの出来の差を意識させられるようになっていった。
 ただ、それで誠一郎が卑屈に育ったということはなく、むしろ誠一郎は、いつでも弟たちを哀れんですらいた。
 親や周囲からの過度な期待を向けられなかったために、弟たちのような、遊びたい盛りを禁欲的な枠に嵌められるような鬱屈した暮らしとは、彼だけは縁遠かったのである。
 抑圧と強制の日々を送る弟たちに、悦楽と怠惰にふけるひとときを与えてやっていたと、誠一郎は十代半ばの頃を振り返っている。
 金尾家ではテレビゲームは絶対禁止とされていた。だが、誠一郎は落ちこぼれ仲間の友人の家に入り浸っては思う存分テレビゲームに興じてきたし、ときにはゲーム機を借りて帰り、親が寝たのを見計らって、こっそりと弟たちと夜中じゅう遊んだりもした。
 お笑い芸人たちが一晩中喋り通す下品な深夜ラジオ番組を聴く楽しみを弟たちに教授したのも、これまた金尾家では禁止とされていた漫画本を押し入れの奥に密かに設けた棚にぎっしりと溜め込み、それらを夜遅くまで分厚い参考書に首っ引きの弟たちに提供して、しばしば勉強の邪魔したのも誠一郎の仕業だった。
 無論、誠一郎のそういった悪さは両親にときどき見咎められた。ときには「弟たちの足を引っ張るんじゃない。弟たちがお前のような愚図になってしまったらどう責任を取るんだ」などと叱られもした。そんなときでも誠一郎は決して抗わなかった。いますぐ漫画本を捨ててこいと言われれば二つ返事ですぐに紐で縛ってゴミ集積所に走ったし、ラジオを没収すると宣告されれば殊勝に差し出し、それが庭石にぶち当たって砕け散る様をただ照れくさそうにして眺めているのも二度や三度ではなかった。
 ただ、それで彼が深く反省し、態度を改めるということはなく、叱られた翌日にはこっそり小遣いで安ラジオを買い直したし、また、隠し本棚もすぐのちにひそかに別の場所に設けられ、その新しい棚はそう間を置かずに満杯になったものだった。
 そうして陰で他愛ない悪さをすることはあっても、直接両親に刃向かうような反抗期は誠一郎には皆無だったといっていい。親を恨んだり憎く思ったことは一度もなく、誠一郎は、両親に叱られ呆れられ、見放されても、そんなことに少しもめげることはなかった。
 そんな誠一郎の役回りは、むしろ金尾家には幸いなことだったといっていい。彼は親と弟たちとの間に必要不可欠な緩衝材となっていたのである。その役回りの必要性を重々理解していたからこそ、誠一郎は徹底して道化を演じることに生きがいを感じていたし、それこそが持って生まれた自分の才能だと誇らしくさえあった。
 だが、当然のことながら、誠一郎はいつまでも金尾家の道化でいられるわけではなかった。
 その兆しは、やっと滑り込んだ底辺レベルの短大で、春にはもう卒業なのにまだ就職先も決まっていないという頃にあらわれた。
 その頃、二歳下の弟が東京大学に合格した。さらに、もう一人の弟も次兄に続けと翌年の受験で一流大学に目標を定めたことで、誠一郎の内にこれまでついぞ感じたことのない焦りが、いまさらながら、突如沸き起こってきたのである。
 誠一郎は、三月も末のぎりぎりになってようやく両親に就職の報告をすることができた。ただ、就職先といっても食品加工会社の工場勤めにすぎず、それで弟たちとの差が埋まるはずもなかった。
 「がんばりなさいよ」と一言、父親に聞こえないようにだろう、誠一郎はこっそりと母親に声を掛けられた。その母親の態度を当時の誠一郎は、新社会人の第一歩を踏み出した息子への激励というよりは,出来損ないの息子に対する憐れみとしか受け止められず、ひどく傷ついた出来事として記憶に刻み込んでいる。
 弟たちは見事に親の期待に応えた。そんな金尾家にはもはや道化は必要なくなっていた。それよりなによりも誠一郎にとってショックだったのは、彼自身がすでに道化を演じられなくなっていることを自ら悟ってしまったことだった。
 そうなると途端に家は居心地が悪くなってしまい、誠一郎は取手にある会社の独身寮に移り住むことにした。
 毎朝工場まで自転車で通勤しては、白衣と白長靴、マスクに身を包み、九時から五時まで冷凍食品の検品や箱詰め作業に没頭する。人並み以上にそつなく業務をこなすことはできていたが、それは与えられた仕事が単調なのだから当然のことで、自分が格別有能だと思わせてくれるような機会は皆無だった。
 それゆえモチベーションは日増しに下降線をたどった。入社して三ヶ月ほどでそれはほとんど底を這い、そうなると立身出世を望む気になるはずもなく、将来はすでに漠として見えなくなっていた。
 付き合いでキャバクラや風俗遊び、競馬、競輪などあらゆるギャンブルに手を出しもしたが、誠一郎はそれらのどれにものめりこむことはなかった。そのくせ誘いを断れず、給料はその月の終わりには使い果たしてしまうといった自堕落な暮らしを続けていた。
 女性との交際もなかった。そもそもどこにも主張のない顔立ちは女好きのするものではないし、肩が薄っぺらくひょろりとした背はさして高くもなく頼りなげな雰囲気を目立たせるばかりで、そんな男気を匂い立たせるような気概も気迫も感じさせない、ましてや金の匂いなど一かすめも匂わせない人間に、好意を持つような女などいるはずもなかった。
 上の弟が霞ヶ関勤めをはじめたとか、下の弟が大手町の名の通った証券会社に入社したとかいう母親からのめでたい知らせも、どことなく誠一郎に気を遣って言葉を選んでいるようで、そんな言葉の裏側に秘められた憐憫をいちいち感じ取っては、ひとりそんな祝い事から蚊帳の外に置かれた金尾家の長男は、内心忸怩たる思いで奥歯を噛み締め、ともすれば抑えられない激しい羨望をもって受け止めるようになるまでに変わり果ててしまっていた。
 なお悪いことに、ならば負けじと奮起し、努力するなどといった考えには決して及ぶことはなく、思考はすぐに、自分は何も成し遂げることができないという諦めが先走るばかりだった。
 自ずと、足は家に向かなくなった。家に帰れば、弟や親たちと、親族や近所の者たちと顔を合わせなくてはならない。もはやそれは恥をさらすことと同義だった。それまでも家に顔を出すのは盆暮れ正月だけとなっていたが、この年からは、彼はがらんとした独身寮でひとりきりで過ごすようになっていた。
 年明けて三日の午前十時頃、誠一郎は常磐線で上野に出て、そこから日比谷線に乗り換えて秋葉原に向かった。自分がたてる物音以外何一つ聞こえてこない寮で孤独に閉じこもっている自分の姿に、ついにいたたまれなくなって部屋を飛び出したのである。
 風音ひとつしない空からは小春の日射しが降り注ぎ、そのせいか街は、軒並みの初売りセールに群がる人々の嬉々とした賑わいに満たされ、ときおり神田明神あたりから流れてくる振り袖姿のお披露目もあって、ぱっと艶やかな華やぎを見せたりもしていた。
 以前に同僚と連れ立って訪れたときは、メイド喫茶だのアイドルグッズ漁りだのと、くだらないなりにもそれなりに楽しんだものだったが、いまの誠一郎はそれらのどれにも興味を覚えられず、早くもこの街に来てしまったことを後悔していた。
 昼時に牛丼チェーン店で腹を満たしたあとも、誠一郎はただぶらぶらと当てもなく街を行ったり来たりした。それにも疲れ果てると、雑踏の中、歩道のガードレールに腰を掛け、今度は街を行き交う人々を眺めはじめた。
 そのとき唐突に、誠一郎の脳裏にある思いが過ぎった――この人たちは誰に望まれて生きているのだろう?
 その問いは一瞬後には自分にも向けられた。
 自分は、誰に生きることを望まれているのか?
 みな自分がそこにいる意義を見出してこの瞬間を生きているのだろうか。自分は何のために生きているのだろうか。自分が、彼らが、いま突然いなくなったとして、誰が悲しむのだろうか。自分が死んだら、誰が悲しむのだろう?
(俺が生きていて、誰が喜んでくれる?)
 誠一郎は頭を抱えた。泣きたくなってきて、本当に涙が溢れそうになってきて、その女々しい姿を人に見られまいと頭を抱えこんで顔を隠し、しかし抗いようもなく襲ってくる震えを、嗚咽を押し殺そうとした。自分が情けなくてしかたなかった。同時に、これまでの自分の生き様に対する怒りが沸き起こってきた。しかし、どうすることもできなかった。目の前で絶望が口を開け、彼は一息に吸い込まれそうになっていた。
 そのとき、彼の時計は午後一時五十二分を回ろうとしていた。

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